表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42/43

ご注文はたぬきですか?

久しぶりのような気がします。

もうちょっと早くしたいなぁ。


 





 竹谷たけのや松平まつだいら氏。

「松平」の名が示す通り、歴とした徳川氏の庶流である。

 宗家三代当主・松平信光のぶみつの長男・守家もりいえを祖とし、戦乱の世が幕を開けた文明(一四六九~一四八六)年間頃より、宝飯郡竹谷を根拠地として三河に割拠。或いは宗家に従ってその勢力拡大に貢献してきた一族である。

 その歴史たるや四代百年を数え、俗に言う十八松平の中でも最古参にあたると言う。

 古来より諸勢力の興亡治乱が激しい三河国で、吹けば飛ぶほどの力しか持たない小勢力がこれだけ長く生き長らえるというのは中々に凄いことである。

 この家が勢力を保ってきた原因は色々と考えられるが、真っ先に上げられる理由として、当時は三河湾交通の要衝であった犬飼湊を抑えたこと。そして、二代当主・与二郎守親もりちかの時代に今川氏に接近したことがあげられる。

 その時代に撒かれた火種が、竹谷家の発展と葛藤、ひいては今回の離反の原因に繋がって来るのだ。

 少々長いお話になるが、御付き合い願いたい。





 

 時を遡ること六十年程前。松平宗家の当主で言えば五代・長親の時代、鵜殿家で言えば氏長の曽祖父である長将の時代のことである。

 当時の三河国内は、応仁の乱によって守護一色氏が弱体化し、また名門吉良家も内訌を繰り返していたとあって、統治者たる大名が存在せず、調子づいた諸豪族が互いに骨肉の争いを演じ、血を血で洗う戦乱の真っ只中であった。

 そんな状況なのだから、うちが治めてやろうと今川家が侵略の魔の手を伸ばしてきても文句は言えまい。

 時の当主・今川氏親は三河の平定を決断。

 この国に楔を打ち込むべく、手駒となりうる存在を探し始めたのである。

 ここで白羽の矢を立てられたのが、竹谷松平という家であった。 

 ある意味松平嫡流とも言え、一種の独立状態にあった竹谷家の存在は、彼らにとって非常に都合の良いものであったに違いない。

 後の鵜殿家同様、三河の東西を繋ぐ重要な位置に所領を持っていた彼らを取り込んで三河進出の足掛かりとするべく、氏親は策を練った。

 守家の子に偏倚を与えて守親もりちかと名乗らせ、その息子には自分の娘を嫁がせ親善ちかよしと名乗らせる。 

 系譜上は松平家の嫡流である竹谷松平家を一門に取り込み、氏親がその後ろ盾となることで、今川家が三河侵略と支配を慣行する上での大義名分を得ようとしたのである。

 もちろん「政略結婚をした程度で分家が、それも偏屈者の三河武士が寝返るか」と問われれば、確かにそれは否と言わざるを得ない。

 だがこの当時、宗家の跡継ぎである信忠の暗愚さを巡って松平党は揉めていたのである。


 この時の宗家当主・松平長親は傑物であった。

 文にあっては和歌や連歌の教養に通じ、武にあっては今川家の大軍を寡兵で破るという大戦果を上げる。

 当然家臣や領民にも慕われた。

 しかし、いかに慕う主君の指名であろうとも、当主に収まれば碌な事にならないと分りきっている人間を次代の殿様と仰ぐことができるだろうか。

 詰まる所、松平信忠とはそういう人物だったらしい。

 暗愚なのが罪というわけではない。

 三国志の劉禅しかり、イギリスのジョン欠地王しかり、後世の人間からダメ君主、暗君と揶揄されながらも、周りの人間に支えられて立派に元首を務めていた例は過去に幾らでも存在する。

 バカ殿ならば家臣たちが支え、盛り立てていけばよいのだ。

 だが信忠の場合、その家臣たちの気力を消し飛ばしてしまうような性格の持ち主であったようである。

 宗家の当主として備えるべき武勇・情愛・慈悲の何れも持たず、暗愚で薄情、粗暴。家臣はおろか民百姓にすら嫌われ、誰一人として心服するものはいないなどと語られる、どう考えても当主の器たる人物ではなかった。

 そんな人間だったのだから、「優秀な弟や他の一門衆を次期当主に」という動きが起こってもおかしくはない。


 そして竹谷家もまた、他の例に漏れずそんな信忠と宗家に不満を抱く存在だったのである。

 長子である自分たちを差し置いて宗家になった安城松平氏に対して含むところがあったのか、それともこの大混乱に嫌気が差して、独立心を持ち始めていたのか。

 当時の彼らの心境を知る術は最早存在しないが、少なくともこの今川家からの調略をなんらかの機会と捉えたのは事実であるらしい。


 結果的に、氏親の懐柔策は功を奏した。

 大した時を置かずして、竹谷家は今川家に急接近を始めた。

 初めに今川氏と密になって重用されたのは、鵜殿家でも牧野家でも無くこの竹谷松平氏であったのだ。

 ともかく、これが原因で三河国内における彼らの影響力は拡大した。

 お家騒動で疲弊する宗家とその家臣団を後目に勢力を保ち、今川家の後ろ盾を得て、オマケに親戚として扱われていたのだから。

 松平親善と氏親の娘の間に一子(後の松平清善)が生まれると、その傾向はさらに顕著になった。

 表現が大げさかもしれないが、まさにこの当時、彼らは繁栄の絶頂に至ったのである。


 だがその直後。

 氏親が死に、氏輝が跡目を継ぐと三河の状況は激変してしまう。

 後の世に海道一の弓取りと称され、徳川家康生涯の目標となった英傑。

《善徳公》松平次郎三郎清康の登場である。

 しかし、彼の活躍を語る前に、先のお家騒動の結末から語らねばなるまい。



 あの騒動のさなか、松平長親は混乱の責任を取ると称して隠居する。

 三河に覇を唱えた英傑のあまりにも早すぎる引退である。 

 そしてその後、宗家の家督を継いだのは信忠であった。

 あれだけ揉めに揉め、長親自身も信忠の弟・信定を寵愛していたにも関わらず、結局最後まで後継者は変わらなかった。

 単純に親心からくる行動であったかもしれないし、一度決めた後継者を変えることによって起こり得る禍根を恐れたのかもしれない。 

 その変わり、自身が隠居して信忠の後見となり、その手綱を握ることで暴走を抑えるとともに、家臣たちの不安を和らげようとしたのだろう。

 ところが、事態は長親の予想の上を行った。

 信忠は当主になるや否や、長親や家臣の諌めを無視して傍若無人なまつりごとを始めたのである。

 家臣たちの苛立ちと不満は更に高まった。

 しかも、今度は信忠だけではなく、背後にいて何もしない(ようにも見えた)長親に対しても。

 もはや、松平宗家に対する彼らの信用はゼロを超えてマイナスに振り切れつつあったのだ。

 もともと松平党というのは、めんどくさい三河武士の集団を松平家の棟梁がその器量で束ねていたようなものだ。

 その当主が人望を失うどころか、彼らを怒らせるようなことを行えばどういう事態になるか。

 ご想像の通りである。 

 信忠のめちゃくちゃな統治は、めんどくさい三河武士の尻に火をつけ、言葉が聞かぬなら行動で示せとばかりに過激な抗議活動が展開され始めたのである。

 出仕拒否、命令無視は当たり前。

 挙句に謀反の輩まで現れたというのだから始末に負えない。 

 松平家は統治者としての機能を喪失し、空中分解の危機に陥った。


 ここへ来て、動いたのは如何にかして冷静さを保っていた一部重臣と一門衆であった。

 彼らは隠遁していた長親を巻き込んで協議を行うと、信忠を無理矢理隠居させ、その子・竹千代に当主の座を譲らせるという解決策を考案。信忠の元を訪れ、それを受け入れるようにと迫ったのである。

 それに対して信忠は激怒 ………………と思いきや、あっさりと要求を受け入れた。

 彼は早々と竹千代に当主の座を明け渡すと、自身は碧海郡大浜に隠居所を用意して引き籠ってしまったのである。

「最悪一戦交えてでも信忠を排除する」という悲壮な決意を抱いて安祥にやってきた重臣たちは、それはもう狐に包まれたような感覚に捕われたに違いない。

 あれだけ強情で強権的であった彼が、あっさりと引っ込んでしまったのだから。

 君子豹変。その言葉が相応しい、見事な引きっぷりであった。


 それはともかく。

 こうして僅か十三歳にして家督を継ぐことになった竹千代は、名門吉良家の当主・吉良持清きらもちきよから偏倚を受けて元服。

 清孝きよたか、のちに清康きよやすと名乗るようになる。

 松平清康、別名・世良田二郎三郎はこうして世の中に登場した。

 時に西暦一五二三年、大永三年のことである。



 松平清康という人物を一言で表すなら、「徳」という言葉が相応しい。

 身分の上下なく誰に対しても分け隔てなく接し、士卒を憐み、慈愛に満ち、家臣領民の意見をよく聞き、そして誰よりも勇敢であった。

 後世《善徳公》と称された人格は紛れもなく本物であったのだ。

 この人徳、この武威は多くの人々に慕われた。

 それは、お家騒動で荒れていた三河武士とて例外ではなかった。

 清康の当主としての誠実さや善良さは、確かに彼らの心を掴み取り、再び集まるための大きな動機となったのである。

 そして、彼の元に再び集った三河武士たちは、数代前からの悲願であった三河統一を果たすべく、東奔西走の戦いを開始する。

 清康が家督を継いだ翌年には岡崎の西郷信貞を攻めて降伏させ、本拠を安祥からこちらに移す。

 さらにその翌年には西三河奥地に兵を進めて足助の鈴木氏を降伏させる。 

 有名な「葵の御紋」が家紋となり、さらに新田氏の末裔と称するようになったのもこの時代のことだ。

 家督を継いで僅か二、三年。

 たったそれだけの期間で、清康は松平家を三河随一の大勢力に育て上げたのである。

 松平党は信忠という冬を乗り越え、清康という春を迎えて飛躍の時を迎えたのであった。



 これに慌てたのは三河の諸将。特に松平家の騒動に伴って、事実上離反していた連中だ。

 つい先日まで内部争いを続けていた勢力がいつの間にか纏まって大きくなり、自分たちを飲み込まんとその矛先を向けてきたのだから。

 彼らの心中は揺れに揺れた。

 ただ何もせずに降伏すれば武家の名折れ、かといってまともに戦っても勝ち目はなく、頼みの今川家は充電期間中で援軍は当てにできない。

 反松平で同盟するというのもこの時代では数々の因縁からありえなかった。

 混乱を治めた松平家と入れ替わるかのように、今度は彼らが激しい混乱に襲われたのだ。

 そしていざ松平党と対峙すると、その選択は四散した。

 武士らしく戦って果てるもの、あっさりと降伏して傘下に入るもの。そして城も領地も投げ出して遁走する恥知らず。


 竹谷松平家もまた、彼らと同じように選択を迫られた。

 このまま今川方に属して宗家と戦うか、今川家から離れて再び宗家の側につくか。

 いかに独立勢力と化していても、竹谷家は松平の一門。それも最古参だ。このまま従うのが筋というものだろう。

 しかし、現状は今川家に属する身。

 この当時の当主・親善にとってこの家はただの主家というだけではなく、妻の実家でもあったのだ。

 三河の勢力比率が変わったからと言って、そう易々と縁を切れる相手ではなかった。

 宗家との縁、今川家との縁。

 その両者を天秤に掛けて、どちらを取り、どちらを捨てるか。

 親善は悩みに悩んだ。

 一歩間違えれば、自分の身どころかお家そのものを滅ぼしかねない選択なのだ。

 そのどちらを取ろうとも、決して後悔だけはしないように。

 自身にそう言い聞かせながら。

 そして、彼は散々悩み抜いた結果、宗家の側に舞い戻るという決断を下した。

 たとえ宗家に不満があろうが、他者と遠戚になろうが、結局は親善も本質は松平の人間。

 一揆勢についた徳川家臣が悩み続けていたように、やはり身内と戦うことに抵抗が存在したのだろう。或いは他の者たちがそうであったように、彼もまた清康の人柄にほれ込んだのかもしれない。

 親善は妻であった氏親の娘を離縁すると、今川家に対して明確な敵意を表し始めるのであった。



 これに激怒したのは今川氏輝である。

 たとえ小さな存在とはいえ、父親の代にあっさりと従った勢力が、自分に代替わりした途端に敵に回ったのだ。嘗められていると考え、屈辱に感じるのも無理はないことだろう。

 だが、小勢力の所属先が変わるというのは戦国時代ならよくあること。

 それ自体は特に責められることではないし、氏輝もある程度は予想していたことだろう。

 むしろ氏輝の怒りに火をつけたのは、竹谷家が婚姻関係を何の通達もなしに突然解消し、敵対する関係に回ったということであった。  

 のちに松平広忠も似たようなことをやっているが、小勢力同士の婚姻であったあちらの場合と異なり、こちらは小勢力側が一方的に遠戚関係を解消し、剰え敵に回ったのだから、大国今川家としては面子を潰された形になったのだ。

 氏輝は本気で竹谷家を潰してやろうかと考えた。

 しかし、氏親の死によって動揺する駿遠二州を放り出して三河に軍勢を向ける程の余裕は、流石の今川家にもなかった。

 だが、氏輝としてもこのまま放置というわけにもいかない。

 自身の面子のこともあるし、何よりも父親の悲願であった三河進出を諦める訳にはいかないのである。

 ならばどうするか。

 こういう時こそ政略の出番である。

 どうやら今川氏輝という人物は、こういった感覚に優れた人物だったらしい。

 対した苦労をすることなく、自分に靡き都合よく動いてくれそうな勢力を見つけ出してきたのである。


 それが鵜殿家であった。


 竹谷家の隣に領地を持ち、同家と何かといがみ合っていた鵜殿家の存在は、今川家の影響力を三河に確保し裏切り者を如何にかするという目的の点で非常に合致した存在であったに違いない。

 おまけに、元々は他国の人間であった鵜殿家には、他の三河国人たちが抱えているような厄介な政治的しがらみは存在しなかった。取り込もうとする点で、これほど便利な勢力はなかなか存在するまい。 

 こうした事情からか、氏輝もまた氏親と同じような手を使って鵜殿家を取り込むべく策動した。

 毎度お馴染み政略結婚である。

 丁度この頃、鵜殿家には長持という将来有望な若者が当主を継いだばかりであり、ついでに彼は未婚であった。氏輝はここに目を付けたのだ。

 しかし、そう都合よく今川家に適齢期のお姫様がいるとは限らない。

 数年前ならいざ知らず、家督を継いだばかりであった氏輝には、まだ跡継ぎである男子もいなかったのだから。

 だが彼は、この窮地を裏技とも言えるやり方を使って突破した。


 大永八(一五二八)年。

 氏輝は、松平親善に離縁され実家に戻っていた自身の姉妹を、長持に輿入れさせたのである。

 ……幾らなんでも歳が離れすぎだろうと思った方は正解である。

 この時、鵜殿長持は十五、六歳。そして、氏輝の姉妹の方は少なく見積もっても三十六、七歳。

 正に「この祖父にしてあの孫あり」といったところであった。

 政略結婚である以上、多少の年齢の違いはやむを得ない事ではあるのだが。流石にこれは行き過ぎである。

 養女をとるだとか、次世代同士の許婚を使うだとか、色々とやりようはあったと思われる中で、氏輝がこの手段を使ったのは、ほぼ確実に竹谷家への嫌がらせのためだと断言できる。

 ……離縁した自身の正室が、仲の悪い隣の領地に嫁いでくる。

 松平親善にとって、これは何にも代えがたい屈辱となったに違いない。

 氏輝にしてみれば、面目を正面から潰された復讐のようなものだったのかもしれないが、重い別離を経験して尚、政略の駒、嫌がらせの道具として利用されたこの女性の内心は果たしてどのようなものだったのだろうか。

 命令されるがままに自分の子より一回りも年下(親善との間の子・清善は一五〇五年生まれ)の少年に嫁がされ、元夫と息子の所領を目と鼻の先に見ながら暮らす。

 正直生きた心地がしなかったことだろう。

 結婚の翌年には嫡男・長照が生まれていることから、夫婦仲が良好だったと思われることが彼女の唯一の救いになっただろうか。

 だが、長持とその正室。両者既に亡き今となっては、最早確かめようのないことである。






 こうして、鵜殿家と竹谷家の決裂は決定的なものとなった。

 守山崩れで清康が斃れ、松平党による三河支配が終焉を迎えると、両者の対立は頂点に達し、遂には合戦に及んだ。

 塩津村、即ち氏長が塩田に魔改造した村落が竹谷家から鵜殿家の手に渡り、犬飼湊が再起不能な程のダメージを受けたのは、全てこの頃の出来事である。

 この合戦自体は周辺勢力の調停や松平宗家が今川家に従ったことでやがて治まり、表面上は敵意も消え失せた。

 だが、両者の内側に宿った憎悪の焔は消えずに残り続け、静かに燻り続けたのであった。


 そして、時は流れ。

 三河の内乱と一向一揆、武田の調略という導火線がぶら下げられた時、その焔はそれに飛び移りやがて爆ぜた。

 狙いは、小規模ながらも有名になりつつあった塩津の塩田と、同じく発展の兆しを見せていた上ノ郷そのもの。

 当代の当主・松平清善はこれが竹谷家のかつての繁栄を取り戻す最大の好機と考え、鵜殿家が一揆や国人衆の鎮圧に手を焼いている間に、それらを横から掠めとる計画を立てたのである。


 彼は気に入らなかったのだ。

 元々自分たちの領地であった塩津村を塩田に改造し、富を生みだしていることが。

 そこから生み出されるものは、本来ならば自分たちに帰するべきもの。

 曲がり間違っても他者の手に渡っていてよいものではない。

 蒲郡の湊もそうだ。

 あれは、衰退した犬飼湊に代わって三河湾の中継拠点として作り上げられたと聞いている。

 ならば、その犬飼湊を擁している自分たちこそが治めるのにふさわしい。

 鵜殿家では力不足、分不相応だ。

 それに、かつての合戦の仇を返す機会でもある。

 やられたらやり返せ。

 かつての我らが味わった屈辱をそっくりそのまま倍返しにして味あわせてやる!

 

 一歩間違えれば、宗家に対する謀反になりかねないことには目を瞑り、あくまでも鵜殿家と竹谷家の私闘であると、自分に強く言い聞かせながら。

 松平清善は、上ノ郷に向かって兵を進めたのである。


  







解説だけでこれだけかかるとは思わなかった。

話が進まない(涙

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ