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躾と愛情

 「今日は君に別れを告げに来た」


 日の傾いた夕暮れ、俺は恋人であるオルガに確かにそう告げた。

 彼女と恋人になったのは家同士の政略的なものだったけれど、今となればそれも運命の巡り会わせだったのだと納得していた。これが初めての恋愛ではないのだが、彼女ほど素晴らしい女性を見たことは一度だってない。

 彼女は品のある女性でありながら、財力や美貌を武器に媚びるような真似はせず自分に正直な性格だった。それを時に自由奔放ともいうのだけど、それがまた彼女の魅力の一つとも思っている。

 俺が落ち込んでいる時には変に探ろうとせずひたすら笑顔を振りまき、また楽しいときは全力で楽しむ。時折喧嘩することもあったけれど、一度だって別れを考えたりはしなかった。それほどに、彼女に心酔していたからだろう。

 別れという寂しげな言葉に、オルガは悲しむでもなく、どういった表情をしたらいいのかわからないと困り果てていた。悲しいだとか虚しいだとか憎いだとか、そんな感情が麻痺してしまって、今はただ困惑しているのだろう。

 助け舟となるか追い打ちとなるかはわからないが、その理由を告げた。


「君を嫌いになったわけじゃない。他に好きな女もいない。今だってオルガしか考えられないんだ。だけど、これ以上君といれば、俺は君を傷つけることになる」


 まるで安っぽい恋愛物語のような台詞に、自分でも反吐が出そうだと内心苦笑する。

 嘘を言ったつもりはない。できるならこれからも傍にいたいし、別れたくなんかない。それでも一緒にいることで彼女を悲しませてしまうのなら、理不尽だと思われてもこうするしかなかった。

 どこにでもある、恋人同士の終わり。

 今はその言葉が彼女の胸を深く抉るものだとしても、いずれ時が経てば新しい恋を探そうと前向きになってくれることを祈って。


「それじゃあ、さよなら」


 心から愛していた女性に別れを告げ、二度と会えないかもしれない彼女の顔を見納めする。

 今の俺は、どんな顔をしているのか。想像してみても情けない面構えでしかないことは予測できた。

 恋をしたのは初めてではない。家柄の背景もありしっかりとした交際とはいわないものの、経験はそれなりにある。だけどこんなにも毎日が楽しいと思えるほど、日々の生活が好きになるほど、そんな自分を愛せるほど人を好きになったのは、彼女が初めてだった。

 今の彼女にとって、俺はどんな風に映っているのだろう。最低な男だと思われているだろうか。どんな風に思われようと、これが最善策だったのだ。後悔がないと言えば嘘になるが、彼女のためだと思えば自然と受け入れられた。

 後にも先にも、俺はオルガ以上に愛する女性など見つけられないのだ。


 久々に夢を見た。愛する女性と別れる夢だ。これが何の暗示なのか、何の予言なのか、そんな疑り深い思考を起こす気にもなれず、目覚めた俺は状況を確認することに徹底した。

 眠る前の記憶を手繰り寄せるが、そもそもいつ寝ていたのかも思い出せない。昨日は何をしていたんだったか。確か、クレールとロルフとかいう新米と一緒に飲み明かしていたように思う。そのまま酒の心地よさに意識を手放してしまったのか。

 いや、違う。なぜならここは俺の部屋でもなければクレールの部屋でもない。

 先日訪れた拷問部屋だ。

 嫌な予感しかしないながらも冷静に周囲を確認すると、城を脱走後捕まった時と同じように、護衛の兵士と王女ジネットの姿が見える。

 こればかりは乾いた笑いを堪えられなかった。ついこの前お痛をされたばかりだというのに、再びこの部屋に連れ戻されてしまったのだから、さすがに今回は情状酌量の余地など見込めまい。

 意識が回復したのに気付いた王女が口を開く。


「おはよう、リオネル。よく眠れたかしら」

「……おはようございます、王女」


 ああ、俺は、馬鹿だ。

 王女の顔を見た途端、昨日の一部始終が走馬灯のように脳内を駆け巡っていった。そして今、ここにいる意味も簡単に理解できる。

 あの心地よい夢が意味していたのは、これから起こる現実の洗礼の前の少しばかりの慰めだったのかもしれない。


「使用人からあなたの話を聞いたのだけど……名前は、ええと、なんだったかしら」

「恐らく、エルワン・リゴーではないかと」

「そう、そんな名前だったわ。彼から話を聞いたのだけど、リオネル。あなた、私のことが嫌いなんですって?」


 あの小心者が王女に何を伝えたのかは大体想像がつく。昨晩王女への悪態を撒き散らしたのは事実だが、エルワンはきっと事実にあることないこと付け加えて王女の耳へ伝達したのだろう。

 だが、悪いのは俺だ。王女からの問いかけに否定も弁解もするつもりはない。

 元来、嘘をつくのは苦手だ。今まで王女のお気に入りとして傍に仕えていたこともあって、少しは本音を隠すことに慣れたとはいえ、完全に克服できたとは思わない。どちらにしろここに連れてこられた時点で、無事に部屋を出ることができるなどと考えていなかった。

 良くて罰則、悪くて死刑。

 どうせなら、もう二度と同じ目に遭わない選択をした方が気が楽だ。

 つい先日までは国を出てどこか遠くへ逃げ延びようなどと淡い希望を抱いていたけれど、そんなことはもうどうだっていい。最愛の人もいない、こんな日常に意味はない。だったらいっそ、ここで終わらせてしまった方がずっといい。

 そう思うと、自然と気が楽になった。今まで自制心によって抑圧されていた本音が、するりと口から零れていく。


「ああ、そうだよ。俺はあんたが大嫌いだ。顔を見るのも嫌だ、存在自体が嫌いだ」


 嫌い、という言葉にわずかに眉を動かした王女は、しかし何も言わない。今まで言われ慣れていない言葉に動揺を見せまいとしているのか、あるいは屈辱を必死に堪えているのか。

 自暴自棄になって悪態をついたことは認めるが、後悔よりも開放感の方が優っているのが実情だ。この際死ぬ前に本音を吐き出してしまえた方が、悔いなく逝けるのではないだろうか。

 誰が聞いても明らかに王女への冒涜である言葉に護衛の兵士が今にも切りかかりそうな勢いだったが、構わず続ける。


「あんたらだってそう思ってるんだろ? 王女の下で従順に尻尾振って、明日の生を得られてるんだ。そりゃあ本音なんて言えたもんじゃねえよな。いいか、この国はもう死んでるんだ。お前みたいなガキが国を動かしたところで、ボロボロと螺子ねじが取れていくだけなんだよ。だったらもう、いっそ」


 死んだ方がましだ。

 そう言いかけたが、しかし最後まで言葉にすることはできなかった。いや、言い切ろうと思えば言い切れただろう。しかし散々溜まっていた鬱憤を吐き出した俺を見下ろしていたのは冷徹な王女ではなく、大粒の涙を流す少女だった。

 時に子供の涙とは、大人を黙らせるだけの強大な力になりえる。弱い者を苛めるのは人間の習性だが、しかしそこまで非情にはなりきれない。

 つまり、だ。俺は先日理不尽にも自身を痛めつけた悪逆非道の王女に、感情移入してしまっていた。

 なんてことはない、ただの子供の涙。しかしそれは時に、万死に値する罪の象徴でもある。

 人目を気にせず延々と嗚咽を漏らす少女に、声をかけるだけの勇気を持った者はいない。世紀の芸術でも見るかのように、その場にいる全員が少女を見つめる中、ジネット王女の第一声は予想だにしていないものだった。


「わ、私……今までそんな風に言われたことがなくて、それで……」

「あ、あの……申し訳ございません。王女たるあなたに侮辱申し上げましたこと、お詫び致しま……」

「嬉しいの!」


 恐らく今、今世紀最大の気の抜けた顔をしていることだろう。

 年頃の少女らしく泣き出したかと思えば、突然顔を上げて笑顔を作るこの王女を改めておぞましいと思った。ここまで来ると狂っているなんて生易しい表現では物足りない。狂気である。

 王女は両手を拘束され自由の利かない俺の傍まで駆け寄ると、何の躊躇いもなく人形のような細い腕で抱擁した。生暖かい体温がじわりと伝導していく。


「私ね、今まで王女だからって誰からも叱られたことがなくて。だから、そんな風にはっきり嫌いだって言ってくれた人はあなたが初めてよ、リオネル。やっぱりあなたは素敵な人だわ」

「お、王女?」

「いいのよ、先程のように乱暴な言葉遣いで。その方があなたらしいもの。もっと本音をぶつけてほしい、もっと私を嫌って、罵ってほしいのよ」


 最高に嬉しいと言わんばかりの弾んだ声で話す少女は、まるで素敵な恋人でも見つけたかのように可憐だ。可憐でいて、歪んでいる。

 さらに追い打ちを掛けるように、少女は、俺の耳元でそっと囁いた。


「大好きよ、リオネル。殺してしまいたいくらい」


 城に仕えるようになってからずっと、俺はここに縛られていると思った。入る者は拒まないが出ていく者は許さない、そんな監獄のようなこの城を憎み、恨んできた。

 しかし恨むべきは城ではなく、ジネット王女だったのだ。そんなわかりきった理論を、どうして気づけずにいたのだろう。いや、どうして気づいていながら目をそらしていたのだろう。城から出ようと思えば簡単に抜け出せる。しかし王女が俺を離さない限り、自由など最初から剥奪されたも同然だというのに。

 使用人なんて建前に過ぎない、完全に王女の奴隷と化していたのだ。


 その日、拷問部屋から解放された俺は、何の罰も受けずに無事生還を果たした。

 どうやら二度目の罰則ということもあって噂は城全体に広まっていたらしく、周囲からは散々囁かれたが、そんなことはどうでもいい。今すぐにでも眠ってしまいたい、それだけが脳内を占領していた。

 罰を受けなかったのが幸運かどうかといえば、幸運に他ならなかったのだろう。しかし、長期的に見れば、結果として王女に益々愛されてしまったことこそ不運と言えるだろう。

 もう自由はない。城を抜け出そうと国から脱出しようと、きっといつまでも王女に狙われる。あれだけ気に入られてしまっているのだ、そう簡単に飽きられるなんて思えない。

 自由がないことに絶望を感じているのかはわからないが、しかし、自由があったとしても幸せになれる自信は毛頭なかった。結局、この国にいる限り人生が大きく変わるようなことは何もないとさえ思う。

 だとしたら、一体どうしたいのだろう。

 生きていたところで、自由があったところで、どうなるというのか。

 恋人が帰ってくるわけでもない、また家族と暮らせるわけでもない。

 だったら一体、何に縛られているというのだろう。


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