4.1.11 Mrs.ミドールの長い一日 その十一
一悶着あったが荷馬車は定刻通りに停留所を出発し、学院都市の大通りを進んで行く。
歩車分離が進み、人力による交通整理も行われている地球の道路に似た造りの道路は、馬車を走らせるには快適であった。
「俺のいた街とは、えらい違いだな」
御者台の男が故郷を思い出し、そんなことを呟くほどには、この都市の交通インフラは整っている。
歩行者に道を遮られたり、馬車同士で道を取り合うこともなく、奴隷商人の一団は彼らの予想よりもずっと早く城壁の関所に辿り着いた。
先頭の主人が乗る馬車から下男が降りて、交易の許可書と品物が書かれた紙を衛兵に渡す。受け取った方はそれにしっかりと目を通す。他の街ではそう見ない生真面目な兵士に、男は一瞬ひやりとした。
けれども衛兵は書類を下男に返し、そのまま通るように手振りで指示を出した。主人いわく、高い金を出して手に入れたという偽造書は、効果を発揮したらしい。
(ここを抜けて落ち着いたら、バレないように楽しまねぇとな)
問題なく関所を通過できそうだと安堵したからか、男は反省の色も見せずそんなことを考えていた。馬の手綱を操作し、ゆっくりとした速度で馬車を進め、衛兵らの前を通ろうとする。そのときだった。
「…………なんだ?」
ちょうど二人一組の衛兵の前を通るときだった。馬車の荷台、密閉された箱になっているそこから、どんどんと壁を叩く音が響いた。決して大きい音ではない、だが側にいた衛兵が疑問に思うには十分であった。
突然背後から物音が鳴り、衛兵が反応したことに男がぎくりと小さく身を跳ねさせる。それを目敏く見ていた衛兵が、馬車の前に出て停車を促した。見れば、先頭の馬車にも衛兵が駆けて行っている。
間違いなく、状況が悪い方向へ転がっている。愚鈍な男にもそれは理解できた。が、それをどうにかするための知恵を身につけているわけではなかった。
どうするべきかを考える間もなく、御者台の脇に衛兵が近づいて来た。男を下から睨み上げるその目は、確かな疑心を持っている。
「おい、この馬車には生き物を積んでいないと書にあったが?」
「へ、へぇ、仰る通りで」
「だが今、明らかに中で何かが暴れる音がしたぞ」
「失礼ですが、そちらの勘違いではありませんかね……うちの馬車には、そんな怪しまれるような物はありませんぜ」
とぼけるように言う男だったが、話している最中に先ほどの女を思い出してしまった。横目でちらりと、背後の荷台に視線をやったのを、衛兵は見逃さなかった。
「いいや、信じられん。中を検めさせてもらう」
「そ、そりゃあ困りますぜ! そんなことしたら、俺が主人に殴られちまう!」
「なら、その主人とやらからの許可を貰いに行かせる。これを断るということが何を意味するのか、聡い者なら理解できるはずだがな?」
衛兵が隣にいた同僚に目配せすると、そちらはすぐに一団の先頭へ駆けて行く。男は顔面を蒼白させた。このままではまずい。なんとか誤魔化さなければならないと口をまごまご動かす。
「ご、ご勘弁くだせぇ、これにはうちの機密が入ってますんで、人に見られて言い触らされたりしたら、俺らが路頭に迷っちまいます」
「安心しろ、俺の名にある神に誓って不用意に言い触らしたりしない……中身によってはしかるべき場へ告げさせてもらうがな」
抗弁はそこまでだ、とばかりに他の衛兵が荷馬車の裏へまわり、戸を開けようとする。そのタイミングで再度、中から叩く音がした。
それがまるで外の様子を知っているようだと周囲の者が思うのは当然で、中にいるのが何なのかを推測し、正解に至るのも当然であった。
「……施錠を外してもらおうか?」
「い、いやそれは……」
それでもなお、男は衛兵に従おうとしない。業を煮やした衛兵は腰に下げた剣を鞘から抜くと、男に突き付けた。
「くどい! もはや言い逃れはならん、強引にでも開けさせてもらう!」
それが合図となり、荷馬車の裏に回っていた兵が剣で荷台の扉を叩き、施錠を無視して強引に切り開いた。ばらばらと戸の木材が崩れ落ちた先には、彼らの予想した通りの積み荷があった。
外から光りが射し、大きく開かれた出口の向こう。そこに見慣れた衛兵がいることを認めた御堂は、安堵の息を吐いた。
「作戦は成ったな」
これでもう脱出は成功したも同然である。助かったという状況が飲み込めていない子供たちに「さぁ、早くここから出よう」と促す。
子供たちが外にいる衛兵に抱えられて荷馬車を降ろされるのを見届けながら、側で御堂を呆けた顔で見上げていたエリムに微笑みかける。
「き、騎士様はすごいな……」
「言っただろう、助けてみせるとな」
ウインクまでして見せて「さぁ、俺たちも行こう」とエリムの背を押して荷台を出ようとした。直後、御堂の髪が掴まれ、思い切り後ろへ引っ張られた。
「ぐっ?!」
突然の暴力と痛みに、咄嗟に反応できなかった。そのまま髪に引っ張られ顎をあげた御堂の耳元から、怒声が鳴った。
「てめぇ! よくもやりやがったな!」
それは御堂の背後、御者台側の戸から入ってきた男の声だった。自分が策にはめられたことに気付き、怒り心頭で自棄になっている。
ぎょっとして荷台に踏み入ろうとした衛兵に見せつけるように、男は短剣を持つ手を御堂の首元に近づける。
一番近くにいたエリムも、顔を強ばらせ動けずにいる。
「近づくな! 来たらこの女ぶっ殺すぞ!」
「落ち着け! そんなことをしてもお前たちはどうにもならんぞ!」
衛兵の一人が言った通り、この男の主人がいる先頭の馬車も、すでに他の兵が向かって停車させているはずである。男がしていることは悪あがきでしかない。だが、周囲で衛兵らの想像していなかった騒ぎがあった。
「せ、先頭が制止を振り切った!」
なんと、奴隷商人がいる馬車が衛兵を轢き殺さんとばかりに急発進したのだ。そして二台目から飛び降りて巧みに御堂らのいる馬車の御者台によじ登った別の男が、手綱を勢いよく馬に叩き付けた。
衝撃を受けて馬が走り出し、馬車が動き出した。すぐに人の足で追いつけなくなることがわかるように、出口から見える景色が早くなる。
「っ、エリム! 早く飛び降りろ!」
「け、けど騎士様――」
「てめぇは喋るんじゃねぇ!」
激昂した男が短剣の柄で御堂の顔面を殴りつける。あっと身を浮かせたエリムに、整った顔を鼻血で濡らしながらも御堂は叫ぶ。
「早く逃げろ!」
その声で、エリムは弾かれるように駆けて加速しつつある荷馬車から飛び降りた。恩人を見捨てて逃げることにこれだけ勇気が必要だとは、幼い少年は思いもしなかった。
その小さい身体が、地面を転がりながらも無事に外へ逃れたのを見届け、小さく安堵した御堂を、男は床に叩き伏せた。
「ぐっ……!」
「このクソアマ! 人が良い目で見てやれば、とんでもねぇ奴だ!」
苛立ちを隠さず床に倒した御堂の後頭部を、男は何度も蹴りつけ、踏みつけた。
「おい、商品に傷をつけるなよ!」
「るせぇ! こいつのせいで全部台無しにされたんだ、売る前に思い知らせてやる!」
御者台からの忠告も無視して、男は御堂の長い黒髪を掴み上げる。強引に上げさせられた顔には鼻血が付着し、一見すると惨めに思える。だがその瞳には怯えも恐怖もなく、ただ男を威圧するかのような凄みがあった。
それが先ほど自分の前で誘惑するように喘いで、今さっきまで暴力を受け入れていた女と同じものだとは思えず、男は不気味に思った。
「な、なんだその目は! 生意気だな!」
威勢をあげて、男は再び柄を叩き付けようと腕を振るい上げる。もはやこの男の中では、全ての元凶であるこの女を暴力で屈服させ、辱め、無残に殺すことしか考えられていない。
それを実行するため、振り上げた拳を整った顔面に叩き付けようとしたそのとき、外から轟音が聞こえて、馬車が大きく揺れた。




