☆列車と無音の世界
☆
せかいはやみにみちている。
そう形容するのがまったくふさわしいように思う。
一人、また一人とここへやってくる囚人達がいれば、決まって外へと出されていく囚人達がいる。
それがせかいの規則だ。
せかいの不条理は、いつでも大きな法則と因果によって蠢いているのかもしれない。
囚人達は皆、俯き、何かが過ぎ去るのを待っているだけだ。
ある囚人の衣服ははだけ、背中には剥げた塗装のように、ピンク色の大きな火傷の跡が露わになっている。
伸びきった髭は、暗闇の牢に同化している。
まるで海底の生物のように、地上の支配に抗うことをしない。ただ闇との調和によってのみ彼らの自我が保たれているようにさえみえる。
☆
僕が救済という言葉を知ったのは、十一才のときである。
私たちが生きている限り、それは誰にだってあるのよと母が言ったとき、僕はそれの言葉の意味をたちまち理解した気になれた。
あるいはそれはずっと前から、何万年、何億年も前、生命が誕生する前から、地中深くに眠る楽器の如くこの星には確かにあって、僕たちは言うなればその楽器の音を探り、音楽を奏でるみたいにして、後世に紡いでいるのかもしれない。
しかし、どれもそれもすべて過去の記憶だった。
☆
止むことのない悲鳴こそが、僕らの日常だ。
安息のない日常においては、世界の終りこそが唯一つだけの救済だとわかる。
泥のように淀みきった歪曲したせかいは、僕たちを何者にもさせてはくれない。
あまりにも苦しいことだ。
日々の肉体の悲鳴など問題にならないほどに苦しいことだ。
☆
「どのみちやつらには絶望しか待っていないわけだ」と友は言った。
「ああ」僕は頷いて腕時計に目をやる。
「そろそろお時間ですかい?」と友はからかうような口調で言う。
「いや、もう一杯」と僕は言って空になったグラスをそっと真上にあげてみる。
「おお、そうこなくちゃ、と言いてえところだが、この辺でやめとこう。仕事前はほどほどでなきゃな」
「ああ。そうだな」僕は我に返ったように言ってみた。
「なんかあったか?」と友は言った。
「いや、なにも」と僕は言った。
「牢でのことは気にするな。(お前は牢にはあまり来ないから面食らったと思うが)やつらは俺たちとは違う。たまたま俺たちと同じような形をして、同じ空気を吸っていると言うだけで」
「やめてくれ」
「俺たちはやつらとはまるっきり違うんだ」
「わかってるよ。だからその話はやめよう」
場に沈黙が流れる。
店の主人はそんなカウンター越しの様子を気にもせずに、もくもくとグラスを拭いているのが目に入った。
「そろそろお仕事いってまいりますわ」と友人は言って
「お前もせいぜい無事でな。車内も物騒だが、地上は寒く、厳しい」と笑いながら僕の肩を大きくたたくと、彼は早足で隣の車両へと去っていった。
「もう一杯ついでくれないか?」と僕は主人に頼んだ。
「かしこまりました」と主人は穏やかな目でこちらを見て、グラスに赤ワインを注いだ。
僕はこれを飲み干したあと、今日の任務にあたろうと決めた。
☆
列車の中を渡り歩いて、「機械室」へとたどり着く。
機械室というだけに、ここの車内は至る所むき出しになった機械部品で覆われている。
それらを隠そうとする気など、さらさらない。
壁に設けられたいくつものタービンからは、絶え間なく熱風が吹きつけてくる。
横にどっしりと設置されている大型ポンプ装置からは、赤いランプがほのかに点灯しているのが確認できる。
装置は、かすれたような小さな高周波音を延々と出し続けている。
天井を見ると、ほこりを被ったような灰色の塗装の下に太い黄土色のダクトが巡っている。
ネズミの一匹や二匹通っていても何ら不思議ではない。
床一面は金網でできており、その下にはいくつもの小型歯車がせわしなく動いている。
僕は錆びた金属の壁に設けられた銀色の足場に乗り、上へとのぼる。
通気口に到達すると、そこに頭から入り、匍匐して、地を這うミミズのように通気口の中をゆっくりと進んでいく。
機械室を支配していたありとあらゆる機器の作動音がだんだんと耳から離れていく。
そして、次第に肌寒くなってくる。
淀んでいた空気が、透き通っていくのがわかる。
こうして、列車の屋根へとたどり着く。
☆
列車の屋根、そこは無音の世界。
満天の夜空と白い大地の狭間に、僕はいる。
僕はひとまず列車から離れて、雪山へと向かった。
☆
悪臭が立ち込める牢。
超大編成の列車内を延々と渡り歩き、囚人達の箱舟へとたどり着く。
同じ列車のなかとは思えない。
辺りを不気味な静寂が支配している。
軍服を着た中年の男たちは口も開かず廊下をゆっくりと注意深く歩く。
皆、個性のない機械のように、早足で黒い檻の中を確認する。
口を開くものは誰もいない。
檻の中から時折小さないびきが聞こえてくるだけである。
そのとき、一人の軍服の男が檻の前で立ち止まる。
その視線の先には小さな子供。
寝静まる中、じっと虚空を見つめている。
小動物のようにくりくりとした丸く小さな赤い目で。
男は同僚たちの方を見やると、みな一斉にそこへ向かって、子供の方をじっと見て皆一様に頷く。
そして、ポケットから小さな手帳を取り出し
「xx1y153a-チェック」と言って読み上げた文字列を記入する。
☆
山の頂きからは、列車がよく見える。
一つ一つの車両たちが、雪原の上を、群れを成す太古の生物のように、のろのろと、息遣いの一つなく動いている。
まるでジオラマでも見ているような気分になる。
ついさっきまで僕を運んでいた列車とは思えない。
それはあまりにも巨大な軍事要塞だった。
遥か彼方までずっと続く列車の編成と、遠方に聳える連峰、澄みきった夜空に浮かぶ星たち。
それらの光景は「無限」を思わせる。
列車は一体どこへ向かっているのだろう。
線路はどこまで続いているのだろう。
☆
コートのポケットから望遠鏡を取り出す。ポケットに入るくらいのものであることから容易にわかるように、大層なものではない。
物心ついた時から手元にあったものだ。
いつの日か、僕が幼いころの誕生日に父が買ってくれたものだったように思う。
任務にあたるときは大体これを使うようにしている。
上から与えられた特注のレンズでも良いが、別段これで困らないからだ。
僕は息を潜めて、望遠鏡越しにジオラマの世界を眺めた。
その時、首筋から息遣いが聞こえてくる。
はっとして振り返る。しかしそこには誰もいない。
目を瞑って、全身の神経を集中させる。
(はて、この静寂と虚構の世界に僕以外の人という人が存在しているというのか?)
目を開ける。
すると、そこには見たことのない一人の少女がいた。