ドク・ヴァンパイア
「葉子、ドッグイヤーって知ってるか?」
英単語帳をめくっていた北野東青が不意に尋ねる。
「ドッグイヤー? ほら、こんな風に本の隅を折って栞代わりにすることでしょ」
電動リクライニングベッドを背もたれにして本を読んでいた南方葉子は、文庫本につけていた折り目を東青の目の前に差し出す。
葉子が体を傾けた拍子に、ボリュームがあるのにまるで重さを感じさせないストレートの黒髪が滑り落ちる。
東青が文庫本を受け取ると、確かに三角形に折れたページの端が垂れた犬の耳のようだ。
「いや、これはイヤー違いだ。耳じゃなくて一年の方だよ」
ベッドの傍らのパイプ椅子に反対に腰を下ろし、背もたれに両肘をついた東青は、詰め襟の学生服姿のまま穏やかな声で返す。
寝室と言うには広すぎる室内は、手の込んだ調度品で豪奢に、しかしスッキリとまとめられており、そこに持ち込まれたパイプ椅子はひどく場違いに見えた。
「犬の一年……。どういう事?」
素直に葉子は聞き返す。東青は知識をひけらかす風でもなく静かに答えた。
「犬の一年は人間の七年に相当するらしいんだ。だから仔犬は二、三年で成犬になるし、十歳も超えればずいぶんな年寄りになる」
「そう考えると動物の命は儚いものね」
一つうなずくと東青は言葉を継ぐ。
「あいつらにとって人間はどう見えているんだろうな。自分の子供や孫の代を過ぎても変わらず接してくる相手は、永遠に生きているように見えるのかな」
「そうかもね。マリーは十二歳まで生きたから、人間で言えば大往生ね」
「あいつとは兄弟みたいに一緒に育ったけど、数年で大人になって仔も産んだマリーにしてみれば、いつまでも子供のままの俺は出来の悪い弟みたいに思ってたかも知れないな」
その時コツコツと控えめなノックの音が響いた。東青は露骨に渋い顔をし、一方葉子は肩のショールの乱れをそそくさと正した。
葉子の返事を待たずドアが開いた。現れたのは背の高いヨーロッパ系の男だ。ワイシャツの上には白衣を羽織っている。
「北野くん、今日も葉子さんの話し相手に来てくれてありがとう。廊下まで話し声が聞こえていたよ。何を話していたんだい」
背の高い男——フランツ熊楠は、室内をちらと目で追うと、整った顔立ちには似つかわしくない相好を崩した笑顔で話してくる。
「大したことじゃないですよ。俺の家で昔飼っていた犬の話をしていたんです」
「君たちなら話題の種は尽きないのだろうね。僕などは元来人付き合いが下手なものだから羨ましいよ」
熊楠は言外に二人が遠縁で家も隣同士の、同い年の幼馴染みである事を匂わせる。そのくせ熊楠自身の本心はなかなか見せない。
「先生はいつも紳士だし、背も高くて格好良いから女の人が放っとかないでしょう?」
葉子が熊楠にぎこちない笑顔を見せフォローする。色白の頬はわずかに上気している。
「いや、それがなかなか。僕は女性の前では固くなってしまって、舌も回らないんだよ」
「えー、それって私は女性のうちに入ってないって事ですかー?」
その言葉に葉子はむくれて返事をしてみせる。熊楠はまあまあと取りなすが、葉子はさらに追い詰める。
「先生は笑ってさえいなければイケメンなんですから、もっと自信を持ってくださいよ」
一方、そのやりとりを苦々しく思っているのか、苦虫を噛み潰したような顔で東青は熊楠を睨み付けている。この二人はどうも気性が合わないらしい。葉子は心の中で嘆息する。
熊楠の歳のころは三十歳前後だろうか。褐色の髪に青灰色の瞳。熊楠などと名乗っているが、生粋の英国人だと葉子は本人から聞いた。
葉子の病気は高校入学とほぼ同時に発症した。先端医療の粋を尽くしても原因が特定できず、時折起こる激しい痛みの発作に痛み止めの対症療法しか手の施しようがなかった。
八方手を尽くし、裏社会とも交渉した葉子の父が最後に縋ったのが、この素性の知れない外国人医師だった。それ以来、もともと日光に過敏なアレルギーを持つ葉子は、自宅の北向きのこの部屋で療養生活を送っている。
何の後ろ盾も無い闇医者だが腕だけは確かなようで、熊楠に罹るようになってから葉子の病状は安定している。
「先生、診察の邪魔になるから俺はこれで」
東青は学生鞄を手に立ち上がった。
「済まないね」
熊楠は簡潔に答え、往診用鞄を花の活けてあるテーブルの上に置く。
「葉子、じゃあまた明日」
東青の言葉に葉子はにっこり笑って小さく手を振る。
東青がいなくなって熊楠と二人きりになると、葉子は何とも言えない僅かな違和感——はっきりと言えば居心地の悪さを感じる。
熊楠の人当たりがよく医者らしい事務的な物腰は変わらないし、血液を採取するための注射や心音を聞くための聴診も的確で手際が良い。この人にメスを持たせたら、惚れ惚れとするような施術を行うイメージがある。
しかし、何かの拍子に熊楠の瞳の奥をのぞき込むと、そこには何も無い。強いて言えば虚無のみが存在していた。
どんな人生を送ればこんな目を持つようになるのだろう。それはまだ年若い葉子にはうかがい知れぬ事でもあったし、そこに立ち入るのは危険だと本能が告げていた。
熊楠が人と話をする時に付けるにやけた笑顔の仮面。それは彼なりの周囲への配慮なのではないかと葉子はふと思った。
熊楠はいつも通りに検査を行い、毎食後の粉薬と発作時にのみ服用する錠剤が足りているか確認する。
「問題ない様だね。少しでも変調があったらいつでもいいから僕を呼ぶんだよ」
熊楠は決まり文句のように毎回同じ言葉を葉子にかけ、来た時と同様の身軽さで立ち去った。
異変が起きたのはその晩だった。最初はいつもの発作だと思った。葉子の全身の筋肉がこわばり、一つ一つの動作に激痛が走る。
手を伸ばしたベッドサイドのピルケースを取り落とし、身を起こそうとしたところでベッドから滑り落ちた。肺から空気がすべて吐き出されるような痛みが全身を襲う。
それでも葉子は痛みに体が慣れるのを待ち、床に転がったピルケースをつかみとった。思うように動かない指を苦心して操って、中の錠剤を水も無しに唾液で飲み込む。
(大丈夫。すぐに発作は治まる。痛みも引く。それまでの我慢)
そう念じながら葉子は浅い息でベッド脇の床に横たわる。しかし普段であれば波が引くように収まるはずの発作が、今日に限って様子が違う。苦痛に葉子の呼吸はさらに浅く速くなり、もし痛みで人が死ぬのならこういう事だろうという考えが脳裏を掠めた。
その視界の片隅にぼんやり明かりが灯った。携帯電話のメッセージ着信だ。ピルケースと一緒に携帯電話も床に落ちたのだ。
葉子は苦痛に耐えながら手を伸ばして着信アイコンをタッチすると、画面も見ずに指で操作し返信を送った。
〈タスケテ〉
——少しの間の記憶の途絶。次に葉子の視界に入ったのは東青の必死な表情だった。
葉子はいつの間にかまたベッドに寝かせられていた。錠剤がようやく効いてきたのか痛みは少しやわらいでいる。その代わり体全体がひどく熱い。体の芯に熱せられた鉄の棒を差し込まれているようだ。
どこからか父が電話で話をしているのが聞こえる。相手は熊楠先生だろう。到着するまでの間の指示を受けているのだろうが、こうなってはもう素人には為す術がないことは葉子自身が一番熟知していた。
しっかりしろ、もうすぐだ、がんばれ! 意識を取り戻した葉子がまた気を失ってしまわないように、東青が必死で話しかけている。
無我夢中で送った〈タスケテ〉の文字。あのメッセージはやはり東青に届いていた。おかげで葉子はなんとか命を繋いでいる。
「とう……せい」
葉子は切れ切れに言葉を紡ぐ。
「無理にしゃべるな。もうすぐ先生が来る。そうすればなんとかしてくれる」
東青は早口で葉子に囁く。
「こんな……わたし……で、ごめん……ね」
「何を言ってるんだ。何を謝ってるんだ。お前は死なない。死なせてなるものか。だってまだ——」
だってまだ俺は葉子に好きだとさえ言っていない。
東青は言葉を飲み込んだが、その気持ちは痛いほど葉子に伝わった。
「だか……ら、ごめ……ん」
こんな私だから。いつ死んじゃうかわからない体だから、東青の気持ちに応えられなかった。応えてしまえばきっと、もっとつらい事になるから。
弱虫な私を許して。
「……畜生!」
東青はこれまでの自分の覚悟の無さを責めた。こんな選択を強いる運命を呪った。
「いいか、よく聞け。俺は葉子のことが好きだ。子供のころから、出会った時から惚れていた。たとえ葉子が死んでもこの気持ちは変わらない。だから安心しろ。早く治療を受けて早く元気になれ!」
「よし、よく言った」
いつの間にか東青の背後に熊楠が立っていた。熊楠は東青の肩を大きな両手で包み込み、静かに下がらせた。
「ウィルスが拡散期に入りました。二次感染の恐れがあるので僕より前に出たり、患者に触れないでください」
静かな口調で熊楠は言ったが、その背中から発せられる威圧感には有無を言わせない迫力があった。
それは熊楠の眼前の葉子にとっては一層苛烈なものとして感じられた。熊楠の遠慮会釈のない視線は、横になった葉子を射貫くように精査し、何かの兆候をはかっていた。
体の灼けそうな熱さは最高潮に達し、葉子は意識を保つだけで精一杯だった。
「せん……せい……?」
気がつくと首筋にひやりとした物が当てられている。熊楠はいつの間にか取り出したメスを葉子の首筋に当てていた。
体中に熱い血潮を送り込んでいる心臓が破裂しそうに苦しい。いつまでこの状態が続くのか。葉子が時間感覚を喪失しかけた時、急に鼓動が力なく弱まっていった。
(死ぬのかな、私)
それが葉子の最後の思考になった。
熊楠の全身から発せられていた、鬼気迫る緊張感が不意に緩んだ。
「……患者はお亡くなりになりました」
いつの間にかメスを仕舞い、代わりに葉子の頸動脈に指先を当てていた熊楠は脈拍が停止したことを確認した。同時に異常な高熱を発していた葉子の体も徐々に熱を失っていく。
「嘘……だろ」
葉子の両親を呼び寄せる熊楠の姿を見ながら、東青はただ立ち尽くしていた。
最初に感じたのは懐かしいという感情だった。あたたかな南洋の海でくらげになってたゆたう夢。水面はキラキラと光りを散りばめた様に緩やかにうねり、極彩色の魚が群れを成して泳ぎ回る。
そこから急に雪に覆われた山岳地帯に舞台は切り替わり、自分は灰色の毛並みが美しい一匹の狼になっていた。モノクロームの世界で素早く逃げ惑う雪兎を追い詰め、純白の体毛に鮮血の赤を散らす。
深い眠りから徐々に覚めつつある。起きがけに見た夢の記憶は、黒板に書いた文字を黒板消しで拭き取るようにぼんやりとつかみ所がなくなり、ついには思い出せなくなった。
自宅よりスプリングの柔らかいベッドに違和感を覚え、葉子は見慣れぬ部屋で目を覚ました。
木材がふんだんに使用された山小屋風の部屋だった。片方が傾斜の付いた壁になっていることから、屋根裏部屋なのかもしれない。
調度品は必要最小限の物しか置かれておらず、ベッドの他にはチェストにテーブルと二脚の椅子、それに全身が入る大きさの鏡台があるだけだった。
上半身を起こすと体が軽い。風邪を引いたあと回復すると、ただ健康でいるという状態がいかに得がたいものか身に沁みてわかるが、その拡大版というか、この数ヶ月患っていた正体不明の業病が嘘のように消え去っているのを葉子は感じていた。
ベッドから降りて立ち上がっても、以前のようにふらつくことも倦怠感もない。鏡に自分の姿を映すと、新品のパジャマに着替えさせられていた。思わずくるりと鏡の前で体を一回転してみたりする。
と、不意にドアの外から物音がした。葉子は慌ててベッドの中に滑り込み、寝ているふりをする。状況が全くわからない以上、狸寝入りが最善手だと咄嗟に判断した。
しばらくしてコツコツと聞き慣れたリズムでドアがノックされる。返事を待たずドアが開けられるのもいつも通りだ。
「眠り姫のお嬢さん、お寝覚めはいかが?」
熊楠の声に体が思わず反応する。
「やっぱり先生! 私一体どうしちゃったんですか。ここ天国じゃないですよね?」
がばりと掛け布団をはがして上体を起こし、そのままの姿勢で葉子は熊楠に言いつのる。
「その元気なら大丈夫。君は三日三晩眠り続けて、その間点滴で命を繋いでいたんだよ」
いつものにやけた笑顔のまま熊楠は答える。
「ここはどこですか? パパとママは? 東青はどこにいるんですか!」
「まあ、とりあえず紅茶を淹れるから、そのパジャマを着替えて髪を梳かしておいで。階段を降りたらすぐリビングだ。ああ、二階のトイレは右の突き当たりだよ」
最後の台詞に葉子が舌を出して抗議すると、熊楠は後ろ姿で手を振って部屋を出ていった。
驚いたことに、チェストの中には葉子に合わせて揃えたようなサイズの服が取りそろえられていた。裾の長めな黒いチュールスカートに白いブラウスを合わせて、その上に黒いレース生地のショールを羽織った。なぜか色柄物は身につけたくない気分だった。
階下に降りるとダージリンティーの若々しい爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。同時に葉子は自分がずいぶんお腹を空かせていることに気がついた。
「まず、君がどうして今ここに生きているかという事から話そうか」
リビングのローテーブルにはアフタヌーンティーの用意が調えられており、ご丁寧な事にティースタンドにはサンドウィッチやケーキが彩りよく並べられていた。
熊楠の向かいのソファに葉子は腰を下ろすと、紅茶で喉を湿らすのもそこそこに、サンドウィッチに手を出す。
「そうふぉ! ……いえ、そうよ! 私の病気は治ったの?」
口にまだ物が残っていて間の抜けた第一声になった。
「簡潔に言おう。君は吸血鬼になった。今までの病気は人間から吸血鬼に変化するためのプロセスだ。そして僕はそうした患者を専門に診る吸血鬼医師だ。僕自身吸血鬼でもある」
いつになく真面目な顔で熊楠は言う。
「……にわかには信じられないわね」
今度は白桃のタルトをフォークで切り分けながら口に運びつつ葉子は返事をする。
「君の一族には吸血鬼の血が流れている。そうした血筋からは稀に隔世遺伝で潜在的な吸血鬼が生まれることがあるんだ」
「潜在的? 生まれた時は人間でも、いつか吸血鬼になるってこと?」
「そう。それが君の病気の正体だ」
大きく頷きながら熊楠は話を続ける。
「吸血鬼が吸血鬼同士から生まれることは稀だ。血が濃すぎても子は流れてしまう。大抵は人間のパートナーとの間で子を設けるのだが、それでも吸血鬼として生まれるのはせいぜい三人に一人と言ったところだ」
ようやく胃の腑を満たし、ダージリンに口をつける葉子。
「で、人間として生まれた子はどうなるの?」
「ほとんどは下僕として短い生を吸血鬼に捧げる事になる。あるいは吸血鬼に見初められて結婚する者もいる。しかし人間と吸血鬼の長い歴史の中で、そうした吸血鬼の血を隠し持った人間が人間社会に紛れ込んでしまった」
「そのうちの一つが私の家系ってわけね」
「理解が早くて助かる」
皮肉でも揶揄でもない、至って真面目な調子で熊楠は言う。
「で、私はこれからどうなるの? 太陽に炙られたら死んじゃったり、人間の血を吸いたくなるわけ?」
冗談めかして葉子は言う。
「そういった人口に膾炙している認識はほとんどまやかしの創作物だ。吸血鬼は人間の血を吸わないし、ニンニクも十字架も苦手じゃない。ただ強靱な生命力を持ち、老いるということが無いだけだ」
熊楠の最後の言葉に葉子は食いついた。
「ええっ、じゃあ吸血鬼は不老不死なの?」
かぶりを振りながら熊楠は答える。
「不老だが不死じゃ無い。細胞内で共生しているウィルスのおかげで強靱な生命力と精神力を持つけれど、頭や心臓を撃たれれば当然即死する」
「ちょっと待って」
葉子は二杯目のダージリンのカップを手にほんの少しの間考える。
「いくら吸血鬼の繁殖力が弱いといっても、これまでの話じゃ良いことずくめじゃない。どうしてもっと堂々と世間に出てこないの?」
「その通りだ。我々吸血鬼には無闇に人間と交わってはいけないという鉄則が存在する。なにも人間たちから妬みを買って生きづらいなんて話じゃない。もっと根本的な話だ」
「回りくどいわね」
「葉子、君だって一度死にかけただろう。今こうして元気に吸血鬼として生まれ変わることができたのは本当に稀なことなんだ。千に一つの奇跡と言っていい」
「でももし私があの時死んじゃったとしても、死体は悪さをしないわよ」
葉子のその一言が熊楠の仮面をほんの僅かだが剥ぎ取った。瞳に空虚を湛え、冷たい笑みが一瞬口の端に上ったのを葉子は見逃さなかった。
「よく覚えていてくれ。人間と違って吸血鬼は安らかに埋葬される事は絶対にない。人間から吸血鬼になり損ねて死んだ者も含めて、死んだ吸血鬼は必ず『屍鬼』になる」
葉子は意味は計りかねるもののわずかにうなずき先を促す。
「屍鬼、グール、ゾンビ。呼び方は何でもいい。普段は吸血鬼と共生しているウィルスが、宿主の死をきっかけに爆発的に感染を広げようとする。死体を無理矢理動かして他人に噛みつくことで、唾液に含まれるウィルスを体液感染させるんだ。奴らにはもうウィルスからの指示しか聞こえない。その上ウィルスが人間の限界以上に身体能力を拡張するからやっかいだ」
「……そいつらを倒す方法は?」
「吸血鬼と同じさ。頭か心臓を吹っ飛ばす」
「私が屍鬼になったら同じ事をしようとしていたの?」
「そんな面倒事を避けるのが吸血鬼医師たる僕の職分だ。もし君が屍鬼に変貌する兆候を僅かでも見せたら、メスに塗った即効性の致死毒が人間の綺麗な体のまま死に誘う。これ以上に幸せなことはないよ」
「パパとママはすべて了承済みだったってことね……」
葉子の呟きに熊楠はそっと口を噤んだ。
これからどう生きるかは君の自由だ。しかしもう家には帰れないし、吸血鬼社会に入って貰う事は吸血鬼の掟としてすでに君の両親にも納得して貰っている。
熊楠の言葉に葉子は東青の顔を真っ先に思い出した。なぜこれまで思い出さなかったのか不思議なほどだ。
「東青は? 東青には私のことは伝わっているの?」
その言葉に熊楠はゆっくりと首を振る。
「君が吸血鬼として生きていることを知っているのはご両親だけだ。東青も含めて他の皆には君は死んだことになっている」
「そんなこと東青は信じないわ。死体も無しに葬式を済ませたの?」
「死体は特殊なウィルスに感染しているという理由で早々に人目に付かないように移送した。もちろん君のご両親の協力を得ての事だ。葬式に東青は参列したようだけど、棺の中はそういうわけで空だったのさ」
「せっかく生きてるのに! 東青に会えないなら意味が無いわ」
「もちろんこの先君が東青に会うかどうかは君の自由だ。ただしじっくり考えた方がいい。君はこれから長い時を生きる事になるが、東青は長くとも人間の寿命で死にゆく存在だと言う事を」
熊楠が一人で暮らしている家はゲストルームも含めて八つは部屋がある邸宅だった。おまけに住所を聞いたら、渋谷にもほど近い都内屈指の高級住宅街の名前があがった。
普通のやり方では絶対にたどり着けないようにしてあると熊楠は言うが、そんな魔法じみたことができるのかどうかについては葉子は心の中で保留した。
日暮れからは天候が崩れた。ダイニングキッチンから見えるリビングのベランダは大粒の雨が降り出してきたことを知らせた。
「……しかしそこらの屍鬼も震え上がる吸血鬼医師、熊楠様の大好物が鍋物とはね〜」
葉子は白菜と長葱をざくざく切って下ごしらえしながら、リビングの熊楠に聞こえるように独り言を言う。
晩のメニューは熊楠のリクエストで寄せ鍋になった。世話になっている恩もあり、料理は自分がすると葉子は申し出た。
熊楠が葉子の主治医になってから半年はたつが、二人だけの夕食というのは初めてのイベントだった。しかし鍋とは意外だった。確かに一人だけの鍋物というのは想像するだに侘しさを感じさせる。
土鍋に蓋をしてもうそろそろという時分、熊楠の携帯電話が鳴った。電話を受けた熊楠は一瞬で険しい表情になった。
「葉子、鍋の火を止めて。これから出かける」
「何かあったの?」
「暴力団の事務所に丸腰で踏み込んだ少年が病院に担ぎ込まれたが、そこから逃亡した。身体的特徴から東青の可能性が高い」
「なぜそんな馬鹿なことを……!」
「君の父上が僕にコンタクトを取ったつてがその暴力団なんだ。東青は君と、そしておそらく僕を探している」
「葉子、君と東青は血縁だと言ったね」
地下のガレージに向かいながら熊楠が尋ねる。黒い革のコートを羽織り、病院へ向かおうとする熊楠に、葉子は付いていくとキッパリ宣言した。
「ええ。祖父同士が兄弟なんです。和歌山から東京に出てくる時に一緒だったとかで」
「ふむ、やはり紀伊出身か。君に吸血鬼の血が流れていたように、東青にもその血が受け継がれている可能性が大いにある」
熊楠はアウディのスポーツクーペに乗り込み助手席に葉子を招き入れる。
「東青も私と同じ病気になったって事?」
「……いや、そもそも君は屍鬼化しなかったから二次感染は起きていない。しかし吸血鬼の目覚めを眼前にして、体内で休眠していたウィルスが活動を始めた可能性がある」
地下にあるガレージからスロープを登ると出口が開いていた。車を裏通りの路上に出してから熊楠が車載リモコンで操作すると、出入り口はただの塀にしか見えない様に閉じた。
外は風こそさほど強くないが土砂降りだった。車のヘッドライトは力強く路面を照らす。
人気の無い夜の高級住宅地の四つ辻。右折した先に立ち尽くす人影があった。
ヘッドライトに照らされて、嵐の中東青は立っていた。新宿の病院を抜け出して、歌舞伎町の暴力団事務所で無理矢理聞き出した住所まで驚異的な脚力で駈けてきたのだ。
着衣はボロボロで血塗れだが、東青はギラギラした目でフロントガラス越しに熊楠を睨み付けた。同時に葉子の姿を認め、初めて人間らしいホッとした笑みを浮かべた。
「君は車の中に」
葉子は熊楠の言うことを聞かずに、助手席のドアを開け外に出る。
「……俺に嘘をついたな!」
そう叫ぶと東青は一気に間合いを詰め、徒手空拳で熊楠に襲いかかる。すでに屍鬼の超人的な膂力を半ば得ており、その打撃は重い。
「東青! やめて先生は悪くない!」
葉子はあらん限りの声を絞り出すが、雨音に半ばかき消される。長い黒髪が雨に濡れ、車のヘッドライトの光を反射する。
「葉子。お前もこいつの味方をするのか!」
「違う! 私は先生に命を救ってもらったの。でも一番大事なのは東青、あなただけよ!」
その最中も一方的な殴り合いは続く。熊楠は手堅くガードし東青には手を出さない。
と、熊楠は足払いで東青をアスファルトに叩きつけ、後ろ手に押さえつける。
「葉子、君は東青に生きていて欲しいか?」
「答える必要も無いわ!」
熊楠の問いに叫ぶ葉子は、ポケットから密かにくすねた白く煌めくメスを取り出した。
「東青を殺したら私も死ぬ! いくら吸血鬼でも心臓を抉り出したら死ぬと言ったわね!」
熊楠はちらと背後を見て溜息を漏らした。
「ならば後は本人の意志次第だ」
熊楠は故意に東青を押さえつけていた力を弱める。その機を逃さず東青は濡れた路面を転がり体勢を立て直す。殴り合いでは分が悪いと見たか、空手で鍛えた足技を繰り出す。
「東青、よく聞くんだ。残された道は二つに一つ。このまま屍鬼になり果て私に滅せられるか、私の血を飲んで生命を共有する血族となるかだ」
東青の高い位置の上段蹴りが熊楠の頬を掠める。つうと血が滲み雨に流される。
「……なぜ血を飲む必要がある」
東青は攻撃をやめ、耳を貸す態度を見せる。
「吸血鬼は人間の血を吸わない。それは屍鬼のやることだ。そして逆に吸血鬼の血を体内に取り込んだ人間だけが、互いに生命を共有する吸血鬼の血族となる」
「先生、あんたと一心同体というわけか」
「そうだ。どちらかが死ねばもう片方もただでは済まない。圧倒的に僕に不利な契約だ」
そう言いつつ熊楠はコートをはだけシャツのボタンを外す。いまや東青の体は屍鬼化が猛スピードで進んでいる。差し出された熊楠の首筋の白さはその本能に火をつけた。
「う……お、ぐるあぁあ!」
抑えきれない唸り声を上げ、その発達した犬歯を本能のまま熊楠に突き立てる東青。
熊楠は眉をしかめつつも、東青をしっかり抱きとめる。子供をあやすように背中に手を回し存分に血を吸わせる。
土砂降りの中立ち尽くし、成り行きを見守るしか無い葉子にまで熊楠の血の芳香が漂ってくる。
血の味と匂いに陶酔したような表情の東青は、突然瘧が落ちた様に呆然と熊楠の首筋から口を離す。東青の中で心臓の拍動が大きく鳴り響き、東青はそのまま意識を失った。
嵐の夜から一週間がたった。渋谷で一番高い位置にあるホテルの一室から、葉子は東京の夜景に見入っていた。
あの光の一つ一つに人の営みがある。今まではそう思っていた。しかしこれからは、そこに人間以外の者の生活もあるのだと考えを改めなければならない。
東京に棲む吸血鬼の数を完全に把握している者はいないが、ここには熊楠と考えを同じくする吸血鬼たちが集っていた。
「葉子、先生が呼んでる」
まだスーツ姿が身についていない東青が、全面ガラスの大窓の前に立っていた葉子を呼びに来る。
「うん。ちょっと考え事」
葉子は振り返ると差し出された東青の手を取る。手を引く東青の指先から緊張していることがわかる。
葉子は東青の指先を握る力を僅かに強め、胸を張って光の差す方へ歩み始めた。