言毒
混乱の始まり。
長かった一五六三年も終わりに近づき、寒さが厳しくなってきたと感じられる十一月半ば。
牛久保六騎が一、三河山本氏の治めるここ八名郡賀茂郷も越冬の準備で大忙しである。
自然の移り変わりとは早いもので、紅葉で賑っていた山々の木々は吹き荒れる寒風によって丸裸になり、つい先ごろまではちょくちょくと姿を見せていた野の動物たちも、冬籠りを始めたのか、最近ではてっきり姿を見せなくなっている。また、それと同時に湿田の水も所々凍りつき、朝夜になれば激しい寒さが襲うことを、その身をもって証明していた。
そんな何とも言えない寂しさと過酷さを伴う光景は、否が応でも冬の訪れを実感させる。
そして、大自然はもとより、人間の方も大忙しだ。
既に豊穣の秋は終わりを告げて、これからやって来るのは厳寒の冬。まともな準備をしていなければ、あっという間に凍え死んでしまうだろう。手抜きは許されない。
そんな脅迫概念に駆られたのか。
老若男女、武士も農民も関係なく寒々とした風景の中を走り回って薪を集め、村じゅうの倉庫には越冬のための食糧その他が次々と積み重ねられていく。
身分や立場など関係なく、新たな年を迎えるため一種の連帯感をもって働く彼らの機械的な動き。
それを寂しいと評するか、美しいと評するかは各人の直感次第であろう。
そんな慌ただしい空気の中、緑が無くなった田んぼ道を歩く者がいた。
袈裟に鈴懸、錫杖、頭巾。そして、全身を覆う真っ黒な外套。
一見すると修験者のような恰好をしたその人物は、村人が訝しんで眺めるのも意に介さず、ざくりざくりという不安定な足音を立てて、郷の中央部へ進んで行く。
時折吹きつける強風によって外套が靡き、時折見える口元には「ひげ」が見えるあたり、男性なのだろう。
やがて、郷中で一番大きな屋敷の前に辿りついた彼は、門衛の面前に立つとこう告げた。
「私はここのご領主一門に連なるもので、名を山本勘蔵信共と申す者。此処の御領主様にお目通り願いたい」
~鵜殿さんちの氏長君・目指せ譜代大名~
その「珍客」の来訪を聞いた山本家当主・山本光幸は、越冬の準備で多忙な時期に何事かとため息を吐きつつも、その人物が待つと言う屋敷の一室に移動を開始した。
「山本勘蔵」なる人物は聞いたことが無い。
通称のよく似た人間なら弟にいるが、三十年近く前に家を飛び出して他国に渡って行き、その後は全くの音信不通だ。さる大名家に仕えて重用されていると言う話も聞く。彼が戻ってきたと言うことはまず無いだろう。
だとすると、此処の一族を祖に持つ浪人が旧縁を辿り、今川家に対する仕官の口利きを頼みに来たか、或いは落ち延びて来たのかもしれない。
後者ならばともかく、前者だった場合は少々扱いに困るが、とりあえず会ってみなければ始まらない。
光幸はそんなことを考えながら、彼が待機している部屋に入っていき、どかりと腰を下ろしてその場で平伏している人物に声をかけた。
「そなたが山本勘蔵なる者か。面をあげい」
平伏していた人間の頭が、ゆっくりと上げられた。
そして、その人物の顔をみて光幸は驚愕する。
「お初にお目にかかります。叔父上」
「……!」
彼の目の前に現れたのは、自らの弟、山本勘介の若いころに瓜二つな顔。
若かりし頃の彼のように片目が不自由と言う訳では無いが、目つき鼻つきその他諸々勘介本人がやってきたと言われても信じられる程に似通っているのである。
光幸は混乱する頭をどうにか押さえつけ、目の前の勘介二号とも取れる人間に動揺した声で話しかけた。
「儂を叔父、と呼ぶ……。そなた、勘介の子か」
「はい」
彼の予想は当たったようである。
八百比丘尼でもない限り年を取らないなどとと言うことは絶対にありえないため、当然なのだが。
勘蔵の仕草一つ一つにも若き日の勘介の姿を重ねた光幸は、ふと勘介の現状を確認するべく疑問を投げかけた。
ほぼ縁の切れかけた二人ではあるが、離れていても肉親。やはり、所在が気になるのだろう。
「勘介は息災か?もう数十年も会っておらぬが」
「父は少し前、上杉との戦で……」
「……左様か」
半ば予想していたとは言え、帰ってきた言葉は光幸にとっても衝撃的なものであった。
勘介と過ごした幼い日の記憶が頭を流れ、思わず目頭を抑え俯く。
山本勘介は二年前の第四次 川中島の合戦で討ち死にしてしまっていたのだ。
もう、この世にはいない。
その事実に気づいた光幸は、声を挙げず静かに泣き始めた。
勘蔵は黙ってそれを眺めるのみ。声をかけたくても掛けられないのかもしれない。
そんな叔父甥の一幕は、この後暫く続いた。
「それで、今日はどうした?見たところ、生活に困って銭を集りに来た、と言う訳ではあるまい?」
「……」
暫くして、悲しみと感慨も収まり幾分か頭がスッとした光幸が、勘蔵に今日ここにやってきた理由を尋ねた。
だが、勘蔵は黙して答えようとせず、只々光幸の方を向くのみ。
「まさか、勘介の訃報を伝えに来ただけか?」
「……叔父上、叔父上は現在の三河をどう思いまするか?」
開いた勘蔵の口から飛び出したのは、質問を質問で返すという、何とも可笑しなものであった。
だが、威圧感とも言えるその表情に気押された光幸は、それを咎めるのも忘れて思わず返答してしまう。
その声というもの、ひょろりとした聞こえで何とも情けない事であった。
「……特に何とも思わぬな。治部大輔様の見事なご手腕で、丸く治まっていると言えるだろう」
「果してそうでございましょうか。」
光幸の返答にそう切り返した勘蔵は、企んだような笑みを彼に向けた。
確かに何もない、と言えば嘘になる。
奥三河の山家三方衆と、その影響下にある豪族たちの動きは相変わらず不透明であるし、つい先日には西三河で徳川家の将兵と一向宗門徒との間で一悶着あったという噂もある。
甥の言う「そう」とは、間違いなくこのことを指していると思われる。
だが、これと甥の笑顔の関連が分からない。
一瞬、今川家と対立している家から調略のために派遣されてきた、とも考えたのだが、現状で今川と敵対関係にあると言えば織田家位だ。美濃攻略に集中しているあの家が、わざわざ東三河くんだりまで調略にやって来るとは思えない。
だとすると……。
そんな悩みを始めた光幸の内心を知ってか知らずか、勘蔵はさらに言葉を続ける。
「間もなく、この三河は混乱に見舞われまする。桶狭間の負けによって力の衰えた今川家では、とても収めきれる者ではありますまい……」
「何……?」
この甥は何を言っている。
確かに前述の奥三河や一向宗をはじめ、不安要素は盛り沢山だ。だが、それが近々爆発するなどとなぜ分かるのだろうか。そして、今川家の手に余るものだと断言できるのも何故だ。
まるで、それを全て知っているかのような発言。
さらに混迷を深める光幸を傍に見て、勘蔵は満足そうに薄ら笑いを浮かべた。
だが、悩み続ける光幸はそれに気づかない。いや、気づけない。
彼の思考は完全に困惑の海に沈み、最早些細な変化を気にしなくなっている。
勘蔵はなおも続ける。
「更に、最近の今川家は彦五郎殿のもと色々と新しきことに取り組んでおられると聞きます。これが三河全土に及んだ暁には、邪魔なものは排除されてしまうかもしれませぬなぁ……」
「……!」
確かに勘蔵のいう通り、現在の今川家は次期当主・彦五郎氏真のもと急速な革新を行い始めている。
領内の再検地、港の開発、新たな税制の導入。最近では領民から直接意見を聞く「目安箱」なるものを設置したという。これを利用した民の直言によって、知行地内の悪政が表沙汰になった孕石主水は、その領地をすべて没収され功臣の地位から転落してしまったとか。流石にこれは奴の自業自得だろうが、これが三河にも設置されるようになれば、些細な事でもお家の大事になりかねない。
さらにここ一年の間に、今川本家が上ノ郷領内の政治にまで口を出すようになっているという。
……国人による統治という形態をとっている三河にしては、これは半ば異常な事である。
――もしや、今川家は我ら三河の国人を取り潰し、その領土をもって桶狭間敗戦の補てんとするのではないか――
そんな疑念が、光幸の内心を支配する。
鵜殿領内で成功を収めたことに味を占めた氏真が三河に対する干渉を強めれば、この国の諸豪族が持つ僅かな権益の殆どが掻っ攫われていくことになる。
ただでさえ石高が低く、色々と弁が悪い三河だ。そんなことをされれば、自分達は破滅への道を一直線に進んでいくことになるだろう。嘗て今川家に支配されていた岡崎・松平党の困窮をなまじ知っているだけに、今度は自分たちがそんな目に合うのではないか。
彼の心に押し寄せた疑惑の蠢きは、じわりじわりとその内心を蝕んでいく。
そして、頃合いと見た勘蔵は、自らの持つ最大級の爆弾を投下する。
「此処だけの話でございます。拙者が聞いたところによれば、西三河の一向宗どもが徳川蔵人の横暴に怒り、蜂起の準備をしているとか。一向衆の一揆と奥三河の叛乱。この二つが同時に起きれば、いかに徳川や小原が名将と言えど、太刀打ちできますまい……」
「……!」
光幸の中で、何かが弾けた。
顔面は青白くなり、見るも無残な情けない表情で目を白黒させる。
疑惑を煽る勘蔵の言毒と、今川家の衰退に不安を感じる光幸の心。
この二つが融合し、同調し、理性を超越する。
「か、勘蔵。わしはどうすれば良い……」
「そのお言葉を待っておりました。お耳を拝借……」
「ば、ばかな。わしに今川家を裏切れと。それにそなたの主家は!」
「今は戦乱の世。盟…など在って無き物でございます。ククク……」
光幸の返答に満足した笑みを浮かべた勘蔵は、彼の耳元でそっと呟いた。
まさに言毒。脳髄に染み渡り、破滅を齎すモノ。
「ああ、そうそう。この話、他の六騎の方々にも伝えて構いませぬ。叔父上も味方が多いほうが心強くありましょう」
「わ、わしは同意するとは言っておらぬぞっ!それに、吉田(豊橋)には娘を人質に出しておる……。そんなことをすれば、間違いなく……」
「ほう、ならば家を滅ぼしても良い、と。父上が聞けば悲しみましょう……」
余りにも無礼な物言いだが、勘蔵のペースに乗せられた光幸には、それを咎める余力は無い。
見えない何かにきりきりと締め付けられた彼は、もはや理性の限界であった。
「勘蔵……。今日はもう帰ってくれ。わしは疲れた」
「御答えは?」
「……いずれ返す」
「ククク、お早めに」
「ああ……」
そんな末期のようなやり取りを終えて、勘蔵は賀茂郷から退出していく。
後に残された光幸が感じたことは、途方もない虚無感と絶望だけであった。
翌、一五六四(永禄七)年正月。
吉田城代・小原鎮実は、不穏な動きを見せる奥三河国衆に対する見せしめのため、彼らと、そして東三河の国衆から預かっていた人質十数人を吉田城下 龍拈寺において独断で処刑。
――そして、その中には今年十四になる山本光幸の娘も含まれていたのである。
山本勘蔵は史実では一五五六年生まれと伝わっていますが、この作品ではもう少し早く生まれています。