罠に掛かった兎
散々監獄と評してきたこのフルールペイズ城だが、内部のどこもかしこも監視されているわけではない。王女の行動範囲である自室を中心とした部屋以外であれば、意外と行動の自由は利くものだ。兵士や使用人の自室や休憩所は、昼間を除けば一夜にして憩いの空間に様変わりする。
夜も更け、一日の仕事を終えた俺は、酒に誘ってきたクレールの部屋へと向かった。
一日の仕事といっても、毎日決められた時間に決められた仕事を繰り返してはいない。王女の世話係というのは、つまり王女の我儘を聞く駄目な親のような存在だ。深夜を過ぎようと、王女がまだ何か癇癪を起すようであれば対処しなければならないのだ。
幸い、今夜は特に感情の起伏を乱すことなく大人しく眠ってくれたので、それほど肉体的にも精神的にも疲れていない。
昼間よりも軽い足取りでクレールの部屋を訪れると、どうやら今夜の愚痴大会は二人きりではないようだった。
部屋の主ともう一人、少年かと見間違うほど童顔の青年がすでに酒瓶の栓をを開けていた。初めて見る顔に困惑するも、とりあえず目が合ったので軽く会釈をして、近くの椅子に腰かけた。
見慣れない人物に人見知りするほど器は小さくないが、こっちは完全に日頃の鬱憤を吐き出しにやってきたのだ。初対面の相手にそう重たい話題を振るには気が引ける。
「あ、初めまして。リオネルさんですよね? 僕、ロルフ・アレンスと言います」
「……おう。リオネル・シルベストルだ。よろしく」
ぎこちない挨拶を交わしていると、すでに酔いが回っているらしいクレールがフォローした。勝手に人員を増やしたくせに対応が遅すぎるが、責めたところで反省はしないだろう。
「最近この城で働き始めた新入りだよ。今は雑用係みたいなもんだが、将来は何になるんだったか?」
「考古学者です! 僕、たくさん勉強して学者になるのが夢なんです。勿論まだ目標に到達できるとは思いませんが、いずれ国を出て旅をしながらいろいろな史実を学びたいんです」
この城の人間にはいない純粋な少年のような瞳で、ロルフ青年はそう告げた。
出会って間もないが、わかったことがある。俺はこの青年が苦手だ。
この夢も糞もない国で無謀な夢を語っていることに腹を立てたのではない。別に夢を持つくらいは個人の自由だし、夢のない廃人めいた人間よりはずっとましな生き方をしているとも思う。
だからこそ、苦手なのだ。一度夢を捨ててしまった自分を見つめるその目がどうにも眩しすぎる。自分にこびりついた汚れが目立ってしまい、居たたまれなくなる。
しかし、クレールがこの青年を気に入った理由はなんとなくわかった。
クレールはいわゆる変人だ。俺の目から見て変人だと定義するのではなく、この国の国民全員が変人という肩書に納得できる程度の変人だ。
見た目でわかるほど挙動不審だとか、近寄りがたい雰囲気はまったく感じられない。むしろ奴は多くの女性を虜にするほどの美貌の持ち主だ。そんな歩く芸術のような男は、しかし口を開いた途端に多くの女性を逃げ出させるほどの奇人変人なのだ。
奴がどんな風に変人なのかは、追々わかることとして。
そんな変人クレールが、この城で唯一といってもいいだろう、夢と希望を捨てない青年を気に入るのは時間の問題となる。そういう俺もこの変人に気に入られている時点で、変人の仲間入りを果たしていたわけだが。
「つーか、料理人のお前がよく他の奴と知り合ったな。毎日ほとんど厨房から動けねえってのに」
カップに注がれた酒を口に含みながら、嫌味交じりに問いかける。
城の使用人の中でも料理人はクレールを含めて十人といない。普段の王女の我儘で料理や菓子を作るだけでも暇ではないというのに、城に王族や貴族を招いての舞踏会となれば多忙どころではない。
時折腹を空かせて食材をくすねに行く常連としては、厨房の殺伐とした様子は何度も見てきたからある程度の事情は知っている。
「俺が見つけたんじゃなくて、ロルちゃんが厨房に迷い込んできたからな。先輩に怒られて驚いて逃げてきたって言うんだもん、そりゃ普通じゃないでしょ」
「だ、だって! 人を殺しかねない睨まれ方で逃げない方がおかしいですよ! 命の危機を感じました…!」
「つーか、先輩って誰?」
「エルワンさんです……」
「ああ、あの無駄にガタイのいい見栄っ張りか。あんな奴がお前を指導してるのかと思うと同情するよ」
城で働く新入りは、しばらくの間指導する先輩とともに仕事をこなす。それが効率的なのかどうかは定かではないが、何のお手本もなしに仕事をするよりはましなのかもしれない。俺もその昔は先輩に指導(という名の憂さ晴らし)を受けていたので、まさにロルフは同じ道を歩んでいるのだ。
エルワンといえば、この城の中でも目立つ大きな肉体の持ち主だ。が、そんな大きな体躯の男がなぜ兵士ではなく雑務をこなす使用人として働いているのかというと、見た目は凶悪でも小心者なのだ。かといって、本当に弱いわけでもないので、奴に頭が上がらない人間は少なくない。
まあ、新入りでそんな酷い先輩と付きっきりで仕事でもしていれば疲労や鬱憤も溜まるわけだ。クレールも見かねて酒に誘ったのだろう。
「でも、学者を目指すお前がなんで使用人なんかになったんだよ。他の国民に比べて待遇はよくなるが、代わりに自由を失うんだぞ。一度城に入った奴は死ぬまでここで労働するのが義務だってのに」
「わかってます。でも、勉強するにはお金が必要なんです。お給料を貯めて、いずれは城を抜け出して旅に出るんです!」
「だってよ、城を抜け出して連れ戻されてきたリオちゃん」
「え、ええ!? リオネルさんは城から逃げてきたんですか!?」
ニタニタと意地の悪い笑みを浮かべて嫌味たらしく言ったクレールの言葉を聞いて、ロルフは大きく目を見開いて俺を見た。
まさか俺の二の舞になろうとしている輩がいるとは思いもしなかった。いかにも運動が得意そうではない華奢な体をしているというのに、本当に城から、さらには国から抜け出せると思っていたのだろうか。
しかし、知られてしまったことで俺よりも体力のなさそうなロルフの妙な自信は消え失せたことだろう。変人の新入りを可愛がる気はさらさらないが、城に入って間もない使用人に絶望を見せるよりはいい。
大体、城からの脱走者は俺だけではない。今までにも何十、何百もの脱走者が記録されているし、あるいはもっといるかもしれない。そのほとんどが越境を叶えられず、その後の消息も完全にうやむやにされている。それ以前に、城を抜け出そうとする時点で消される者も多い。
だからこそ、監獄なのだ。城の使用人や兵士たちを駒としか思っていないくせに、自分から離れていくことを極端に拒む。王女という看守がいる限り、ここで大人しく働く他に選択肢は残されていない。
「でも、リオネルさんは生きてますよね……王女の機嫌を損ねる真似をすれば、法律など無視して死刑だと聞きましたけど」
「こいつは特別なんだよ。王女のお気に入りは機嫌を損ねても殺されることはない、少しだけ痛い目に遭うけどな」
「特別……? でも、そもそもどうして脱走したんですか? 何か目的があったんですよね?」
不思議そうに問いかけるロルフに悪意はないのだろうが、あまり自分のことを軽々しく話したくない。酒の力を借りて少しは寛大になっているとはいえ、誰しも心の奥底は知られたくないものだ。
「お前と同じだよ。国を出て、どこか別の平和な国にでも移住しようと思ってただけさ」
だけど、ロルフのように明確な目的があって決行したわけではない。とにかく国を越えることだけを考えていたから、その先の目的など考えたこともなかった。
脱走を考えた理由だって、単に今の生活が息苦しかっただけだ。だけどそれはこの城に住む人間の誰もが感じていることだし、誰もが苦渋を味わいながらも本音を押し殺して生きている。それなのに、我慢することさえできなかった俺は何なんだろう。
別に脱走に目的なんて必要ないだろう。ただ一人遠くに行きたかったからなんて安易な理由だって、脱走を決行する同機にはなりえる。
それでいいとは、思うけれど。
一人悶々と自問自答している間にも、軽い口がさらに軽くなったクレールがあっさりと言いふらしていく。
「こいつはさ、王女の世話係なんだよ。だからこの城の中で一番王女と行動を共にする時間が長い。それゆえに感じる重圧や疲労も半端ないのさ。その苦しみは、他の誰にもわかってあげられないんだけどね」
「世話係なんて側近みたいなものじゃないですか……! 確かに王女は少しおかしい人ですけど、最も信頼を寄せていると言っても過言ではないあなたが逃げ出したりでもしたら、平常心ではいられませんよ!」
その通り、実際王女は平常心など吹き飛んでいたらしい。聞いた話なので真実だと断言できないのだが、大層取り乱した王女はその悲しみや怒りを周りの使用人に容赦なくぶつけたそうだ。具体的な話は伏せられているので、恐らく死人は出なくとも負傷者は出たことだろう。
その愛が重すぎる。恋人と呼ぶにはまだ幼すぎ、娘と呼ぶには大人すぎる。そんな年齢の少女が、俺の主として常に傍にいるのだ。時には玩具のように扱い、時には腫れ物に触るように接してくる情緒不安定な少女に忠誠を誓えるほど、洗脳されていない。
酒を飲んだせいか、それとも俺が悪いと王女を擁護する発言を受けたせいか、無性に苛々してきた。普段酒を飲んでも飲まれることはないが、今日ばかりは酔いが悪い。
「王族の血統だか何だか知らねえが、いい大人がガキに遊ばれて敬えるわけねえだろ! 気に入らなきゃすぐ暴力、こっちが折れればまた我儘放題なんだぞ! 毎日そんな生活送ってたら発狂しちまうんだよ、そりゃあこんな国出て行きたくもなるだろうが!」
「おーおー荒れてる荒れてる。そんな大きな声出してると、見回りの従順な犬に聞かれちまうぞ」
「うるせえ、これが黙ってられるかってんだ」
「あ、あの……」
「ああ? テメエもよく覚えとけ、あのガキは俺たちを平気で殺せるイカれたガキなんだぞ」
「り、リオネルさん!」
ロルフに揺さぶられて、回っていた酒の成分が少しだけ抜けて頭が冴えるのを感じた。もうお開きかと意識を部屋に戻すと、始めた時よりも随分人数が増えているような気がした。
何事かと隣を見れば、クレールは我関せずといった表情で、ロルフは恐怖に青ざめて小刻みに震えている。状況が掴めず呆然としていた直後、頬に何かで殴打された激痛が走った。あまりの衝撃に体制が崩れ、椅子から転げ落ちる。
それでもなお何が起きたのか状況を把握しきれていない俺の視界には、ロルフの指導員となったエルワンの意地汚い笑みが映っていた。
「シルベストル、一緒に来てもらおうか」
今更ながらに反省する。
この国に安全な場所などどこにもないのだ。たとえ王女のお膝元であったところで、生活が保障されようと安全が守られるわけではない。
ここは最も安全で、かつ最も危険な場所なのだ。