桶狭間の慟哭
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五月一九日、午前。
沓掛城を出発した義元率いる今川軍本隊は、丸根・鷲津の方角より昇る黒煙を見ながら、南西に向かって歩を進めていた。
これまでのところ、作戦は須らく順調に進んでいる。
今日の朝早くには、先遣隊として遣わした松平・朝比奈・井伊の三将が丸根と鷲津の両砦を落とし、大高・鳴海の両城を陥落の危機から救い、緒川・刈谷の織田方も、抑えに派遣した数千の軍勢によって身動きが取れずにいる。
このままいけば、明日の朝には鳴海城を救援できるだろう。守将・岡部元信は本隊の到着を首を長くして待っている筈だ。早く行って、安心させてやらねばならぬ。
義元は自らが乗った輿の上でそう考える。
今朝方、自慢の愛馬が突然暴れだし、紆余曲折を経て乗馬を諦め、今まで通り輿で移動することになった時はどうなることかと思ったが、杞憂だったのだろう。
青毛をもった自慢の愛馬で行軍出来ない事は非常に無念であるが、その馬はしっかりと連れてきている。いつでも乗換えることができる。
一部の家臣は縁起を担いで出兵を見合わせるべきだと進言してきたが、義元はそれを拒否した。
馬が暴れだすなど多々あることだ。一々気にしていてはきりが無い。
ついでに言えば、昨夜の夢も気にはなるが、所詮夢だ。我が悲願を果すためには、何の障害にもなるまい。 嘗て我が家が守護を務め、現在は織田なる成り上がり者に簒奪されている尾張国をこの手で取り戻し、今川家の歴史に新たな一項目を加えるのだ。
そうやって当主が決意を新たにしている頃、長蛇の列をなして進む今川軍は、起伏の激しい丘陵地帯へと差し掛かった。
桶狭間。桶廻間とも書かれる。
尾張有松近辺を流れる手越川に沿って形成された深い谷の事である。
「それ」を目にした義元は、僅かに頷いた。
確かにあの直盛が心配するの頷ける。この凹凸の激しい丘陵地帯は、確かに兵を伏せるのにはもってこいだ。
あの谷間に軍勢を誘導されれば、大軍であればあるほど身動きが取れずに立ち往生してしまう。そこを敵兵に襲撃されれば、いかなる精兵であっても一溜りもない。
だが「それだけ」である。谷間に誘導されなければよいのだし、伏兵にしてもあらかじめ高所に陣取ってしまえばよいのである。歴戦の直観が義元にそう告げていた。
(あの山が良いかの)
義元が目を付けたのは、桶狭間を遡ったところにある、周りの丘よりも一回り程高い山。
此処ならば周りの様子も一望でき、万が一織田兵が伏せていても簡単に対応できそうである。
兵に指示を出し、進路をその山に変更させる。これから丘陵地帯を行軍することだし、陣を張って休息しつつ敵襲に備えるのも良いのかもしれない。
かくして、義元を中心とした今川軍本隊は、その山を中心とした一帯に陣を張り始めた。
織田軍の奇襲を防ぎ、自軍の勝利を完全なものとするために。
その山の名を地元の民はこう呼ぶ。
――おけはざま山と
~鵜殿さんちの氏長君・目指せ譜代大名~
今川軍本隊が桶狭間付近の丘陵地帯に差し掛かっている頃、義元に戦勝の報を届けるべく本隊を目指して行軍する井伊直盛は、自らに付き従う寄騎(与力)・近藤康用にくだらない相談を振っていた。
「のう、平右衛門」
「何でございましょう」
「次郎法師(井伊直虎の事)の結婚相手、どうしたら見つかるかのう……」
結局それか、と康用は内心で呆れつつも、老人の愚痴に付き合う形で返答を返す。
「どうしたらも何も、此方から積極的にお声を懸けるしかありますまい。鵜殿長門守殿のご嫡男との縁談はどうなったので?」
「やんわりと断られてしまったわい」
「左様ですか」
そりゃあそうだろうな、と康用は内心で愚痴る。
次郎法師は今年で二十四。一方の鵜殿家嫡男・三郎氏長は未だ十二。
いくらなんでも年齢差がありすぎる。
この年の差で縁談を受ける人間がいるなら、よほどの物好きか奇人変人の類だろう。
次郎法師を擁護すると、決して不美人と言う訳でも、性格に重大な問題がある、と言う訳ではない。
逆に性格や器量はこれ以上ないという位に良いし、康用の目から見ても美人と言える容姿なのだ。
直盛の言う通り、婿が見つからないのが不思議なぐらいである。
もしも彼に妻子がいなかったら、正室に貰っていたことだろう。
寄騎の身で寄親の娘を側室にするわけには行かないため、今はさっぱりとあきらめているが。
「肥後との婚期を逃して以来、一向に縁談が纏まらぬ。早くしなければ、尼になるしかなくなってしまうわい」
「いずれ見つかるとは思いますが」
ここでいう肥後とは、直盛の従兄弟・直親の事である。
もともと一人娘しかいなかった直盛は、彼を直虎の婿として井伊家の家督を継がせる、と言う約束をしていたのだ。
ところが、それを嫌った家臣の讒言によって謀反の疑いをかけられてしまったため、直親はやむなく信濃に逃亡。
のちに彼は疑いが晴れて今川家に帰参を果たすも、その頃には既に正室を迎えてしまっていたため、結果として直虎は婚期してしまっていた。
「わしも今年で五十三じゃ。人間五〇年と言う。死ぬ前には孫の顔が見たいのう」
「……」
「この戦が終わったら、意地でも婿を見つけなけらばならぬな。手伝ってくれ、平右衛門」
「承知いたしました」
一通り愚痴り終えて満足した直盛は、一帯に広がる丘陵地帯を見回しはじめた。
起伏が激しいこの辺りの地形は、確かに大軍が行軍するのには余り適さない。少し西側にはいかにもな谷間も見える。
義元が采配を誤るとは思えないが、万が一のこともある。急いだ方が良いかもしれない。
有事に備えるために、本陣の兵力は少しでも多いほうがいいだろう。
そう思うと直盛はせっせと馬を駆る。
突然早駆けを始めた直盛に驚きながら、近藤康用以下井伊谷の兵はひぃひぃ言いながらその後を追うのだった。
「織田上総介本隊が前線に出張ってきた、とな」
「はい。斥候から報告です。中島砦付近で上総介の旗印を見た、と」
「むぅ……」
正午。
無事におけはざま山の頂上付近に着陣した義元は、同所でのんびりと休息中であった。
当然、油断しているわけではない。
設陣は完全に終わっていないため、鳴海の方角には瀬名氏俊の部隊を配置して敵襲に備えている。この効果は覿面であり、設陣開始直後に突撃をかけてきた織田軍の小勢を見事返り討ちにしていた。
そんな中届けられたのは、織田信長の本隊が前線に出陣してきたらしいという情報。
義元は大いに悩む。この状況で出陣してきた信長の意図が理解できない。丸根・鷲津の救援のために出てきたのだろうか。それにしては遅すぎる。 既に両砦が陥落したことは信長の耳にも入っているだろうし、奪還が目的だとしてもあの辺りに展開する兵力は万に近い。
聞くところによれば織田本隊の兵は僅か三千程度だという。その程度の兵でどうにかなるものでもない。
この本陣を襲撃してくる可能性もないことはないが、それはもっと無謀である。
(あの男の事だ。何かあるのだろう)
義元の目から見た織田信長は、決して世間で言われているほどの大うつけではない。
本当にうつけならば、自分のライバルとも言うべき存在だったその父・備後守信秀が一生かけて果たせなかった尾張統一を、家督継承後十年足らずで果せるとは思えないからだ。
それに、彼のことをうつけだと見下していたならば、鳴海・大高両城の危機を救うためだけにわざわざこれだけの大軍を用意しない。せいぜい元康や泰朝といった武将に一万程度の軍を持たせて派遣するだけだっただろう。
少なくとも今川義元は、織田信長のことを自らが出陣しても倒すべき強敵だと認識していたのである。
それ故に彼は今の信長の行動に対して大いに悩んでいた。
うんうんと心の中で彼がうめき声をあげていると、側近達が何やら大量の地酒をもって現れた。
怪訝に思い尋ねる。
「なんじゃ、それは」
「大殿。この辺りの百姓たちがわが軍の戦勝祝いにと献上してきた地酒にございます。この通り休息中でございますから、兵たちに振る舞っては如何でしょうか」
それを聞いた義元の頭の中を閃光が走った。
これだ。これがあの男の目的だ。
「ならぬ、戦勝祝いはまだ早い。今は控えておれ。かわりに鳴海に入ってからゆっくりと振る舞おうぞ」
「承知いたしました」
そういって地酒を抱えて出ていく側近たち。
その姿を見ながら、義元は閃いたある仮説を心の中で思い起こす。
おそらく、信長は百姓をつかってわが軍に地酒を献上させ、その酒を飲んで兵が酔っている所を奇襲しようとしたのだろう。
やはり、あの男は恐ろしい。それに、奴はわが軍が休息中という情報を掴んでいたことになる。油断していなくて本当に良かった。
もしも兵に酒を振る舞っていたらと思うと、身震いがしてくる。
だが、自分はその策を見破った。
――ふふふ。どうやらわしの方が一枚上手だった様だの――
そう思いつつ、北東から攻めかかってくるであろう織田軍に対応するべく義元は陣図を見直す。
信長の本隊が確認されたという中島砦はこの山の真正面、桶狭間を下った先に位置する。つまり、桶狭間の出口に兵を置いて塞いでしまえば良いのだ。
義元は地理を確認するとすぐさま兵たち命じ、陣を北西に展開し直させる。
ついでに瀬名氏俊隊を斥候に向かわせた。
襲撃路はふさいだ。もう何も怖くない。 後は策が成ったと思って突っ込んでくる織田軍を返り討ちにするだけだ。
「織田上総介。桶狭間がそなたの墓場ぞ」
義元は自信満々に、織田軍がやって来るであろう北西の方角を睨んだ。
午後一時過ぎ。
無事に今川軍本陣に到着し義元に正式な戦勝報告を終えた直盛は、同僚であり友人でもある遠江二俣城主・松井宗信と喋っていた。
宗信は今年四十六歳。嘗て竹千代を織田方に売り渡した主犯である戸田康光の居城・田原城攻めで奮戦し、義元より「粉骨無比類」と称された忠勇の士である。
そんな人物のもとに直盛が訪れたのは、やはり自分の胸の内にある不安を誰かに打ち明けておきたかったからだろう。
「はっはっは、いくらなんでも心配性でござるよ。信濃殿は」
直盛から胸の内を暴露された宗信は、そういって彼の心配を一笑に付した。
もちろん織田方を舐めている訳でも、油断している訳でも無い。本陣の隣に陣取る彼は義元が織田方の策を破った(と思っている)ことを知っていたのだろう。
「どう足掻いても織田方に勝ち目はないでござるよ。只今も織田上総介が出張ってきたと聞いて、義元様が陣替えを命ぜられた所でござった」
「なんと、上総介自らが出てきておるのか」
「左様。なんでも中島砦にて、かの者の『永楽銭』の旗印が確認されたとか」
「ふむ……」
直盛は考える。
確かに中島砦に信長がいるとすれば、奴は間違いなく桶狭間を通って本陣に強襲をかけるだろう。
桶狭間方面に陣を展開した義元の采配に間違いはない。
大丈夫だ、問題ない。
直盛は再三思い直すが、彼の心の中には暗雲が立ち込めたままだ。
原因は分からない。ただ、自分に桶狭間の情報を伝えた時の氏長の悲痛そうな表情が妙に心に残っている。
もやもやを振り払えないまま、直盛は礼を言う。
「宗信殿。相談に乗って下さって感謝致します。それがしの考えすぎだったようじゃ」
「結構でござるよ。此度の戦……おや、雨でござるか」
宗信が言葉を続けようとしたその時、ぽつぽつと雨粒が落ち始めた。空を見ると、いつの間にか灰色の雨雲が頭上を埋め尽くしている。
そして、雨は幾分もしないうちに強くなってきた。
始めは気にせずに会話を続けていた二人も、これにはたまらず幕屋の中に退避する。
「突然のことでござるな」
「まったく。天の気まぐれとは恐ろしいものじゃのう」
二人が会話しているうちにも雨風は強くなってくる。凄まじい音とともに風が吹き、今川軍の陣幕、軍旗、槍、鉄砲などなど。種類を問わず突風によって吹き飛ばされ、地面に散乱していく。
それと同時に雨も大粒の豪雨と化し、幕が飛ばされて身を守るものが無くなった二人に撃ちかかる。
どうやら他の陣でも似たような状況のようだ。あちらこちらから悲鳴が聞こえる。
「うおおおお」
「こ、これは酷い」
直盛と宗信はお互いに雨風に耐える。
そんな体勢の中、直盛は雨と風の轟音に交じって明らかに違和感のある地響きのような音を聞く。
「それ」は北東の方角から聞こえてきている。それに伴って彼の心臓がドクドクと激しく脈打ち始めた。
両者の響きは徐々に大きくなる。隣で丸くなって耐えている宗信にも聞こえたらしく、彼は丸っこい顔を直盛の方に向けた。
「な、なんでござるか」
「……」
地響きと直盛の心臓の鼓動の区別が突かなくなった時、ついに彼はその音の正体、そして自分の心を覆っていた暗雲の正体に気が付いた。
――織田軍の風雨に紛れた奇襲だ!――
突風が止み、危機感が心に目覚めた直盛は義元の本陣に向けて走り出した。大殿が危ない。
宗信もあとを追う。それを見た松井家の兵たちも二人を追いかける。
義元がここで討ち取られてしまっては、今川家の未来はない。
若様に当主としての力量が足りないとは言わないが、今回の敗戦そして当主の戦死という事態は今川家の勢力を大きく低下させるだろう。
そうなれば、現在同盟を結んでいる武田・北条もどう動くか分らない。
さらに、三河ではいまだに反今川勢力が水面下で活動を続けている。それを抑え込んでいる義元がいなくなれば、間違いなく奴らは蜂起する。そうなれば、危険に晒されるのは三河に隣接する井伊谷だ。娘の身にも危険が迫る。
――わが身にかえてでも大殿は守ってみせる――
悲壮な決意を胸に、喧騒が強くなる陣中をドタバタと走る直盛、ついでに宗信とその一党。
既に間に合わないのではないか。
心中に押し寄せるそんな不安を振り払いながら、直盛はただ一点本陣を目指して走り続けた。
やがて空が晴れる。だが、運命の急転は止まらない。
「それ、かかれかかれっ!」
空が晴れると同時に怒声が響いた。
義元の指示によって陣替えを行っていた前衛部隊は、突然のことに対応が遅れ混乱状態に陥った。
突風によって武具防具その他が悉く飛ばされ、さらに陣の設営中であったことも相まってほぼ全員が土木作業の途中であった事が災いした。
抵抗らしい抵抗もできず、織田兵と思わしき軽装の兵たちに次々と斃されていく。
当然、まともに戦おうとせず逃げ出す兵も現れた。むしろそれが当然である。
だが、逃げた方向が悪すぎた。逃げ出した兵は後ろに控える陣に押し寄せる。大量の兵が飛び込んで着た事によって、突然の嵐によって混乱していた陣営はさらに混乱。次々と連鎖崩壊を引き起こし、あっという間に全ての前衛部隊は織田軍によって蹴散らされてしまう。
ある程度の抵抗を見せる部隊もいたが、勢いが違った。川下りの激流の如し織田軍の勢いは止まらず、ものの数分も支えきれず崩れていく。
そして、前衛部隊を突破した織田軍は、ついにおけはざま山の今川軍本陣に到達した。
義元直下の旗本が必死に抵抗するが焼け石に水。次々と討ち取られていく。
その光景を見ながら、義元は唖然と立ち呆けていた。
なぜだ、なぜこうなった。
自分の采配は完璧だった。それは間違いない。織田方の策も読み切った筈だ。なにが、なにがいけなかったのだ。
嵐さえ起きなければ。豪雨さえ起きなければ。
天の一差しによって、人の知恵はこうも簡単に覆されてしまうのか。
いや、こんな偶然がそうそう起きるとも思えない。
そうなれば、先ほどの嵐は織田上総介が引き起こしたものか。あるいはこうなることを読んでいたのか。
奴は鬼か魔か。それとも……。
そんな思考が義元の全身を支配する。もはや立って居られず、へなへなと萎れてしゃがみ込んでしまう。
そこには海道一の弓取りと言われた人物の威厳はない。
「大殿っ!ご無事ですか!」
そこへ現れたのは、ここまで休まずに走ってきた直盛と宗信、そしてその一党二百人ばかりであった。
彼らは義元の惨状をみて驚愕する。
完全に衰弱しきっておりもはや生気が感じられない。ただの抜け殻と化しつつあり非常に危険な状態であった。このままでは本当に討ち取られてしまう。
「大殿、しっかりなさってください。ここで大殿が果てられては、今川家はどうなりまするか!」
「時間なら我々が稼ぎます。どうか、お逃げください」
「……」
「大殿っ!」
直盛が怒鳴った。織田軍の手は徐々にこの場に迫りつつある。
義元はようやく立ち上がると、二人に命を下した。
「信濃、五郎八郎。殿軍を頼む……」
「ははっ」
「大殿、お願いがございます」
直盛が義元にいった。
「申してみよ」
「はっ、大殿ご愛用の鎧と兜、どうぞこの直盛に御賜りとうございます」
「……よかろう」
そういって義元は自らの鎧と兜を脱ぎ、直盛に着せた。
直盛は影武者となって時間を稼ぐつもりなのだろう。
さらに義元は、自らの愛刀である左文字の刀も直盛に渡した。
「信濃、五郎八郎。死ぬな。生きてもう一度駿河で会おうぞ」
「ありがたきお言葉。この左文字の名刀、必ず駿府にてお返しいたしまする」
「退却じゃ……。法螺貝を……」
そういって、義元は自らの愛馬である青毛の馬にまたがると平伏する直盛・宗信の二名に深々と頭を下げ、旗本に守られつつ戦場を離脱していった。
このまま沓掛に向かうのだろう。
義元が離脱したことを確認した二名はお互いに笑いあう。
「これで、今川家も安泰でござるな」
「うむ。孫の顔が見れぬのは寂しいが、娘の相手は平右衛門が探してくれるじゃろう」
近藤康用は今頃戦場を離脱しているだろう。
自分が返ってこなかったら、井伊谷兵を連れて退却するように指示してある。
「さて、五郎八。もう少しわしの愚痴におつきあい願うぞ」
「良いでしょう。どこまでもお供いたしますぞ」
やがて、織田軍が二人がいる場所になだれ込んで来た。
先ほど法螺が鳴ったことで、義元を逃がしたと思っているのだろう。目が血走っている。
「いたぞ!治部大輔だっ!」
「逃がすな!討ち取れ!」
「ふん、下郎が。我が首を討てると思っているのか?」
次々と場に現れる織田兵を見て、直盛は不敵に笑う。
こうすれば、ますます敵は自分を義元本人だと思うことだろう。
義元から賜った左文字の刀を抜き、宗信と二人で構えを取る。
「当家伝来の左文字の切れ味、その身で味わうがよい!行くぞ」
「うおおおおっ!」
※※※※※※※※※※
桶狭間における今川軍と織田軍の決戦は、織田方の圧勝に終わった。
今川軍は大損害を受け、井伊直盛・松井宗信・瀬名氏俊・由比正信・飯尾乗連といった有力家臣の殆どを失い、本隊にいた8千近い兵も、無事に沓掛に辿り着くことができたのはその半分程度だった。
当主・義元こそ無事だったものの、その精神的衰弱は大きく、失った活力を取り戻すのにはかなりの時間を要するだろう。
一方の織田方は今川の大軍を打ち破ったことで、その名声は大幅に上昇した。
当主・信長は「大うつけ」の名を名実ともに返上し、天下を奪い合う争いに名乗りを上げる。
――こうして歴史は一つの山を越え、新たな時代に向かってその歩みを進めていく
史実から離れたその先にあるのは輝かしい未来か、それとも――
義元公生存。歴史はどうなる。