猛虎の鉤爪
たとえば、この世界が戦争のない平和な場所だったとしても、誰もが皆幸せに暮らせないことくらいは学のない子供でも知っている。
人間は誰かを蹴落とす生き物だと、昔どこかで聞いたことがある。わが身が可愛いあまりに他人を落とし、差別し、自分だけが安全な場所に籠り甘い蜜を啜る。なんていうのは誰しもがわかっていて、そして誰しもがそうだから反対の言葉を口に出さない。
別に誰かを非難しているつもりもないけれど、人生なんてそんなものだと達観するつもりもないけれど、釈然としない気持ちを毎日抱えて生きている身としては、周りで幸せそうな面を引っ提げて生活している他人を見て愉快な気分にはならないだけだ。
どこにでもある、誰にでもあるないものねだりとは、まさにこのことだと思う。
かといって、そんな変えようもない摂理に文句を並べている俺が差別に反対を訴えているかといえば、一度だってない。
弱いものはより弱いものを陥れているのだ、実際。
高くそびえ立つおとぎ話のような城を遠目に仰ぎながら、自分の足元に視線を移す。城下から幾分も離れたこの村では、それほど絵に描いた幸せそうな人間はいない。なぜなら、比較的貧困層の国民が住まう村だからだ。城に近ければ近いほど、民は裕福になる。別にそんな仕組みはないにしてもだ。
さらには俺がそんな貧困層の出身かといえば、それもまた間違っている。確かに金は有り余るほどない。身なりだって泥や傷で薄汚れているし、とても貴族の人間には見えないことだろう。
ちなみに家は城からほど近い場所にある。先程の説明と矛盾してしまうが、家は城から近い。だが金はない。
これが何を意味しているのかは、言わずもがな。
「おっちゃん、その揚げ肉一つくれ」
「はいよ」
なけなしの金で朝から何も食べていない腹のために、目についた肉屋に注文を入れる。本当は金なんて使いたくもなかったが、店内から食欲そそる匂いを放っているこの店が悪いのだ。本当なら金をもらってさらに肉を欲しいくらいだ。
揚げたてで熱を帯びた肉を、手渡されてすぐに口へ持っていく。熱いのはわかっていたが、案の定泣きながら頬張る形になってしまった。店のおやじも呆れた顔を浮かべている。
「あんた、どこから来たんだい。ここらじゃ見かけない身なりだが」
「ちょっと遠くからね。いや、怪しいもんじゃないよ。身支度もなしに旅に出ちまったもんだから、この通りでね」
「とても旅に出たようには見えねえが。むしろ逃げてきたっていった方がしっくりくるよ」
とても失礼な店主である。
善良な国民にしか見えないというのに、まるで犯罪やいざこざに手を出して追われているかのような言いぶりに、思わず眉間にしわが寄る。
確かに薄汚れているし、あちこちに傷の跡も見えるとはいえ、極悪人でも見るような訝しげな目を向けられては、こちらも気分が悪い。ちゃんと訂正しておかなければいけない。
大体犯罪に手を染めたなら、人のわんさかいる場所に自ら赴いたりなどしないのが相場というものだ。たとえばついさっき人を殺めてしまった輩が、空腹に耐えかねて呑気に肉など買いに来るかって話だ。というか、肉なんか買うか。
「まあ、ちょっと訳ありなのには変わりないんだけどさ。そう疑ってくれるなよ、あんたを殺そうだの物騒なことは考えちゃいねえさ」
「そうかい、それならいいんだけどな。ここも随分と治安が悪くなったものだから、最近は見ない顔には不安を覚えちまってね。随分と悪い時代になったもんだ……昔の女王様なら、俺たち下々の人間も見捨てることは絶対なかったんだがね」
「そーだな。それには一理ある。今の王女は駄目だ」
「ありゃあ、国を自分の庭と勘違いしてる。俺たち国民はあの王女のおもちゃなのさ」
今、この国を治めているのは一人の王女だ。普通ならあり得ない統制。というのも、数年前に統治していた女王がなくなって以来、他に継承者がその姫君しかいなかっただけの話だ。誰のせいでもない結果といえばそうだが、おやじの言う通り、時代は一気に悪化した。
前の女王と比較してしまうのは仕方ないにしても、まず城下の国民のことなど一切考えてはいない。自分の生活のためなら何だってやってのけてしまう。それが国民の首を絞めることになるとしても。
結果、国全体にまともな支給も行き渡らず、職を失う者も増え、国家に対する反乱分子まで生まれた。国から逃亡する者、犯罪に手を出す者、数えられないくらいの犯罪者がここ数年で爆発的に増えた。
そんな中、ろくでもない王女だろうと自分の保身のためなら構わないと、城に仕える者も急増している。城の中にいれば、とりあえず安全な生活を送れるからという安易な発想から志願する者がほとんどだ。王女に忠誠を誓う者など、ほんの一握りしか存在しないだろう。
だからもう、この国はおかしい。近々滅ぶと言われてもおかしくはない。
俺もまだ長いこと生きてはいないけれど、それでもこの国の変貌ぶりには驚かされる。まだ幼い頃は平和だった国が、こうも傾いてしまったかと思うとぞっとしない話だ。
なんて、廃れた国政に愚痴を零しながら最後の一口を放り込むと、ふと傍に身なりのいい男たちが数人いるのに気付いた。無駄話に花を咲かせていたせいで、人の気配などまったく感じなかった。
「リオネル・シルベストルだな」
とても肉を買いに来たとは思えない容姿の男たちの中の一人が、確かに俺の名を呼んだ。
汚れひとつない制服を身にまとい、他でもない俺に声をかけた男たちは紛れもなく城の遣いの人間だ。そんな城の人間が権力も何もない国民の住む村に足を運ぶことなど滅多にないわけで、これが何を意味しているのかも大体見当がつく。
こうなることを予測していなかったわけでもない。いつかは彼らに見つかるだろうと思っていたし、最初から絶対に見つからないと信じていたつもりはない。
かといって、彼らと会いたかったわけでもないのだが。
突然現れた城の遣いに困惑するおやじをよそに、俺は焦ることなく走り出した。
逃亡である。
さっきは国から追われている犯罪者と一緒にしないでほしいなどと綺麗事を並べてみたものの、実際今の俺はお尋ね者と同義としても間違いではない。
かといって、何の罪も犯していないのも事実だ。人様に迷惑をかけてまで己の欲望に忠実であれとは思わない。
とにかく、今は逃げなければいけなかった。具体的な説明をしている余裕もなく、圧倒的に逃げなければいけなかった。
俺を探しに来た城の人間も不意を突かれたものの、間もなくして後を追いかけてきた。一対一であれば逃げ切れる自信もあるが、相手が複数では分が悪い。かつ、まだ他に待ち伏せしている仲間がいるかもしれない。
一先ず細い路地へと曲りに曲がって追っ手を巻き、人気のない廃屋を見つけてそこに隠れる。
「思ったより早かったな……」
埃の溜まった床にためらうことなく腰を下ろし、体を休める。
いつかは追われるだろうと思ってはいたが、まさかこんな早くに追跡されるとは思わなかった。このままではここも時期に見つかるに違いない。
追われるような真似をしたのは他でもない俺自身だから、別にこうなったことに関してなんでもどうしてもない。むしろこうなるのは必然だとすら思う。
だけどもし、奴らに捕まってしまったら、この先どうなるのだろう。拷問か、処刑か。物騒な未来ばかりが頭をよぎる。
このまま国境を越えられればそれも回避できるかもしれないが、国境付近には関所があるのだ。そこには王女の犬である兵士が見張っていることだし、まず奴らの目を掻い潜って逃亡など不可能に近い。
諦めて捕まるか。あるいは、微かな希望を信じて脱走を試み、兵士に殺されるか。どちらにしても、待っているのはろくでもない結末だけだ。
思えば、なぜこうなってしまったのだろう。
何も生まれた頃から貧困に喘いでいたのでもないし、犯罪に手を染めるような劣悪な環境にいたのでもない。ごく普通の生活を送っていたはずだったのだ。
何をどう踏み間違えたのかはわからないが、それが今では遠い昔のように感じる。
幸せな家族もいた。楽しい友人もいた。愛すべき恋人もいた。それなのに、今ではすべてが過去のものだ。
俺の何が悪かったのだろう。
感傷に浸っていたところで、ふと遠くから足音が聞こえてきた。どうやら本当に犬のように匂いを嗅ぎつけてきたのか、もう逃げ切れる余裕もなさそうだ。
半ば諦め気味で立ち上がり、服に付いた埃を払う。もうどうなってもいい、そう思えた。
「ろくでもない人生だったよ、本当に」
誰に言うでもなく自分の言い聞かせるように、自嘲気味に言葉は零れた。
まったく、ろくでもない人生だった。できるならしわくちゃになるまで生きてみたかったけれど、長生きしたところでこんな国では幸せにもなれないだろう。
だからいっそ、ここで諦めてしまえば楽になれる。
周囲から一斉に向けられた鋭い刃を見渡しながら、自然と薄ら笑った。