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平成28年12月5日、私の人生は『転落』した。
元々、私は後厄だったのだが、とある事情でお祓いはしていなかった。要するに面倒だったのと、ステップアップするために仕事を変えようと思い、同年の三月に、慣れ親しんだ退職したのが、そもそもの間違いだった。
東京に来て初めての職場。
最初は田舎者の方言でスタッフのごく一部に笑われ、それでも持ち前のスキルで高齢者の心は掴んでいた。
ただ、やはり仕事をしない上司と、公私混同する上司に腹が立ち、ここではもう働けないと次の職場を選んだ私は、すぐさま悲劇にあった。
新しい職場は、私が当初望んだ耳鼻科ではなかった。
詳細を書くとネットの世界というものは恐ろしいので割愛。
ここでの仕事はブラック企業と言える程のスタッフの入れ替えの速さで、私ともう一人の仲間、新人四人で配属されたが、僅か二週間で一人ドロップアウト、もう一人は震災を切欠にUターン。
この時もスタッフは心無い言葉を浴びせていたのを覚えている。
震災で胸を痛めている新人に対して言う言葉だろうか、まして看護という職業で、親やおじいちゃんが心配で眠れないと言う21歳の子に優しい一言もかけてやれないのか。
私はステップアップの為に転職をしたのに、何も教えてくれない中堅スタッフと、意地の悪いドラ●もんと、ミスを人の所為にして責任逃れをする面々に辟易して僅か3ヶ月で退職した。
辞める切欠となったのは、昔呼吸器内科時代に無理をして発症した、頚椎ヘルニアの再発もある。
医療従事者なら分かることなのだが、我々は自己の管理が甘い。
辞めると決めた日、私は夜勤明けだった。
休憩時間もなく、約18時間ぶっ通しだ。これだけ書けばどれ程恐ろしい場所にいたのかと思う。
しかし実際夜休憩もなく、仮眠も取れず、よく働いた方だと思いたい。
スタッフは足りない、リーダーは記録を書いている、点滴とドレーンは全てこちらで回る、排泄処理も我々フリーの仕事だ。
翌朝、患者の排泄処理を一人で行っていた所、左手の痺れと感覚が無いことに気づき、さらに朝になって日勤スタッフからドレーンがおかしいと言われた。
その日は派遣看護師と夜勤で、もう一人のリーダーはチェックしていなかったのだ。
命に関わる事を、責任逃れで何もタッチしていない私に全て罪をなすりつけた、インシデントレポートも書かない、こりゃいかんと思ってあの日即部長の所に駆け込んだ私は誰かが背中を後押ししてくれたのだと思う。
多分、あのまま私はあの病院で働いていたら、死んでいた。心が。
ひとはなかなか死にたいと感じても未来を見ることが出来るので踏みとどまれる。
しかし、身体は生きていても、心が死んでしまうと、なかなか復活出来ない。
私は東京で頼れる存在はいなかったので、仕事を辞めた後、ひたすら泣きながら地元に帰るか考えた。
何のために東京に来たのか?
姉にも落ち着くまでこっちに来るか?と優しい言葉をもらったが、私は子供が三人いる姉夫婦の家庭を壊したく無かったので、一人でいることを選んだ。
幸い、ヘルニアはひどくなかったので、すぐさま生きていく為に新しい仕事を探した。
人の縁というものは有難いもので、前の職場のスタッフが、新しい仕事どう?と食事に誘ってくれた。その時に、前の職場もスタッフが足りなくて困っているという話を聞き、私はすぐに部長に連絡をした。
バイトでいいから使ってもらえませんか?と
3ヶ月前に辞めたのに、また戻るなんて情け無い。プライドの高い私はどんな顔をして戻ればいいんだと。
しかし、師長も変わり、スタッフも変わり、そして医者もリハスタッフも、仲良くしてくれたコも、私を優しく迎え入れてくれた。
「戻ってきたらいいのに」
「戻ってきてよ」
「違和感ないし(笑)」
その言葉に、私はマスクをしたまま涙を堪えるのに必死だった。
戻りたい、どうして馬鹿なことをしたのだろう。
あの時は、ちょっと嫌な人がいて、リハの中堅とカンファレンスで意見が食い違って、私は患者の為に意見してもリハビリと相違があれば上手く行かない。
だから辞めたのだ。
あいつがいれば、また同じ方向を向いたプランが立てられないから。
それ以外は人間性も、仕事も、全く不満なんて無かった。
後悔しても遅い。
私は自分で辞める決断をしたのだ。
悔いはあるが、これも次のステップに必要な事だと思い、私は七月、五回だけ慣れ親しんだ職場でバイトの日々を過ごした。