旅行
海辺にある老舗ホテルに一組のカップルが到着した。
「わあ 綺麗な部屋ね。絵がいっぱい飾ってあって、まるで美術館みたい」
「そうだね。長旅で疲れたろうから君は少し休んだらいい。僕は少し散歩してくるよ」
男がしばらくして戻ってくると、夕食の時間を待つ間、二人はゆっくりと部屋で過ごすことにした。
「あと一時間位あるわね。ちょっと退屈」
「そうかい、それなら少し話をしてあげようかな」
「えっなになに なんの話?」
「かなり昔の話なんだけど……」
ある小さな島に母と娘の二人だけの家族が住んでいた。とても貧しく、その日の食べ物さえ満足に得られない生活だった。
それでも母娘は幸せな毎日を送る。
体が弱く病気がちな優しい母を、元気に手助けする素直な娘。どんなに苦しくても、いつも二人は笑顔でいられた。
それは、お互いの存在が唯一の宝であると心から感じ合い、常に支えあっていたからだ。
だがそんな幸せも長くは続かない。
とうとうお金も無くなり、娘は島を出て、街の金持ちの屋敷へ奉公に出される事になった。
「ごめんね……お母さんの体のせいで……本当にごめんなさい」
「大丈夫だよ、お母さん。心配しないで」
島を離れる日、娘は母から靴を渡された。縄で編んだ粗末な手作りの靴だったが、娘はそれに履き替えると精一杯の笑顔で母に別れを告げる。
「お母さん。必ず帰って来るからね。そしたらまた一緒に暮らそうね」
気丈な娘を前に母は膝を折って泣き崩れ、ただひたすらに謝り続けた。
体の弱かった母は娘のためにいつも無理をしていた。それを誰よりも理解する娘。
娘は小さく丸まった母の体を抱きしめると、抑えていた感情が溢れだし、声が枯れるほど泣いていた。
「謝らないでお母さん。今まで本当にありがとう」
母の全てを理解している感謝の言葉……
恨みもつらみも無い、心からの想いを言葉にすると、娘は最愛の母と別れ島を後にした。
屋敷に着いた後も、娘の生活は過酷を極めた。無関心な屋敷の主人、高圧的な女中頭、仲間になるはずの女中達からは、陰湿ないじめを受け続ける。
元来おとなしい性格の娘は慣れぬ環境も相まって、半ば怯えるように生活していた。
「うぅ……」
夜になると娘はいつも泣いていた。過酷な労働によりボロボロになった母からの靴を抱えながら、古郷を想い母を想い、寂しさに身を震わせていた。
それでも娘は精一杯頑張った。まじめで素直な性格は、与えられた仕事を完璧にこなし、手を抜くことも皆無であった。
「何よあの娘……ひそひそ……」
だからこそ同僚には妬まれた。整った顔立ちも悪い方向にしか向かわない。仕事が出来る美しい少女はまわりの劣等感を煽り、おとなしい性格も災難を生む。
数々の嫌がらせをはじめ、他人の失敗を自分のせいにされたり、逆に自分の完璧な仕事を他人の手柄にされ、屋敷の主人に報告されたりもしていた。
そのためか、主人は娘の事を、ただの怠け者の役立たずとしか思っていなかった。
「困った娘だ……」
だが屋敷の主人は決して悪い人間ではない。
何事においても無関心で、自分の考えを持たず、右にも左にも流される、日より見的な男。
娘が来て以来、屋敷の生活が日に日に快適になっていくのを肌では感じていたが、その理由までは考えない気の回らない性格だった。
そんな日々故に、娘は疲弊していく。
少なかった口数は更に減り、心は壊れる寸前まで追い込まれた。
そんなギリギリの娘を母の存在が守り続ける。
いつか母に会える。また母と二人楽しく暮らせていける。その想いだけが娘の心を保たせていた。
だが厳しい現実は突然襲って来る。
娘宛てに島から一通の手紙が届き、その内容を読むと娘は腰から砕け落ちる。
母が倒れ容態もおもわしくなく、何よりうわ言で娘の名を呼んでいると……
娘は手紙を握りしめ、大粒の涙を流しながら屋敷の主人に懇願する。
「お母さんが倒れて大変なんです! どうか、どうか島に帰らせて下さい」
「好きにしたらいい」
主人のこの態度は残酷なものであった。お金も船の当てもない一人の少女にとって、あまりに酷な仕打ち。
主人は誤解をしている。目の前で涙ながらに懇願する少女を、怠け者の役立たずと信じ込んでしまっている。
元々の思慮の浅い性格も相まってか、これ以上のことは決してしなかった。
……その夜、娘は屋敷を飛び出した。
頭の中は母でいっぱいだった。母の優しい笑顔だけが脳裏に浮かび、母への想いだけが娘の体を突き動かした。
わかっていることは海の向こうに島があること
。海の向こうに母がいること。
娘は走った……
息も切れ自分の体が悲鳴をあげていても、何も感じることはない。母との再会のみが娘を支配し凌駕していた。
海へ、海へ、ただひたすら海に向かって走る。
渡航のすべも知識もない娘が、母への想い、ただれだけで足を海へと向かわせていた。
ボロボロになった靴は更に底をすり減らし、もはや裸足で駆けているのと変わりはない。足から滲み出る血が、大切な靴を赤く染めていく。
普通の少女なら とうに限界を越えていよう、そんなときにとうとう海岸に到着する。
汗と涙が入りまじり顔をくしゃくしゃにしながら娘は海岸に立ち尽くすと、赤く腫れ上がった小さな丸い瞳で、沖を真っ直ぐと見つめていた。
娘の目には母の姿しか映っていない……
まわりの景色も波の音も娘には入ってこない。優しい母の笑顔だけが娘には見えていた。
「おかあ……さん おかあさん」
海の向こうに母がいる。娘は一歩、また一歩と沖に向かって歩を進めた。
母への想い。ただそれだけに支配された娘の足は止まらない……
「おか……あさん あいに……いく……よ」
その頃、屋敷の中でも娘がいなくなったことが騒ぎになっていた。母親の件で娘が海に向かったのは皆の知るところであった。
さすがの主人でさえソワソワが隠せずにいると、一人の女中が声をあげた。
「ご主人様、申し上げたいことがあります」
心ある女中だった。今まで娘に対してしてきた酷い仕打ち、虚偽の報告など、仲間の悪行を全て吐き出した。
「だから、だから悪いのは全て私達なんです!
どうか彼女を母親に会わせてあげて下さい」
何人かのすすり泣く声が聴こえる中、主人は屋敷を飛び出すと馬を走らせた。
主人は後悔する。劣悪な環境の中、娘は身を粉にして尽くしてくれていた。誰よりも勤勉で誰よりも気がきいて誰よりも優しかった娘に対し自分は何も返せなかった。
それどころか泣いて懇願する娘を突き放した……
主人は神に祈った。己れの浅はかさを呪いつつ、娘の無事をひたすらに祈った。
主人は海に到着すると、海岸を走り回り娘を必死に捜した。娘の名を叫びながら駆け回って捜索を続ける。
「頼む……頼むから無事でいてくれ……私に償わせてくれ……」
どれだけ捜しても娘は見つからない。体力も限界をむかえ、その場にへたりこむと、沖の方に何かが浮かんでいるのが見えた。
それはゆっくりと海岸に流れ着く。
主人は流れ着いたものを手に取ると、抱き抱え膝をつきながら、悲鳴にも似た雄叫びをあげる。
「うわあああああぁぁ」
主人は手作りであろうボロボロの靴を抱え、夜が明けるまでその場で泣いていた……
………………
…………
「ひっく、ひっく、それでどうなったの」
「主人は明け方、倒れているところを街の人に助けてもらった」
「それで」
「自殺した」
「……えっ」
「介抱されていた部屋で誰もいなくなった時に首を吊ったそうだ」
「……なんだか救われないわね」
「そうか、ならもう一つ話をしようか」
「なっ何よ突然」
「変態が女の子を部屋に監禁したんだ」
「……」
「変態は言った。ここから解放する以外の願いなら聞いてやるって」
「ちょっとあんた、頭大丈夫?」
「ただし、願いを一つ言うたびに指を一本もらう」
「なんの話してんのよ」
「女の子は激痛が走るほどきつく縛られていた為に変態にお願いしてしまう。 縄をほどいて欲しいと……」
「……まさか」
「変態は縄をほどくと、女の子の左手の小指をナタで切り落とした」
「ぎゃーっ」
「女の子は次に電話をかけさせてくれって頼むんだ」
「おお 頭いい」
「変態は薬指を切り落とした後、その願いは聞けないって」
「何それ、理不尽極まりない」
「女の子はあまりにも痛かったから今度は指を切らないでくれって頼む」
「そりゃそうだ」
「変態はわかったと一言、言うと 代わりに女の子の首を切った……おしまい」
「……」
「どうしたの?」
「どうって、あんたさっきから何の話してんのよ。おかしいよ」
「おかしくないよ、この二つの話には共通点があるでしょ」
「そんなもの無いわよ! 全然関係ない話じゃない」
「あるさ、屋敷の主人が自殺した部屋と女の子が首を切られた部屋」
「……んっ、どういうこと?」
「君、確かこの部屋に入った時言ったよね。
絵がいっぱい飾ってあって美術館みたいって」
「言ったわね」
「確かにおかしいよね。この絵画の量は……
どれか一枚、絵をひっくり返してみなよ」
女は立ち上がると壁にかけてある絵画をひっくり返した。
「きゃーっ」
絵画の裏には 御札がぎっしりと貼られている。
「……ねぇ……まさかこの部屋って、さっきの話の……」
「そうみたいだね。さっき散歩に行ったときに聞いたから、まず間違いないよ」
「そんなこと聞きに散歩行ってたのかい」
「だって格安だし、この絵画の量は異常でしょ」
「……」
「まあこれも、いい思い出になるさ」
「なるか」
おしまい……