★教会1
★
正午の鐘が、教会堂に響き渡ると、ベンチに掛けていた子供たちはみな一斉にそれぞれの仲間たちを数人引き連れて、廊下を駆けて外へ出ていった。
壇上のシスターはその光景をぼんやりと眺めながら、すっかり満足しきった様子で台の上に開かれた書物をゆっくりと閉じて、それを赤子のように大切に抱え持って、壇から降り裏手へと回っていってしまった。
★
少女は教会を出ると、広場で戯れる子供たちを横切って、通りを下っていく。
通りを下り、草原へとたどり着く。
「やいやい」
どこからか聞こえてくる子供の声に少女は思わず身を隠す。
それも複数の声。
丘の向こう側に子供たちがいるようだ。少女はそっと耳を傾ける。
子供たちの話し声と、木の実を齧るような音が絶え間なく聞こえる。
少年A「もっと乗れるぜ、お前たち」
少年B「ほんとうだ」
少年A「お前も乗れよ」
少年C「ごめん。ぼくはやめておく」
少年A「ちぇ。つまんないの」
少年B「気にすることないよ、こいつ、きっと怖いのさ。こいつは意気地なしだ」
少年A「いやいや、そりゃないぜ。だってのろまの、ろまだぜ。こんなのに乗れないのはいくらなんでもないぜ」
少年B「はは。ろまに乗れないやつなんて聞いたことねえや。こいつの臆病もほんものだよ」
少年A「ほらほらのろま。動けよ、のろま。のろまの、ろま」
★
少女「いますぐこの子からどいて。おばかたち」
少年A,B「で、でた」
少女「はやくこの子からおりるの、おばかたち」
少年A「いやだね。だいいちどうして君のいうことをきかなきゃならないんだい」
少年B「よせよ。こいつはさ、きっとろまが好きなんだよ」
少女「うん、好き。私のともだち」
少年A「いまの聞いたか?」
少年B「ばっちりさ。けっさくだ。みんなに広めてやろう。あかい目をしたくさいのろまが好きってね」
少女「だまっておばか」
少年A「じじつをいって何が悪いんだい。ばかは君だぜ」
少女「おおほらふきはあなたたち。この子はのろまじゃない。お空だって飛べる。」
少年A「おいおい。いったいなにいってるんだお嬢様」
少年B「お嬢様」
少女「だまるの。なにもしらないおばかはあなたたち」
少年A「そうかい。だったら見ろよ、のろまの姿をさあ」
少年B「やめてやれよ。きっと、この女はずっとひとりでいるもんだからあたまがおかしくなっちゃったんだ。
ろましか友達がいないんだ」
少女「この子はあなたたちとは違ってうんとすごいの。なんでもできるの」
★
「良かったのでしょうか?お忙しいところお邪魔してしまって」と僕は言った。
「とんでもない。どれもこれもすべて私の使命なのです。こう言っては少し生意気ですが、あの子たちは私の子供たちでもあるのですから」
とシスターはにこやかに言った。
「生意気などとはまったく思いません。それを聞いたらあの子も飛んで喜ぶでしょう。なにせあの子には母親がいない」
「母親、ですか?」
「失礼。思わず変な事を口走ってしまいました」
「いえいえ。私、自分が母親みたいだなんて、どなたからも言われたことがなかったもので、ついつい」
「ははは」と僕は笑った。
「でも、それですと、貴方様と私は結ばれているということに」
とシスターが言うなり、僕はシスターがいれてくれたミルクティーを飲んでいる最中で咽てしまった。
「どうなさいました?」
シスターは慌てて胸ポケットからハンカチを取り出して、ぼくに差し出してくれた。
「大丈夫です。ご心配をおかけしました」
「もしかして、私、何かへんなことを言ってしまいましたか?」
「いえ、決してそのようなことは」
「遠慮なさらないでください。私、時々同僚のシスターからも言われるんです。お前はとても変わってるって」
「私はまったくそうは思いませんね。いまだってそもそものはじまりは僕の発言です。変わってるのは僕の方でしょう」
「お優しいのですね」
「ありのままを申し上げただけです」
と僕は言った。
★
「周りの子供たちとうまくやれていない、ですか」僕はシスターの言ったことを反芻するように言った。
「はい」シスターは少し悲しそうな顔で頷いた。
「やはり、そうですか」僕は頭を抱えた。
「そのようなお顔をなさらないでください。これもすべて私の責任です。娘様はとても聡明で思いやりのある子です。
思うのですが、ひょっとしたらあの子は、他の子供たちとは違った特別な何かをお持ちなのかもしれません」
「特別な何か、ですか」
「とても不思議な子だと思います。私もあの子と直接お話しさせて頂くことがたくさんあるのですが、そのたびに言葉では言い表せない、なんとも不思議な雰囲気になるのです」
「何かに包まれるような不思議な」と僕は反復した。
「はい。なんというのでしょう。あたたかくて、少し眠たくなるような」
「冬場の暖炉にいるような」僕はそう思わず呟いた。
「かもしれません」
「春の陽だまりのような」
「そうですね」
「温かいミルクティーのような」
シスターは目を見開き、どうしてわかったのだというような顔で僕を見た。
(雑多な喩えも、数を打ったおかげで少しは的をかすめてくれたのだろうか?)
「こう言っては親馬鹿に聞こえるようですが、あの子が時々私に入れてくれるミルクティーはとても美味しいのです」と僕はなだめる調子で付け加えるように言った。
「そして貴女の入れるミルクティーも、それと同じような味がする」
シスターは顔を赤くして僕の方をじっと見つめた。
「失礼ですが、私は貴方様のことも、だんだんと知りたくなってきました」
「お心に留めて頂き痛み入ります。しかし、私などには勿体なきお言葉でございましょう」
と僕は言ってミルクティーを啜る。
「ごめんなさい。娘様の話に戻しましょう」とシスターは慌てて言った。
「そうですね」と僕は言った。
★
「僕はですね。なによりもあの娘が他のお子様に迷惑をかけてしまっていないかが気がかりでなりません。彼女はどうしても頑固というか、いう事を聞かない部分があるのでね」
「そうですね」とシスターは苦い笑いを浮かべた。
「しかしこう言っては無責任に聞こえるかも知れませんが、ご心配には及ばないかと存じます」
「え?」と僕は発した。
「教会のことは貴方様もよくご存知でしょう?」
「はい、少しは」と僕は言ってみた。
本当のところはほとんどよくわかってはいないのだが。
「今一度復習しておきましょう」とシスターは僕の目をじっと見て言った。
「この世界の人達は皆、幼少期よりここ-教会-で生活を共にするのです。それはご存じでしょう?」
「はい。この世界の人たち皆」と僕は繰り返した。
「はい。そして-個人差はありますが、少なくとも大体十年くらいの間は-皆さんここへ通い続け、十分に教えを学び取ったのち、おのずとここから出てゆくのです。
だからこそ教会を去られた後も規律に従い、きちんと行動できるようになるのです。それは近い将来、あの子も例外ではないのです。
まだお若いですので、いくらかの違和感を覚えておられることは確かですが、教義を受けて、規律を知ることで、必ずやご立派に成長なさるでしょう。
周りに溶け込むことができない(これはほんの些細な悩みになるかと思われますが)ということだってもちろん起こらなくなるのです。
そうなるべく、教えを全ての方々に(一人の例外もなく)施すのが私たちシスターの大きな使命でもあります」
「正しい導き、規律というのは、具体的にはどのようなものなのでしょう」と僕は訊ねた。
シスターは一瞬、何を言っているのだという表情で僕の方を見た。
「それこそ、この世界を造りしお方が、長きにわたり皆さまのあるべき理想の姿を啓示してくださっているわけですよ。そして、私たちシスターは世界を作りしお方の導きを
を日々読み解き、教義で、皆様に日々伝えていきます」
「世界を造りしお方の導きを読み取り、それらを伝える。なるほど」
「これらのことも本当は全て教義で習うのですが。あなた様はいったい?」
「いや近頃、どうにも物忘れがひどくてね」
「いけません」とシスターは言った。
「私たちの日々の営みは、すべて世界を造りしお方の御心の上にあるのですよ。よりにもよってそのような大切な事をお忘れなどもってのほかです」
「ごめんなさい」
「いえいえ、貴方様は決して悪くないのです。ありとあらゆる世界の不条理は全て私たちシスターが至らぬせいで起こっているのでしょう。あのお方の教えを我々が正しく
伝えていなかったからでありましょう。どうです?今一度ここで教義を受けていかれてもよろしくて?」
「勿体ない話ですが、今は遠慮しておきましょう」
「遠慮なさらないでください。席にも十分に余裕がありますし、お子様たちは勿論、立派に成長された方々も教義を受けるべく、毎日たくさんここにいらっしゃっていますから」
「それじゃ考えておきましょう」と僕は言った。シスターはむっとした顔で僕の方を見ると
「いつでもいらしてください」と言った。
「はい」
「ところでここからは私事といいますか、いま少しばかり貴方様について気になっていることがございまして」とシスターは申し訳なさそうに僕に言った。
「なんでしょう?」
「あの、ほんの少しだけ、私の目を見てくださいますか?」
「目をみればいいのですね。わかりました」
と僕は言って、じっと彼女の瞳をみる。
その瞳が僕の中にある何かを探そうとしているのがわかった。
ぼくも彼女の瞳から何かを見つけ出そうとした。
その時、彼女は突然息をあげ、声をもらす。
「なにか?」
「いえ、なんでも。しかし、そのようなことは」
と彼女は狼狽しきった様子で、独り言を漏らし、慌てて僕の目をそらし、すぐ下のテーブルに視線をやった。
「あの。(これで最後になりますが)たび重ねて失礼なことをお聞きいたしますが、よろしいでしょうか?」
とか細い声で早口に言う。目線は相変わらずテーブルにある。
「どうぞ」
「貴方様は、あの子の本当のお父様であられますか?」
僕は突然の彼女の問いかけに対して、なるべく動揺を彼女に悟られないように注意を払った。
「突然このようなことをお聞きしてごめんなさい。しかしどうしても気になったもので」とシスターの方から動揺しながら、付け加えるように言った。
「いえいえ。実を言うとですね。それ-あの子が僕の娘であるかどうか-は僕にもわかりません」
「わからない?」とシスターは反復した。
「はい。今まで本当の事を申し上げなかったのですが、私にはつい一年前のことを思い出すことができないのです」
「……。そうでしたか、それで教会の事も何も」とシスターは、軽く頷いた。
「はい。しかし、あの子は私の事を父親だと信じているようです」と僕は言った。