桶狭間の躍動
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五月十二日に駿府を発した今川軍は、電光石火の速さで駿河・遠江・三河を通過。十八日明朝には尾張沓掛城に到着する。
沓掛城主・近藤景春の出迎えを受けた今川義元は、城内に入るとすぐに全軍の将を集め、軍評定を行った。鳴海・大高救援、及び尾張攻略の調整を行うためである。
「では、評定を行うとしようかの」
そういって、今川義元は評定の間に居並ぶ家臣たちに声をかけた。
つい先ごろまで静寂を保っていた室内は、今や今川軍の将たちでごった返していた。
今川家を代々に渡って支えてきた重臣たちが一同に会して居並ぶ光景は、中々に壮観である。
あるものはこれから起こるであろう織田家との決戦に思いを馳せて武者震いを震わせ、またあるものは、敵中に取り残された味方の身を案じて不安そうな顔をしている。
三者三様、様々な表情を見せているが、誰も今川家の勝利を疑ってはいないのだろう。室内からは戦前にありがちな緊迫した雰囲気はあまり感じられない。
ちなみに松平元康は大高城救援の為に一足先に沓掛城を出陣しており、この場にはいない。
「信濃、大高・鳴海の様子は?」
「本隊に先だって遣わした物見の報告によりますと、両城の包囲は厳しく、今すぐにでも救援が必要な状態かと」
井伊直盛がそういって義元に報告する。
その報告を聞いた義元は、目前に配された地図を見ながら、更に質問を続けた。
「大高と鳴海の間、この二つの砦、邪魔だのう。ここにはどのくらい兵がおる」
「はっ、北方の鷲津砦には織田玄蕃以下四百名ほど、南方の丸根砦には佐久間大学以下七百名ほどが籠っております」
「ふむ、ならばそこまで兵は要らぬか。朝比奈備中、井伊信濃。そなたらに兵二千を預ける。次郎三郎が大高城に兵糧を入れたのち、彼と談合して両砦を攻略せよ。」
「御意」
命令を受けたのは井伊直盛と、朝比奈備中守泰朝という二十代前半の年若い武将。
松平勢に遅れをとりたくないのだろう。その瞳には戦功を求める貪欲な光が灯っている。
その返事を確認した義元は軽く頷くと、再び地図に目を向けた。
「鳴海にも抑えは必要か。葛山備中、そなたは兵五千を率いて星崎方面に向かえ。織田軍の動きを見張るのだ」
「了解いたしました」
「浅井小四郎、近藤九十郎は千五百の兵をもって沓掛に留まれ」
「ははっ」
「緒川、刈谷にも兵を向ける。挟撃されては叶わんからの」
そういって、義元は命令を待つ家臣たちに指示を出していく。
自らの判断に何一つとして疑いを持たず、矢継早に命令を下すその姿は、『海道一の弓取り』と呼ばれるのに相応しい。
命令を下された家臣たちも、義元の命に何一つとして疑問を持たず、次々に頷いていった。
「こんなものかの。何か意見のあるものはおるか?」
暫くのち、すべての命令を出し終わった義元は、家臣達にそう言葉を向けた。
当然、誰一人として異論を挟むものはいない。それだけ、自らの主君の戦略眼を信頼しているのだろう。
「大殿。異論ではございませぬが、一つ申し上げたき事がございます」
そんな空気の中、言葉を発したものが一人。
井伊直盛であった。
「信濃か。申してみよ」
「はっ、この沓掛から鳴海・大高にかけて、桶狭間と呼ばれる複雑な丘陵地帯があると聞き及んでおります。仮に……」
言葉を続けようとした直盛を、義元は手を挙げて制した。
「ほっほ、なるほどの。そなたは織田軍の伏兵を警戒しておるわけじゃな」
「はっ、左様にござります」
「織田方に伏兵を配する余裕などないだろう。何せ、大高・鳴海の包囲だけで手一杯の様だからのう。仮に罠があったとしても、索敵を怠るつもりは微塵もない。大丈夫じゃ」
「……はっ。余計な口出しをして、申し訳ありませぬ」
「よいよい、そのような複雑な地形を事前に知れただけでも幸運じゃ。感謝するぞ、信濃」
「ありがたきお言葉」
そういって、直盛は引き下がる。当面の不安は薄れたが、彼の心中には蟠りが残る。
大殿は油断し過ぎではないか、と。
――何事も無ければ良いのだが――
直盛は心中でそう呟く。
勿論、義元の采配能力を疑うわけではないが、古来より兵力で勝る側が劣る側の奇襲によって敗れた例など幾らでもある。
桶狭間という土地が実際にはどのような所なのかは分らないが、こういう場所はただ複雑なだけの地形では無い、と昔から相場が決まっているようなものだ。
仮に桶狭間が想像を絶するような難所で、今川全軍が行軍に行き詰まり、そこを織田軍に襲撃された時には……。
そこまで考えて、彼は考えをやめた。
これ以上悪い方向に考えては、彼自身の采配に影響が出るかもしれない。
それに、大殿ならきっと大丈夫だ。織田の若僧ごときに遅れをとるお方ではない。
そう強く思い、沈んでいた表情を元に戻した。
直盛が部屋内の様子をみると、幾人かの家臣と義元の問答が終わったところだった。
評定も終わりだろう。
「他には何もないようだな。此度の評定はこれまでとする。皆の者、大高・鳴海の危機を救い、清州に当家の旗を立てるのだ!」
『ははっ』
「では解散!」
義元がそう言い終わるや否や、出陣の命令を受けていた将たちは、一斉に頭を下げて部屋から飛び出していく。
最後まで残ったのは、本隊に属して行軍する者たちだけである。
その将たちに対して、義元は最後の指示を出した。
「本隊の出発は、明日の朝とする。それまで休息をとるとよい」
「御意」
家臣たちの返事を確認した義元は重い腰を上げ、部屋の外へと出て行った。
本人も翌日の出陣に備えて休息を取るのだろう。
主の退室を確認すると、残った家臣たちも徐々にばらけて部屋を出て行った。
そして、評定の間には不気味なほどの静寂が戻る。
まるで、権勢を誇った名門が没落した後のように、部屋の中には誰も残っていなかった。
~鵜殿さんちの氏長君・目指せ譜代大名~
その頃、一足先に沓掛城を出陣した松平元康ら三河勢は、大高城へ行軍中であった。
大量の米俵を抱えているため、行軍速度はどうしても遅くなってしまう。このままいけば、大高に接近するのは夕刻ごろ。
ただ、あまり早く近づいても織田軍の攻撃を受けてしまうため、其方のほうが彼らにとっては都合が良いとも言えるのだが。
そんな彼らのもとへ、朝比奈泰朝からの伝令が届く。
曰く「大高への兵糧入れが終わった後、丸根砦の攻略を頼む」と。
それを聞いた元康は承知した、と短く返答。ここに両砦攻略の手筈は整った。
「大殿も人使いが荒いですな。兵糧入れだけではなく、砦攻略にまで我らをこき使おうとは」
「わしとしては、ありがたい限りじゃがな。我らが功を挙げれば挙げるほど、竹千代さまが岡崎に戻れる可能性が増える。今まで岡崎で燻っていたのだ。せいぜい大暴れしてやるわ」
元康の側にいた武将――酒井左衛門尉忠次が、去ってゆく伝令を見ながらそう嘆いた。
それに対して返答したのは、長坂信政。「血鑓九郎」の異名をとる、松平軍最強の勇士である。
出陣に先立ち、松平元康は、駿河に同行してきた家臣の他、国元に残った者たちも手勢に加えることを許され、岡崎で参戦を願う家臣たちを根こそぎ連れてきたのである。
そのおかげか、三河勢の士気は天を衝くほどに上昇。見ている側からは、対峙する織田軍が哀れに思えてくるほどの熱気を放っていた。
「九郎、もう幼名で呼ぶのはやめてくれ。元服は済んだ。俺には次郎三郎元康と言う立派な名があるんだ」
そういって、元康は信政に返す。
彼は元康の祖父・清康の代から仕えており、元康に従う家臣の中でもかなりの高齢なのだ。
彼の頭の中では、元康はいまだ竹千代と呼ばれる子供のままなのかもしれない。
「おっと、失礼いたしました。」
平謝り。敬意は殆ど籠っていないように聞こえるが、三河武士とはそういうものである。
「九郎殿、暴れるのはよいが、若い奴らにも手柄を譲ってやってくだされよ」
酒井忠次が、武器を振り回している鍋之助と亀丸を見ながら言った。
彼らは彼らで、武勲を挙げようと必死なのである。
「はっはっは。できればな」
(不安だ……)
一方、噂されているとは露程にも知らず、当の鍋之助と亀丸は暢気なものである。
元康の側で、ぺちゃくちゃとお喋りを続けている。
「絶対に大将首をとるんだ。殿と武勲を挙げたら元服させて貰うっていう約束をしたからな!」
と、鍋之助。
「そう簡単に大将首が取れるか、アホ。まずは兵糧入れを成功させなければ話にならんぞ。与えられた主命をきっちり果すのも武勲のうちだ」
それを諌めるのは、いつもの通り亀丸である。
「全く、お前もずいぶん丸くなっちまったよなあ。昔は俺と大して変わらなかったのに。三郎の堅物が移ったんじゃないのか?」
「否定はせん。あいつが俺たちに与えた影響は大きいからな。大して変わらない年齢の筈なのに、学者顔負けの知識を持つ。影響を受けるな、と言う方が難しいだろう」
「全く、俺たちにもいろいろと押し付けやがって。なんだよ、あの『すーがく』っていうのは。武士が銭の計算なんかして役に立つかっての」
「あいつはあいつで、俺たちの将来を考えてくれているのだろう。活躍次第では、俺たちだって知行地を与えられるのかもしれないのだからな。そうなった時に、あいつの言う『数学』とやらは助けになるだろうな」
「そんなもんなのか?」
「そういうものだ」
鍋之助は唸っている。一通り唸り終えると、声を張り上げた。
「とにかく、学問ではあいつに勝てねーからな。意地でも合戦で活躍して、ぎゃふんと言わせてやる。待ってろよ、三郎!」
「やれやれ」
そんなやり取りを加えながら、松平軍は大高城への道のりを進んでいく。
元康は家臣たちのやり取りを聞きながら、自分には過ぎたる者たちだ、と思うのだった。
※※※※※※※※※※※※※
松平軍が大高城を囲む織田軍を視認できる高台まで移動したのは、大方の予想通り夕刻少し前の事であった。
日はとうに傾き、織田方の陣営ではかなりの量の篝火が炊かれて始めている。それほど兵は多くないが、包囲には隙はない。
そんな敵陣を遠くに眺めながら、元康は作戦を練り始めた。
(今から攻撃を仕掛けてもよいが、まだ干潮。清州方面からの救援が到来する恐れがある。満潮になるまで待って、救援の可能性を絶ってから攻めかかるとしようか)
大高城の背後数百メートル先には、この時代、高大な干潟が広がっていた。
この干潟が存在しているうちは、清州方面から大高辺りまで、案外楽に移動できてしまうのである。
幾ら今川全軍が大軍とはいっても、松平元康に預けられている兵は二千ほど。
織田軍が大高城救援にどれほどの兵力を投入してくるか分らない以上、満潮で干潟が消えるのを待って攻撃するのは当然の判断である。
「朝比奈殿に早馬を出せ。攻撃は満潮になってから、とな」
「御意」
「彦右衛門、少し出る。ともを頼む」
「承知」
近くに控えていた近習に指示を出すと、満潮までの暇潰しなのだろうか、自らは鳥居元忠を引き連れ、散策に出掛けた。
その散策の最中、元康は元忠に話しかける。
「彦右衛門、此度の戦、どちらが勝つと思う?」
「それはもちろん我が方でしょう。いかんせん兵力差がありすぎます」
「そうか、やはり皆そう思うのか……」
「何か不安がおありなのですか?」
元忠は疑問を投げかけた。自らの主の不安の訳が分からないのだろう。
当然だ。
今のところ、今川軍に敗北する要素は全くない。
「これが、普通の戦であれば気にならなかっただろうな。だが、今回の相手は織田上総介殿だ」
「織田殿になにかあるのですか?」
「ああ。俺が戸田弾正によって尾張に売り飛ばされた話はお前にもしたことがあったよな?」
「はい。以前お聞きしました」
「その時にな、上総介殿に何度かあったことがある。」
後世においても非常に有名な話である。
天文十六(一五四七)年、松平家が今川家に従属することになったおり、駿河に人質として送られる予定であった元康(当時は竹千代)は、その護衛役だった戸田康光の裏切りによって、尾張の織田信秀(信長の父)のもとに売り飛ばされてしまう。
その際に、当時「大うつけ」として有名であった織田信長と知り合い、お互いに夢を語り合うほどの仲になったという。
後に太原雪斎が捕えた織田信広(信長の庶兄)との人質交換によって尾張を離れるまで、二人は友人であり続けたのだ。
「上総介殿はな、自分は天下を取るまでは死ねぬ、と何度も申しておられた。そんな方がこの戦で斃れるとは、俺にはどうしても思えん。何か、何かあるのではないかと慎重になってしまう」
「……」
鳥居元忠は絶句する。何か言葉をかけようにも、それが出てこない。
当時尾張一国の主ですらなかった織田信長が、そんな大層な夢を持っていたとは思ってもみなかった。それも、自らの主君に語っていたとは。
当然、大うつけの虚言だ、と言ってしまえばそれまでだが、織田信長は尾張の虎と呼ばれた父・信秀ですら果たせなかった尾張統一を成し遂げ、先年には十三代将軍・足利義輝との謁見を果たしたのだという。天下の夢を語れるだけの実力は持っていたということになる。
そんな人物を直接知っている元康が慎重になってしまうのも、今の元忠には理解できる。
自分も同じ思いだからだ。
そう思うと、今まで楽観視していた自分の中に、何か得体のしれない不安が湧き上がってくるのが感じられた。
元忠の表情がしだいに青ざめていく。
それに気付いたのか、元康が元忠に再び声をかけた。
「すまん、彦右衛門。驚かせてしまったな。そろそろ満潮だ、戻ろう」
「は…はい」
二人は踵を返す。
この二人の不安が現実のものになるかどうか、それはまだ不明である。
松平勢のもとに戻った元康は、満潮になり、干潟が消滅していることを確認すると、すぐさま進軍を開始した。
「かかれっ!織田軍を蹴散らし、大高に兵糧を入れるぞ!」
元康の指令が飛び、総勢二千の松平軍は大高城を囲む織田軍に対して一斉に駆け出した。
対する織田軍は、少ない兵力を松平軍の正面に集結させて迎え撃つ。
瞬く間に大高城下は、白刃の飛び交う戦場と化した。
両軍の馬の嘶きと蹄音が反響し、周囲に凄まじい轟音を撒き散らす。
弓矢が飛び交い、時折銃声が聞こえる混戦の中に、単騎で突入する男が一人。
長坂信政である。
松平清康に持つことを許されたという、家中随一の武勇の証である「皆朱の槍」を振り回し、織田兵を貫き通していく。
白色の目立つ頭髪は一部が返り血によって赤く染まり、本人の放つ威圧感によってまるで鬼神の様である。
「織田の弱兵!この白髪首、とれるものならとってみよ!」
そう怒鳴りながら織田兵を威圧し、松平軍の進む道を切り開いていく。
「すげぇ!あれが『血鑓九郎』か!亀丸、俺らも負けてられねーぞ」
「おい、無茶はするなよ」
彼の働きに乗せられたのか、鍋之助と亀丸も織田兵にかかり、次々とそれを討ち取っていく。
その他、酒井忠次、鳥居元忠といった元康側近も活躍し、戦闘開始から僅かで、戦況は松平軍に大きく傾いた。
だが、対する織田軍も粘りに粘る。
がっちりと守りを固め、松平勢によって崩された陣形をちまちまと修復する。
満潮のせいで清州からの増援は期待できないが、丸根・鷲津からの援軍が来ることは大いにありうる。
丸根の佐久間盛重が松平勢の背後を突けば、形勢は逆転するからだ。
だが、援軍到来を前に織田軍は壊滅することになる。
――大高城兵、出陣。
松平勢と織田軍の戦闘開始に大高城内で最も早く気が付いたのは、織田軍の包囲を四六時中睨みつけていた朝比奈輝勝だった。
彼は織田軍の旗の動きから戦闘中であることを察すると、すぐさま鵜殿長照のもとへ駆け出した。
「長門守殿、援軍が到来しましたぞ!三つ葉葵の紋、松平勢でござる!」
「なに、誠でござるか」
「誠の誠。城外で戦闘中ですぞ」
「よし、では今すぐに出陣の用意を」
「長門守殿、此度はわしに任せて貰いたい。奴らにはさんざん泡を吹かされて参った。一度目に物を見せてやらねば気が済まぬ」
そういって、輝勝は土下座する。地面に顔を擦り付け、何度も何度も頭を下げる。
普段のプライドを投げ捨てんが如し焼き土下座に、当然長照は驚き、返答を返した。
「ち、筑前殿。どうか頭をお上げくだされ。この長照、筑前殿の覚悟、確かに見届けました。此度の出陣、お任せいたします」
「かたじけない……」
もう一度深々と頭を下げると、輝勝はもの凄い速さでその場を去って行った。具足に着替えるのだろう。
「やれやれ、筑前殿もずいぶんと溜め込んでおられたようだ。これなら、以前のように敵に遅れをとることもあるまいよ」
そういって、長照は輝勝の駆け出した方を眺めるのだった。
その後雷霆の如し動きで出陣の用意を整えた輝勝以下百名ほどの城兵は、大高城の大手門を解放。松平勢との交戦に夢中な織田軍へと襲い掛かった。
「進め、進め!者ども、今までの恨みを晴らす時ぞっ!」
輝勝の天地を揺るがすような怒声が響く。今までの恨みを晴らせるとあって、彼の勢いはこれ以上にないほどに高まっている。
大将の熱気に当てられたのか、彼の指揮下の城兵たちも、凄まじい勢いをもって織田軍に突撃していく。
「食い物の恨みだ、覚悟ッ!」
「いままでの仕打ち、数倍にして返してやる!」
「嘘だろ……、なんでこいつら、こんなに強いんだよ」
「畜生!兵糧が無いんじゃ無かったのか!」
前方の松平勢ばかりに気を取られていたのが仇となった。ほぼ無防備であった背後から襲い掛かられた織田軍は、陣形崩壊を引き起こした。敵に背後を見せて逃げ出した兵は、勢い盛んな城兵によって次々と討ち取られていく。
特に大将であるはずの輝勝は獅子奮迅の活躍を見せ、すでに敵方の大将であると思われる立派な兜首を討ち取っていた。
これに驚いたのは織田軍ばかりではない。松平勢も同様であった。
今にも死にそうな思いをしていた筈の大高城兵が、自分たちと同じような勢い、いやそれ以上の勢いで織田兵を斬り倒していくのである。
さしもの長坂信政も目を丸くして立ち止まり、元康も信じられないような顔つきをして、崩れ行く織田軍とそれを追う城兵を見つめている。
「お、大高城兵に負けるな、三河武士の力を見せろっ!」
暫くして我に返った元康が采配を振るうが、時すでに遅し。
織田軍は徹底的に叩かれ、その殆どが討ち取られるか、既に逃げ出した後だった。
「いやあ、まさかそのような方法で飢えを凌いでおられたとは。あの勢いにも納得です」
数刻後。織田軍を蹴散らし、無事に大高城内に兵糧を届けた元康たち三河勢は、城内の一角で炊事をしつつ、長照ら守将陣と歓談を楽しんでいた。
「わしも驚きましたぞ、まさか有り余るもので、このような美味い賄いを造るとは」
そういった輝勝が長照の生み出した雑草団子を取り出して見せた。
「ですが、やはり米が一番ですな。うむ、おいしい」
長照はそれを見て恥ずかしげに頷き、米を貪っている。
久しぶりの米食である。雑草団子ばかり食べていた彼にとっては、新鮮なのだろう。
こんな感じで歓談を繰り広げていると、何処からか鍋之介と鳥居元忠があらわれ、元康のもとに跪いた。
「殿、殿。元服させてくれるという約束はどうなりましたか?」
「殿、拙者からもお願い申し上げます、此度の鍋之介の働き、贔屓を無くしても称賛に値するかと」
「うむ。見事であった鍋之介。元服を許そう」
「ありがたき幸せ。」
鍋之介は深々と頭を下げた。彼にとっては念願となる元服である。
「だが、名はどうする?」
「はっ、今は亡き父上と同じく平八郎を名乗りとうございます」
鍋之介の父・本多忠高は、十二年前に織田軍と戦って討ち死にしている。
「諱は?」
「本多家代々の通し字・忠と、戦勝を記念して「勝」という字で、忠勝と名乗りとうございます」
「本多平八郎忠勝か。良い響きじゃ。うむ、名乗りを許可する。鍋之助、いや平八郎。今後とも我が家に忠義を尽くしてくれ。頼むぞ」
「ははっ!」
こうして、本多鍋之助改め、本多平八郎忠勝は元服の儀を終えた。
後年「家康に過ぎたるもの」と称賛される、最強三河武士の登場である。
「しかし『忠勝』か。まるでわしの活躍を見て名乗ったようじゃの。わははははは」
「……」
勝手に舞い上がって大笑いしている輝勝を、その場にいる全員が白い目で見たのだった。
※※※※※※※※※※※※※
再び数刻後。大高城内で十分の休息をとった松平勢は、丸根砦攻略のために大高城城門前に集結していた。
兵力は二千五百程。元からいた二千程の松平勢に、朝比奈輝勝率いる大高城の守兵五百人を合わせた数字である。
朝比奈輝勝が同行するのは、本人が執拗に願ったため。
どうやら佐久間盛重にリベンジ戦を仕掛ける為らしかった。
「わはは、大学め覚悟しろ。以前の様にはいかんぞ!」
そういう輝勝の背後には、メラメラと燃える闘志が幻視できる。以前の敗北はよほど堪えたらしい。
(長門守殿、大丈夫でしょうか……)
(まあ、心配なかろう。一応以前に比べて成長しておるみたいだからな、彼も……)
後ろでは元康と長照がひそひそ話をしているが、幸い輝勝はそれに気づいていないようだ。
そうしているうちに、二千五百人全員が集結した。
「次郎三郎殿、筑前殿、ご武運をお祈りいたす」
「感謝いたします。では、出陣!」
『応!』
鬨の声とともに、城門が鈍い音を立てて開かれ、丸根砦を滅ぼすべく、松平勢(+朝比奈勢)がぞろぞろと出ていく。
暗闇の中を松明を持って行軍するその姿は、まるで巨大な蛇の様だった。
同時刻。鷲津砦南東。今川軍先鋒隊、井伊信濃守直盛及び朝比奈備中守泰朝の陣。
暗闇の中に大量の篝火が焚かれ、星空と陣所を照らし出している。
そんな幻想的な雰囲気のなか、佇む一人の青年武将。
朝比奈備中守泰朝。遠江掛川城主にして、この部隊の大将の片割れの一人である。
今年二十三になる彼は、今川家中では次世代を担う若手の代表格とされている。
次期当主・彦五郎氏真の同年の生まれであり、個人的にも親友ともいえる間柄である彼は、これから攻める鷲津砦を遠目に見つつ、物思いに耽っていた。
三年前、父・泰能の死によって家督を継承したばかりである彼は、どうにかして武功を挙げようと躍起になっている。
朝比奈家は今川家臣団の中でも筆頭ともいえる古い家柄だが、最近では鵜殿や松平といった家がじわじわと家中での発言力を高めている。
このままいけば、筆頭家臣の座から転落しかねない。
本来ならば、両砦の攻略も自分だけの手で果たしたいところなのだ。
だが、主君である義元に井伊及び松平との共闘を命ぜられてしまった以上、従う他はない。
「まったく、難儀なものだ」
泰朝はそういって歯噛みする。
勿論、彼自身には松平や井伊に対して含むところは何もない。それどころか、頼もしい味方だと思っている。
だが、同じ戦場に立つとは言え、彼らは出世競争のライバルだ。何かと意識はしてしまうのだろう。
どうにかして彼らと連携を取りつつも出し抜き大功を挙げ、朝比奈家の発言力をより高めなければならぬ。代々筆頭の座にあった朝比奈家を、自分の代でその座から降ろす訳にはいかぬ。
泰朝は空に浮かぶ月を見ながら、そう決意した。
「備中殿。松平殿から伝令が届きましたぞ」
「通してくだされ」
決意を新たにした直後、井伊直盛が泰朝に声をかける。
松平元康よりの伝令らしかった。おそらく、丸根砦攻撃の準備が整ったのだろう。
泰朝の言葉によって通されたのは、二人の武者だった。
片方は相当に若い。彼の知る鵜殿家の嫡男程の年齢である。
両方とも、槍を背負っているあたり、それの名手なのかもしれない。
「お目通り感謝いたします。それがし、松平次郎三郎が家臣・本多忠真。こちらは我が甥・忠勝」
「お役目ご苦労。次郎三郎殿はなんと?」
本多忠真と名乗った武者のほうが口を開いた。
「はっ、我が主・元康は丑の刻(午前二時)前に大高を出陣いたします。朝比奈様におかれましては、同時刻ほどに鷲津に攻撃を仕掛けていただければ、とのことです」
「ふむ、両砦の連携を絶つか。承知した。すぐに準備にかかろう」
「聞き届けいただき感謝いたします」
ここで、泰朝の脳内にある計略が思い浮かんだ。
大したことではないが、上手く行けば松平勢の武勲を減らしつつ、自軍の武勲を水増しできるかもしれない。
そう思った泰朝は、二人に提案を持ちかけた。
「二人とも、どうだ。次郎三郎殿には私から使者を出す故、そなたたちはこの戦だけでも我が陣に加わっては頂けぬか?」
「何故でございますか」
案の定、二人は目を白黒させて驚くが、泰朝は間髪入れず、さらなる説得を叩きこむ。
「井伊殿の軍はともかく、我が陣には武勇の士が不足しておってな。いろいろと不安なのだよ。聞くところによれば、鷲津の守将・織田玄蕃及び飯尾定宗は、老齢なれどかなりの猛者と聞く。そなたたちほどの勇士がこちらについてくれれば、安心して攻め込めるというものだ」
「我が主君の許可を得なければなんとも言えませぬ」
「……次郎三郎殿には早馬を出すついでに聞いておこう」
そういうと泰朝は元康の陣に使者を送る。
暫くのち、返ってきた答えは『是非』というものであった。
「というわけで、よろしく頼むぞ。二人とも(やった、ぼろ儲け)」
「此方こそ、お頼み申します」
忠真と泰朝が話している中、なし崩しに朝比奈勢への加勢が決まった忠勝は、首をかしげるのであった。
五月十九日。午前三時前。
「大学様、今川軍です……」
「ついに来おったか」
大高城を出陣した今川軍がひたひたと迫る中、丸根砦の守将・佐久間大学盛重は、部下の報告に対してそう漏らした。
篝火の数を見るに、敵は最低でも二千は下らない。夜空に翻っている旗指物からは、三河松平党であることが確認できる。
僅か数百の味方では、砦にこもっても相手にならぬだろう。
「かくなる上は討って出て、華々しく散ろうぞ。異論のあるものは去っても構わん」
盛重はそういって部下たちを見まわす。
だが、部下たちは誰一人として去ろうとはしなかった。
「大学様、我々もお供いたします」
「すまんな、お前たち。今川軍に我らの散り際、見せてくれようぞ」
そういった盛重の目は、潤んでいるようにも見えた。
「門を開け!突撃だ!」
「おおーっ」
丸根砦の門から、数百名余りの織田兵が討って出た。
突然のことに松平勢は一瞬怯むが、すぐに体勢を立て直し、織田兵を迎え撃つ。
「数で劣る筈なのに……。正気かッ!?」
「佐久間大学とはそういう男だ!わしにも覚えがある!」
部隊後方で指揮をとる元康が驚きの声を上げる。
二人の予想では兵力差を前に籠城するであろう、と言う推測がされていたことから、盛重の出撃は不意打ちだった。
並みの将であれば驚くあまり取り乱すだろうが、元康は名将である。
以前盛重と交戦した経験のある輝勝がいたこともあって、素早い対応を取ることができたのだろう。
始めのうちは押していた織田兵も、松平勢の勢いの前に徐々に徐々に押し返されていく。
それでもなお崩れないのは、死兵となっているからだろう。
お互いにかなりの数の死傷者を出しながら、砦の前の攻防戦は夜が明けても続く。
丸根砦を落とし、軍功を挙げて三河を取り戻そうとする松平勢。
一方、死兵と化して最後に武士の意地を見せようとする佐久間盛重以下織田勢。
両者の決着がついたのは、朝になってからであった。
「見つけたぞ!あれが佐久間だ!」
「くそっ、朝比奈か」
因縁の決着をつけるべく前線に出張っていた輝勝が、織田兵の陣奥で采配を握る盛重を発見する。
その姿を発見した輝勝は、兵達に指示を出しつつ、自らも弓を持って盛重を狙う。
「佐久間大学、その首、朝比奈筑前が貰い受ける。覚悟!」
「……!」
そういって、輝勝は構えた弓を大学に向けて放つ。
弦より放たれた矢が、馬上で太刀を振るう盛重の肩口に深々と突き刺さった。
「がはっ……。まだだ、まだっ」
それでも盛重は諦めようとしない。
執念で太刀を振るいながら、松平兵を薙ぎ払っていく。
それを目にした輝勝は、再び兵に指示を出した。
「弓隊、これ以上やつを暴れさせるな。放てっ」
大量の矢じりが、鋭い音をたてて、盛重とその愛馬に突き刺さった。
――佐久間大学盛重、戦死。
「だ、大学様ぁ」
「もうだめだ」
盛重の戦死によって戦意を喪失した織田兵は、松平兵によって次々と討ち取られていく。
丸根砦か完全に陥落したのは、午前七時頃の事であった。
一方、朝比奈泰朝、井伊直盛が攻撃を仕掛けた鷲津砦は、籠城戦を展開。
清州からの援軍の望みが薄い中、織田玄蕃以下数百名の将兵は粘ったが、丸根砦よりも早くに陥落した。
なお、この戦闘で本多忠勝が討ち取られかけるが、叔父の助太刀によって九死に一生を得ている。
「案外、あっけなく終わりましたな」
「そうですな」
未だに戦後の片づけが終わらない鷲津砦で、泰朝が直盛に声をかけた。
両者とも未だに疲れが取れないが、無事に義元からの命を果たせてほっとしているようだ。
「織田軍は強かったが、それ以上にわが軍が強かった、と言うことですな備中殿」
「うむ。これで、われらの勝利は間違いないでしょう。論功行賞が楽しみで仕方ありません」
二人はしばらく雑談に花を咲かせたが、直盛が報告のため本隊に戻ると言い出したため、途中でお開きとなった。
「では、それがしはこれで。本隊に戻らなければならないので」
「助太刀感謝いたします、信濃殿」
「ははは、それがしの助太刀がお役に立ったのならば光栄ですな」
そういって、直盛は井伊兵を連れて鷲津砦を後にする。
あとに残された泰朝は、これからどう動こうかと一人思案するのであった。
※※※※※※※※※※※※※
時刻は少し遡り、五月一八日夜中。
沓掛城に宿泊する今川義元は、悪夢に魘されていた。
自らが討った筈の玄広恵探が夢に現れ、駿河に帰れと叫んでいる。
義元は恵探に対して叫ぶ。
「敵であるお前のいう事など、聞けるはずがない」と
恵探は言う
「私は当家が滅び去るのを心配しているのだ」と
「滅びるとはどういう事だ!」
義元が叫んだ瞬間、偶然、あるいは必然と言うべきか、彼の眼は醒めて、恵探の姿は掻き消える。
「……夢か」
「大殿、いかがなさいました!?」
「なんでもない」
叫び声を聞いて飛び込んできた家臣にそう答えつつ、義元は夢の意味を深く考えるのだった。
――三者三様の思惑を孕み、尾張国内に散らばる歴史の欠片は、様々な軌跡を辿り、運命の場所へと集っていく
決戦の時は近い
桶狭間ももう終盤ですね。