JU TE VUX
連載小説としておいていましたが、短編として残させていただきました。本編は全く変わっておりません。
音楽室から流れる曲。
聴いたことのあるメロディーと、美しい旋律の中にまぎれている悲しみ、寂しさ。
誰の為に弾いているのか、私は知っている。その人はもうここにはいないことも。
曲が流れる時間はいつも六時。校舎には見回りの先生以外には誰もいなくて、外からは運動部の声が聞こえてくる。そんな時間にやってきて、ピアノを弾く。
曲名はエリック・サティーの「JE TE VEUX」。優しい柔らかい音と、軽快な弾むような音。彼が誰かに包まれている音と、彼が誰かのいるところへと動き出す音。静かなのに、私の耳には鮮明に響いてくる。
毎日、彼が誰かに想っていても、届くはずのない想い。そして私がどれだけ誰か想っていても届かない想いに私はだんだんと、このピアノの音にのめり込んでいく。
「そこにいるのは分かってるんだから、入ってこれば」
招き入れたのは彼のほうから。音楽室のドアに凭れ掛かって盗み聞きしていたのを気づかれていたとは思っていなかった。彼はいつでも、誰にも関心を示さず、存在を消すように教室の隅で微動だにしないように見えていたから。
でも彼の顔を見れば誰も、その存在を無視することは出来ない。と私は想う。とてもきれいな肌だし、ちょっと不健康だとは思うけど骨と皮だけのような細い体に、色素の薄い目と髪色。短髪で前髪が眉毛に届くか届かないか位で似合っていないのに、平然としているその態度。
私は彼の差し出された手を握りながらドアに凭れ座り込んでいた体を起こした。
彼の手首には無数の傷がある。それがどういう意味でつけたモノか分かる。それからタバコの火傷の痕も見えた。長袖のカッターシャツを着ていても、見えるときは見える。そういう傷は、彼がまだ恋人と一緒にいた頃に学校の一部のやつらに虐められていたときの傷。私はそのとき、正直彼のことも、恋人のことも気持ち悪いと思っていたから、どうでもいい、やってしまえ、とか思ってた。でも、彼の恋人が自殺したときに私も、虐めていた人間も、学校も、みんなが冷めた。目が覚めたんじゃなくて、何やってたんだろうって気持ちになった。
それから、彼は虐められることはなくなったけど、恋人のことを今でも想い続けてる。
「矢崎君、ピアノうまいんだね」
音楽室に入りながら言うと、彼は何も言わずにさっさとピアノの前に座った。そして鍵盤に手を置くとまた曲を弾き始めた。
私はグランドピアノに肘をついて彼の顔をみた。鍵盤を見下ろす。そして滑らかに動く指。その視線は動くことがない。静かな旋律、その中に溢れる愛しい想い。でも聞いてるのは私だけ。もしかしたら、外で練習してる野球部とかサッカー部とかテニス部とかも聞いてるかもしれないけど。
彼は弾き終わると溜息をついて鍵盤の上に力なく指を置いた。
「その曲スキなの?」
「さあね」
「私中学のとき、その曲クラリネットで吹いたことあるよ。最後の定期演奏会のときに、吹いたんだ」
「そっ」
無関心、というのが伝わる素っ気無い返事。どうでもよさそうに、私を見ると溜息を吐いてピアノに蓋をした。
「もう終わり? もう弾かないの?」
「うん、もう弾かない。あんたが・・・弾けば良いじゃん」
なんで、私にふるの?
彼は私の顔を睨み付けるように見てから、机の上においてある鞄を持つとさっさと音楽室を出て行った。廊下から聞こえる彼の足音は消えそうなぐらい、静かなものだった。
私はさっきまで彼が座っていたピアノの前に座り、鍵盤の上に手を乗せた。
どうして彼は、私がピアノを弾くことを知っていたのだろうか。・・・そんなことどうでもいいか。彼と同じようには弾けないけど、同じ曲を教えてもらったことがある。ちょうど、中学のときに吹奏楽で「JE TE VEUX」をソロで吹くことになって、ひとりで練習できなかったときに弾いてくれた人がいた。忘れてるわけじゃない。ただ、その存在はある時にあたしから離れてしまい、好きでいられなくなった。そしてもうどうでもよくなった。
悲しい旋律。あたしの弾く曲はそんなものじゃないけど、彼と少し似てるかもしれない。あたしの場合は、恋が成就しなかったその悲しみのもの。そしてもう届かせることが出来ないもの。
ピアノの上におもいっきり顔を乗せた。ボコボコしていてちょっと痛い。
目を閉じる。
香山徹。徹が自殺したのは彼の為だ。彼と恋人同士でいる限り、虐めは終わらないって分かっていたんだね。そして、あたしにこの曲を教えてくれて、一緒にこの曲を練習した本人でもある。私の片想いの人でもあったんだ。
そりゃ、男同士って気持ち悪いっておもったけど、この人ならそれも気持ち悪いっておもわなかった。ただムカついていた。女を好きになることがないんだとおもうと、彼に嫉妬して、めちゃくちゃになってしまえばいいとさえ思った。今では、全部後悔している。
聞こえてくるのは、静けさの中で目立つ野球部の声だった。
「今日も来てたんだ」
「悪い? また弾いてよ。私、矢崎君のピアノすきだよ」
「ふーん」
言われなくても、といった感じで彼はピアノの前に座り、いつも通り曲を演奏した。いつもはそんなことはなかったのに、今日はどうしてかピアノの音が雑に聞こえた。何かに心を乱されているのかもしれない。
「・・・俺がこの曲を教えてもらったとき、徹はあんたの話してた」
弾きながら話をするので驚いた。
「そう」
「あんたのピアノは下手だったって」
「なんだそれ」
「でも、俺のピアノはほめてくれたよ」
なんだ、惚気か。そう思ったけど、彼の顔を見ていたら、そうでもないということが分かった。見てるこっちが痛くなるほど眉間にしわを寄せている。今にも泣き出しそうな顔だ。
「徹の家に行くと、弾いてくれた。毎回同じ曲なのに、飽きずに聞いていられたんだ。それが幸せだった」
いつの間にか彼の手は止まっていた。
「一緒にいられるだけでよかった。僕を救ってくれた唯一人の友人だったし、大切な人だった。何も望んでなかったのに」
なのに・・・。彼の声は震えていた。力をこめすぎて、手が鍵盤の上に崩れた。ピアノが不協和音を響かせる。
「誰も憎めないんだ。どうせなら誰かを憎めたら良いのに」
ピアノ椅子から立ち上がると、彼は走り出すように鞄をつかみそのまま音楽室を出た。
彼の表情はいつまでも泣き出しそうな顔。まるで曇り空のように今にも雨が降り出しそうなのに、雨は出なかった。意志が強いのか、弱いのか。あいかわらず長袖を着る彼の手首から見える痛々しい傷をみていると、彼の心がとても強固なものとは思えなかった。
私はまた、彼に取り残されたピアノの前に座り、鍵盤に指を置いた。
「私は一緒にいることも叶わなかったんだってーの」
そして死ぬことも叶わない。どれだけその存在に恋焦がれていても、もう何もかも手遅れなんだから。
放課後のピアノは一人ぼっちになってしまった。あの日から、彼は音楽室に姿を現さなくなった。音楽室だけでなく、クラスのどこにも存在しなくなった。教室の片隅にいた彼の姿を知っていたのは私だけだったのか、だれも彼がいなくなってしまっていることに気づいていない。
それでも悲しいメロディーは今でも音楽室から聞こえてくるだろう。
彼の代わりに私が奏でる曲は、確かに彼のように誰かの心を響かせることも出来ない。そして、きっと届くことがないのだ。
夕日が差し込み、私の影が伸びていく。外から聞こえる野球部の声は相変わらず、ピアノの音とミスマッチしていた。私の存在そのものが、この場所に似合っていないように思えるほどに。
コンコンと、ドアがノックされる音がした。慌てて顔を上げると細い体に学生服を着た彼がいた。夕日に顔が照らされて、眼差しに何か光が見えた。
彼はゆっくりと私に近づいてきた。
「徹には、好きな人がいたんだ。僕じゃない、別の人。はっきりとそう聞いたわけじゃないし、そんなそぶりを見せたわけじゃない。僕のことを好きだといってくれた言葉は、本物だったと思うけど、彼の目だけは真実を語っていたんだ」
うつむく彼の姿は、光の中にいるのに影にしか見えなかった。
「いつも僕の知らない人のことを描いているように見えた。虐めにあってた時も、僕さえいなければ彼はその好きな人と一緒にいられたはずだと後悔していた。それが、誰なのかはっきり分からなかったけどきっと、きっと・・・あんただと思うんだ」
目が合って、しばらく呼吸が出来そうになかった。
「うそよ」
出てきた言葉は、震えて彼に聞こえたか分からないほど小さかった。
「分からない。ただの僕の憶測だけど、僕はそう思うんだ」
「なら、私にも言わせてよ。私は、私だって香山徹のことが好きだったけど、矢崎君を愛してると思ったから、近づけなかった。虐めにあってる姿を何度も目にしてたのに、声もかけられなかった。こんな私のことを好きになるわけないじゃない。勘違いよ」
彼は頭を振って溜息を吐いた。
「今になってはどっちが本当なのかも、分からない。ただ、僕は彼を愛してた。それだけでいいよ」
ピアノの鍵盤に触れる手は、とても優しく、私のように荒々しくなく愛しさを感じられた。
「ずっと、学校に来てなかったのはどうして?」
彼は高音を鳴らした。調律された美しい音が教室内に響いた。
「徹と一緒に行った場所を巡ってみたんだ」
「どうだった?」
「特に何もなかったな。徹の姿もどこにもなかったな。おかげでようやく、徹がこの世のどこにもいないんだって、思い知らされたよ」
「そう」
「うん。あんたは気づいてた?」
彼はあたしの隣に立って両手を鍵盤の上に置いた。高音で奏でる『ねこふんじゃった』は可愛らしく聞こえた。
「音楽室に取り残されたピアノを見ていたら、もうここに現れることはないんだって言われてる気がしたわ。きっと、矢崎君がいなかったからなのね」
しばらくすると、『ねこふんじゃった』は終わり、沈黙が続いた。
「香山徹が好きだった曲、誰に捧げるものだったのかな」
「さぁね。でも僕もあんたも、彼の曲を聞いたんだ。それが恋の始まりだったことには違いないよ」
その通りだった。私も誰もいない音楽室で二人きりになり、彼の奏でるピアノの音に惚れて、香山徹を好きになった。大きな手が鍵盤をすべるように動き、跳ね回るのを見るのが好きだった。沈みかけた夕焼けに照らされた横顔を見るのが好きだった。
あぁ、何度後悔しても、何度懺悔を繰り返しても香山徹は戻らない。
「私たち、置いてかれたんだね」
彼は鍵盤に目を向けたまま何かが零れてくるのを止められずに、俯いてたたんずんでいた。そして私も、込み上げてくるものの正体を確かめずに、彼の細くて傷だらけの指を見ていた。