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動乱の階

主人公の初陣もそろそろですね。

 



 吉良義昭は三河国西条・東条を領する名門・吉良家の現当主である。

 彼は西条城内の自らの居館で、深い苛立ちに包まれていた。


 かつて織田家に協力し、今川家によって吉良家の家督を追われた兄・義安の後を継いで当主になったは良いが、本来は分家であるはずの今川家の風下に立たされてばかり。

 数年前、織田家と和を結んだだけで今川義元に激怒され、公衆の面前で恥をかかされたことに対しても未だに怒りが収まらない。

 先日など、松平風情の使者が訪れ、身の程知らずにも「織田家との戦に協力しろ」とのたまう始末。

 当家の力を借りるならば、当主自らが地べたに這いつくばって助けを請うべきだ。


 当家をなんだと心得るのだ。

 恐れ多くも上様の御一門・吉良家であるぞ。


 義昭はボロボロになった親指の爪を噛み砕き、内心で怒りをぶちまける。

 どれもこれも今川が悪い。本家を凌ぐ力を得たぐらいで、大きな顔をしおって。

 分家ならば本家に従うのが道理というものであろう。本来ならば、今川家が得ている駿遠三の領地を無条件で我が家に献上すべきなのだ。

 それなのに、あの分家の屑どもは……!


 もはや怒りを堪えられないのだろう。

 がたがたと貧乏ゆすりをしながら小さな目をあり得ないほどに見開いて、ぎょろぎょろと虚空を睨みつけている。

 顔面は茹蛸のように赤く膨れ、今にも破裂してしまいそうだ。


 幸い、この部屋には彼以外の人間はいない。

 だが、その姿を見たものがいたならば、きっと彼のことをこう言い表すだろう。


 ――温泉に浸かる山猿、と。


「はぁ、はぁ」


 暫くして怒りつかれた彼は、これから成就するであろう自らの壮大な野望を思い描きつつ表情を元に戻した。


 桶狭間の大敗によって今川家の勢力は後退した。

 これまでは恥を忍んで面従腹背の姿勢を取り続けてきたが、もうその必要はない。

 今ならば奴らを三河から追い出すことができる。

 分家風情に奪われている領国をすべて取り戻し、東海道のあるべき姿をこの手で取り戻すのだ。


 その直後、彼は突然笑い出す。

 げらげらひいひいと狂ったように高笑いを挙げ、腹を抱えて達磨のように転げ回る。


 狐憑き。


 正にその言葉が似合う彼は、自らの妄想に浸っているのだ。

 駿遠三が自らの足元にひれ伏し、今川家を滅亡に追いやるその瞬間を。


 家老の富永忠元や有力分家である荒川義広などは頑なに反対しているが、何を怖気づくことがあろうか。

 名門である我が家が一度兵を挙げれば、三河の諸将は次々と我が二つ引きの紋の前に馬を繋ぐに決まっている。

 逆らうのは義元子飼いの松平と、今川の縁戚・鵜殿。そして、東三河で今川寄りの態度を崩さない牧野ぐらいなものだろう。


 実際、挙母の中条常隆や桜井松平家の松平家次は、長年に渡る今川家の圧迫に反感を持ち臣従を申し出てきている。


 兵は十分に集まりつつある。

 あとは挙兵まで今川方に気取られなければよい。

 昨年来た松平の使者は、当家が織田と通じているのではないかと疑っていたようだが、そんな愚かなことがあるものか。


 我は吉良家の当主なるぞ。


 何故織田と言う得体の知れぬ者どもに助力を請わねばならんのだ。

 他家の助けなど無くとも、我が家だけで大望は成就できる。北条や武田と結ばねば碌に国外進出もできぬ今川とは違う。

 当家ならば、上様の一門という名だけで諸国を圧倒できるわ。


 こうした高貴な考えに至らぬ下卑た者たちなど恐るるに足りぬ。

 あのような者を重用する松平元康の器も、たかが知れるというもの。


 ああ、そういえば駿府に連れて行かれた兄は元気でやっているだろうか。

 我が立てば奴は真っ先に殺されるだろうが、分家に負ける男など我が一門とは思わん。

 せいぜい、駿府で果てるがよい。


 今に見ておれ。

 我ら足利一門こそ、この日ノ本を治めるのに選ばれた家。

 有象無象の輩は黙って我らに従っておればよいのだ。


 余りにも時代錯誤の考え。

 各地でしのぎを削る大名たちが聞いたならば、皆一笑に附すだろう。

 だが、名門特有の思想に凝り固まった彼は気づかない。


 ――吉良家内部に潜む影の姿にも。






 ~鵜殿さんちの氏長君・目指せ譜代大名~






「アホか、あいつは」


 義昭の野心を耳にした元康は、自らの岳父である関口親永にそう呟いた。


 実のところ、吉良義昭の考えはすべて今川方に筒抜けであった。

 彼の無謀な野心に嫌気がさした荒川義広が数日前に元康のもとを極秘で訪れ、彼の考えと計画、更に軍備その他諸々の情報を盛大にぶちまけたのである。


 元康はおくびも隠さず、内心でため息を吐く。


 名門が聞いて呆れる。

 吉良家が衰退したのは自らの行いのせいだろう。

 今川家が南北朝から始まった動乱の世の中を生き延びようと、当主・家臣が一丸となって切磋琢磨している頃、彼らは一族同士で無駄な争いを続けてきたのだ。

 力の差がつくのも当然と言えた。


「かの者には、時流と言うものが見えぬと存じます。もはや足利一門には何の力もなく、諸大名への影響力も皆無。血筋だけで世を束ねる時代はもはや過ぎ去ったと言うのに……」


 元康の発言に、関口親永が同意した。

 瀬名姫と竹千代を駿府より岡崎に送り届けにやってきた彼は、義広が駆け込んできた日、偶然その場に居合わせたのである。


「駿府の大殿には報告いたしましたぞ」

「して、大殿はなんと?」

「兄弟分であり本家筋でもある吉良家を攻めるのは忍びないが、あちらが悪意を持って刃を向けようとしている以上、先手を打つのも止むを得ず、と」

「左様ですか。大殿は本家を潰す決心をつけられたか」

「その様ですな」

「そうなると、上野介殿の身の上はどうなりまするか……」


 元康は必死の形相で親永に迫る。

 駿府にて人質になっている吉良上野介義安は、元康が元服の際の理髪役を務めた人物で、友人ともいうべき人物なのだ。

 吉良家が敵になれば、その身もただでは済まされないだろう。

 彼が心配するのも至極当然である。


「それはご心配ありますまい。大殿は義昭めを排除した後、吉良の家督を上野介様に返還させられる予定であるとのこと。嘗てと違い、今ではすっかり当家贔屓になっておりますからな。あの御仁は」

「ははは、それはよう御座います」


 義安の安全を確認した元康はひとまず安心すると、現在松平家を取り巻く環境を頭の中で整理し始めた。


 織田家との国境線は不気味なほどに静寂を保っている。

 恐らく、信長が美濃攻略に集中しているのが原因だろう。

 先日、国主・斉藤義龍が死去した美濃国内は非常に混乱していると聞く。

 後を継いだ斉藤龍興が未だ若年であり、家中を掌握しきれていない為らしい。

 信長は松平党ががっちりと守っている三河よりも、其方に手を出した方が楽だと判断したのかもしれなかった。


 とにかく、これは又と無い好機である。

 信長の目がこちらを向く前に、さっさと吉良家の叛乱を片づけてしまうに限る。

 幸い、既に松平党の招集は済んでいる。あと数日もしないうちに出陣できるだろう。

 何処から攻めればよいか。


 戦争の天才ともいうべき元康の頭脳が回転を始め、彼はうんうんと唸りだした。


 親永は黙ってそれを見つめる。娘婿の実力をその目で見ようとしているのだろう。

 彼の眼は見定めるような光を放って元康の方を向いている。


 やがて元康が唸るのを止め、側に控えている近習に家臣たちを集めるように指示を出す。

 出陣先が決定したらしかった。


「どうやら、何か思いついたようですな。聞かせて頂けますか?」


 親永が聞いた。


「織田家の目がこちらを向く前に、挙母の中条氏を撃滅します。かの地は織田領に近い。上総ノ介の手が及ぶ前に我が方で切り取らねば、後々に禍根を残しましょう」


 さらに、中条氏の治める挙母城は、岡崎から見て北に位置する。

 先に此方を叩いておかなければ、南に位置する桜井・吉良領を安心して攻撃できない、という理由もあったりする。


「だが、桜井・吉良に対する抑えは如何いたしますかな?桜井はともかく、吉良家の方は中々に厄介ですぞ」

「富永伴五郎ですか。分っております」


 吉良家家老・富永忠元は智勇に優れた将として名の知れた人物であった。

 合戦になった際には、必ず最前線に出て吉良軍の采配を取るだろう。

 傲慢とは言え、当主・義昭も無能と言う訳ではない。少なくとも、富永忠元に全軍の指揮を任せるだけの器量はあると思われる。


「吉良義昭だけならば楽なのですが……」

「何とか調略できぬものですかな?」

「無理でしょうな。荒川殿も申しておられましたが、かの家は代々に渡って吉良家に忠誠を尽くしてきた家。いまさら寝返るとも思えませぬ」


 古代貴族・伴氏の末裔と伝わる富永氏は、代々吉良家の前線拠点・室城を預かる譜代の重臣だ。

 幾ら無謀な挙兵と言えども、裏切るとは到底思えなかった。


「嘗て我が家は、かの家に窮地を救われたことがあると聞きます。何とかしたいとは思っておりますが……」


 今から二十年以上前の話。

 桜井松平家によって岡崎城が乗っ取られ、逃亡を余儀なくされた元康の父・広忠を救ったのが、富永忠元の父・忠安だったのである。

 彼は行き場を無くした広忠を自らの居城に迎え入れ、桜井の軍勢と戦ってくれたという。


「諦めるしかありますまい。婿殿、時にはあきらめも肝心ですぞ」

「……仕方ありませんな」


 親永の一押しによって、元康は忠元と戦うことを決める。

 当家にとっては恩人ともいうべき人の息子だが、敵になる以上容赦はしない。

 松平党の力を存分に見せてくれる。


「例え富永が相手だとしても、松平党は遅れをとりませぬ。幸い、東条の城の東には深溝松平家の深溝城があります。彼らに命じて、吉良家を監視させましょう」

「桜井はどういたす?」

「奴らの本拠・桜井城の正面には安翔城があります。彼らの戦力ではあそこを突破できますまい」

「見事ですな。流石は雪斎殿の教えを受けられた方だ」

「拙者など、まだまだですよ」


 元康は謙遜するが、親永はどんどんと持ち上げる。

 自慢の娘を三河の田舎者の嫁に出せ、と言う命令を受けた時は血の気が引き、切腹も考えたほどであったが、この人物の器を見てみると義元の判断は間違っていなかったと確信できる。


 まったく、岳父としても鼻が高い。


 今でも今川譜代の臣の中には、元康のことを悪しざまに言う家臣たちもいるが、彼らは嫉妬しているだけだ。

 元康の今川への貢献は本物である。無駄な嫉妬は家中の不和を招きかねない。


(今度見つけたら、ガツンと言ってやらねばならぬな)


 親永は照れている元康を見ながら、心の中でそう決めた。






「岳父殿。大殿への報告、お任せしてもよろしいですか?」

「うむ。任せなされ」


 翌日。

 駿府に帰るために岡崎を後にする親永に義元への報告を任せると、自らは家臣一同を集めて昨日親永にしたのと同じ作戦を説明する。

 一部では謀反人である桜井を先に潰すべきではという意見が出るも、織田に挙母を盗られては岡崎が危機に晒される、と元康は却下した。


 信長は情報を重視する男だ。

 何時三河の内乱に気づき、手を出してくるか分ったものではない。

 幸いと言うべきか、他家の介入を嫌った義昭が中条や桜井にも織田方への要請を禁止しているらしく、これらの家が独断で織田と結んだ形跡はほぼゼロであった。


 織田家の影が見えない今のうちに挙母城を落としてしまうに限る。

 桜井はいつでも潰せる。

 先に岡崎の安全を確保しなければ、安心して眠れない。

 家臣にそう力説する。


「分り申した。ですが、吉良に対する抑えはもう少し必要かと。深溝城だけでは抑えきれますまい」

「おう」


 酒井忠次の意見に対して、元康は短く返した。

 抑えに適任な将を選び出しているのだろう。


 その後の熟考と相談の結果、酒井忠尚・本多広孝を深溝城の援護に回し、さらに鵜殿家にも援軍を要請するということで決着がついた。

 彼らが吉良・桜井を抑えている間に、本隊は高速で挙母城を落とす、という作戦である。


「いざ、出陣だ」

『おーっ』


 岡崎城の大手門から、松平党の兵士たちがぞろぞろと出ていく。

 彼らがあげる鬨の声が、新しい年を迎えたばかりの三河の空に響く。


 永禄四(一五六一)年。


 この年を境に、三河の国そして今川家は新たなる歴史への道を進み始めたのである。











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