次郎法師さん
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遠江 井伊谷。
遠江井伊氏の本貫の地であり、同時に遠江と三河の国境に位置する交通の要衝でもある。
この地を治める井伊氏は、藤原北家の末裔とも、継体天皇の末裔とも言われる家系で、五百年以上の長きに渡って支配を続け、南北朝の動乱や斯波家対今川家の遠江攻防戦にも深く関わっている。
そんな井伊氏の歴史を聞きながら、のんびりとこの地の中枢であるという井伊谷城へ向かう。
直盛殿にいつでも来てくれと誘われていたが、結局彼の存命中に訪れることは出来なかった。申し訳なく思えてくる。
今、俺たちに同行して井伊谷について熱く語っているのは、直盛殿の与力だったという近藤平右衛門康用殿だ。
彼は桶狭間の戦いで直盛殿に従軍。彼の遺命を帯びて、井伊谷に落ち延びてきたという。
「信濃守様は、次郎法師様の行く末を最後まで心配されておりました。ですが、これでもう安泰ですな。この康用、思い残すところは何もございません」
「早まられるなよ、平右衛門殿。信濃守殿がそなたに託したのは次郎法師殿の事だけではあるまい」
なにやら物騒な台詞を言っている康用殿を、父上が咎めている。直盛殿の後を追って殉死しかねないと思ったのだろう。
この時代、恩義のある主君の死の後を追って自害するのは、決して珍しい事ではない。
「ううっ、それにしても寒い」
「早く屋内へ入りたいですな」
既に霜月(十一月)を迎え、つい一か月ほど前まで紅く染まっていた山々はすでに越冬モードに入ったようで、こうして移動している間にも突風に飛ばされた枯葉がひらひらと舞い降りてくる。
そして、非常に寒い。
防寒しているとはいえ、北風が肌を刺す度に、痛みのような寒さが全身を覆う。
その度にガタガタぶるぶると体が震え、余りの寒さに情けない声をあげてしまう。
手は悴み、手綱を握っているのも辛い位だ。
だが、他の面々も似たような感じである。
護衛役としてくっついてきた政信は、余りの寒さに耐えかねて馬上で丸くなっているし、父上と康用殿も同じように馬の上で震えている。
落馬しなきゃよいが。
「おお、ようやく到着ですな」
暫く移動して正面に見えてきたのは中規模程度の山城、井伊氏五百年の本城・井伊谷城。
井伊谷川と神宮寺川二つの川の合流地点の北に建てられた山城で、平安時代中期の築城とされる非常に歴史の古い城である。
南北朝時代においては当時の当主・井伊道政が後醍醐天皇の皇子・宗良親王を保護して北朝と戦い、また同皇子の御所としての役割も果たしたという。
夕暮れは湊もそことしらすげの
入海かけてかすむ松原
はるばると朝みつしおの湊船
こぎ出るかたは猶かすみつつ
宗良親王のこんな和歌が残されているぐらいだ。
彼にとっては非常に居心地の良い場所だったのだろう。
この城の後方に三岳城という難攻不落の要害が存在する辺り、ここは城と言うよりは館と言った方が良いのかもしれない。
康用殿に先導されて城門をくぐり、山道と同じような登場道を昇って行く。
「山っぽい何か」である上ノ郷とは違い、この城は正真正銘の山城だ。その分傾斜もきつい。
そう簡単にばてはしないが、寒気で体力を奪われている分、なかなかハードな運動だったりする。
「若殿、なかなか辛い運動ですな」
そういう政信は全く辛そうではない。やはり、基礎体力が違うのだろう。
少し羨ましい。
「……そういう小太夫は全然辛そうじゃないね」
「ははは、普段から鍛えておりますからな。武辺者としてこのくらいでへばっては名折れです」
そんな会話を交わしながら、えっちらおっちらと山道を昇りようやく郭と思わしき広場に辿りついた。
「ここは御所丸と申しまして、南北朝の動乱期において宗良親王がお使いになったと伝わる郭です。しばしの間、ここでお待ちくだされ」
俺たちが通されたのは、皇子の御所だったと言われても何ら不思議はないほどの立派な館であった。その御所の一室を占領しつつ、次郎法師殿とその曽祖父であるという井伊直平殿が現れるのを待つ。
現当主である肥後守直親殿が挨拶に来ないのは、駿府に出張しているためだと思われる。先日の大評定で奉行職に任じられた彼は、当分井伊谷に戻っては来られないだろう。
「緊張するか、三郎?」
「はい」
そういって声をかけてきた父上は、なんだかせわしない様に見えた。
思いがけず、若くして舅になるのだから俺と同じように緊張しているのだろう。
次郎法師・井伊直虎。
歴史に名を遺す女傑だけに、どんな女性なのか楽しみである。
~鵜殿さんちの氏長君・目指せ譜代大名~
「わたしのことはお姉ちゃんって呼びなさい!」
出会って早々、どかーん!と言う擬音が聞こえそうな勢いでとんでもない一言を言い放ったこの人こそ、井伊直盛殿の娘・次郎法師さんらしい。
目鼻立ちの整った、確実に美人と言える顔立ちに、透き通るような白い肌。
肩の部分まで届く長い黒髪を、頭の後ろで縛ったポニーテール。
碧い瞳に浮かぶニコニコとした笑顔が眩しい。
「こ、これっ。申し訳ありません、三郎殿。縁談が決まってからと言うもの、ずっとこの調子で……」
これは直平殿である。
次郎法師さんの奇天烈すぎる物言いに困惑している模様。
「じーっ」
「な、なんでしょうか……」
次郎法師さんに顔を近づけられたうえ、じろじろと眺められて気恥ずかしい気持ちだ。
余りの恥ずかしさに、顔に血が上り火照って行くのがわかる。
助けを求めて父上や直平殿に目配せするが、何故か皆席を立とうとしている。
「どうやら、二人きりにした方が良さそうですな」
「我々は空気を読んで、退散することにいたしましょうか」
「そうじゃな」
こんなのあんまりだよ!
いくら年上のお姉ちゃんとはいえ、まだ出会って間もない女の人と二人きりにされるのはご勘弁願いたい。
気恥ずかしさで倒れてしまいそうだ。
お願いだから、出ていかないでくれええええええ!
そんな心の叫びとは裏腹に、父上たち大人組はあっという間に部屋の外へ出て行ってしまった。
ただっぴろい部屋の中に残されたのは、俺と次郎法師さんだけ。
「だけど驚いたな。噂には聞いていたけど、本当にまだ子供だったなんて。お姉ちゃんびっくりだよ」
俺がどうやってこの人と話を繋いでいこうかと悩んでいると、あちらから声をかけてきてくれた。
子供扱いされるのは気に入らないが仕方がない。次郎法師さんから、見れば俺はようやく自らの年齢の半分に達したばかりだ。
「一応、元服は済ませています。ですから、子供ではないです。ハイ」
「わたしから見れば、まだまだ子供だよ?」
ですよねー……。
がくり、と項垂れてしまう。
それだけ年齢の差が大きいのだ。
というか、この人もよく俺みたいな子供相手の縁談を了解したな。恥ずかしくは無かったのだろうか。
「失礼ですが、次郎法師殿「お姉ちゃん!あと敬語禁止!」……お姉ちゃんは恥ずかしくないの?俺みたいな子供を旦那にするなんて」
疑問を率直にぶつけてみた。デリカシーが無いかもしれないが、遅くとも来年には夫婦になるというのに下手な疑問を作ったままなのは不味い。
次郎法師さん――いや、お姉ちゃんは少し考え込んだが、全く嫌な顔を見せずに答えてくれた。
「恥かしくないって言ったら嘘になるかな。やっぱり年齢の近い人と結婚したかったし」
そういう彼女の表情には、少し寂しさ見える。
やはり、最初の婚約者に婚約を事実上破棄され、その後も持ち込まれた縁談が次々と破談になって行ったことを気にしない訳がない。
見た目こそ明るく振る舞っているものの、その内心に刻まれた傷は、俺ではわかりそうにもない。
「でも、嫌ではないかな。これで尼にならなくても済みそうだし」
「出家嫌なんだね」
「当然よ。せっかく世の中には面白い事が溢れてるのに、寺に押し込められて堪るものですか」
最初の発言もそうだが、なんというかとんでもなくアグレッシブな女の人だ。まさに女傑。
史実でも跡継ぎがいなくなったから、と言う理由で元服して井伊家の家督を継いでしまう人だ。
井伊直政が大活躍したのも、この人が色々と叩き込んだからかもしれないな。
俺が上ノ郷にこの人を連れて行ってしまう以上、彼女が直政の養母になることはもうないのだろう。
井伊家の将来が不安になってしまうが、直盛殿の忠義によって、この家は今川家から絶大な信頼を得ている。
史実のように、直親殿が粛清されるということはまず起らない。大丈夫だ。
そういえば、直盛殿が亡くなられたのにお姉ちゃんは全く動じていない感じがする。
達観しているのか、それとも……。
「お姉ちゃん、信濃守殿のことは……」
「大丈夫、心配しないで。武士として立派な最期を遂げたわけだし、わたしが悲しんでも父上は喜ばないと思うから」
そういって、彼女はピンと立たせた人差し指を俺の口元に当てて発言を制した。
その碧の瞳には涙が潤んでいるようにも見えるが、あえて黙っておくことにする。
「それにしても、三郎君は歳に見合わず大人びているよねぇ。旦那様と言うよりは弟って感じがしてたんだけど、認識を改めなきゃいけないかな」
「三郎君って……」
「およ、呼び方がご不満かい?『さぶちゃん』とか『弟君』の方が良かったかな?」
「その呼び名でいいです……」
なでなで。なでなで。
頭を優しく撫でられながら、そんな他愛無い話を続ける。
余りにも気持ちよすぎて、瞼がとろりとろりと軽い下降運動を繰り返している。
眠くなってきてしまった。
「そういえば、お姉ちゃんに趣味とかある?」
「うーん。趣味と言えるほどの事でもないけど、アレかな?」
彼女が指差したのは、部屋の隅に置かれた四角い木箱のようなもの。
大きめの木箱に、マス目の書かれた遊技台。
「……将棋?」
「うん。三郎君はやれる?」
「まあ、一応は」
「そっか。それじゃあ一局指しましょう」
お姉ちゃんは俺の頭から手を離すと、がさごそと将棋台の横に置いてあった箱から駒を取り出し、馴れた手つきで並べ始めた。
手伝おうと思ったのも束の間のこと、あっという間に準備は整ってしまう。
「趣味と言うほどではない」と言っていたが、絶対に強い。勝てる気がしなくなってきた。
「さあ、どうぞ」
「あ、ありがとう」
日本における将棋の歴史は古い。
六世紀ごろ、中国を経由してインド辺りから伝わったとされ、少なくとも平安時代には、一般的な盤上遊戯として普及していたらしい。
二十一世紀の日本人が知る本将棋は、この時代に生み出された「平安大将棋」と呼ばれる非常に複雑な形態を簡略化したものである。
この形になった時期には諸説あるが、戦国時代中期ごろには完成していたらしい。
事実、今俺が指しているものは現在の本将棋と全く同じものである。
閑話休題。
ぱちり。ぱちり。
駒が盤上におかれる音が部屋の中に響く。
気が付いたら追い詰められていた。お姉ちゃん、滅茶苦茶強い。
此方の攻撃は見事に避けられ、駒同士の連携が途絶えたところを的確に攻めてくる。
あっという間に歩兵の壁を突き抜けられ、あとは蹂躙されるだけである。
陣形崩壊。
「はい、詰み」
「参りました……」
ちなみにこれで六回目だったりする。
結果?当然俺の全敗ですが何か?
「お姉ちゃん、強すぎ。手加減してよ……」
「あはは、ごめんごめん。久しぶりの対戦だから、少し熱くなっちゃった」
「ふわーぁ」
余りにも集中し過ぎて、眠気を忘れていた。
どっと疲れが押し寄せてきた。思わずあくびをしてしまう。
「流石に疲れたよね。はい、ここ」
「……」
とんとんと自分の膝を叩くお姉ちゃん。
あれか、膝枕で寝ろってことですか?
「恥かしい……。遠慮しておきます」
「駄目。年上のいう事は素直に聞く!」
「ぺぎゃ」
首筋をむんず、と掴まれ、そのまま膝の上へ。
柔らかい感触が顔の横を覆う。どうやら横向き、耳を上にした状態で寝かせられたようだ。
……ああ、極楽。
顔は真っ赤だろうが。
「耳垢がすごいね」
「……」
何やら竹の匙のようなものを取り出したかと思うと、そのまま耳の中に突っ込んできた。
「動かないでね。怪我すると危ないから」
「……」
がさがさ。がさがさ。
耳穴の中を堀り起こす音。
竹匙が耳壁にこびり付いた垢を剥がしていく。
その度に、ちくりと言う感触が耳の中を覆う。
気持ちいい。
「大きいの発見」
「……」
ああ、ヤバい。瞼重くなってきた。
耳の中を穿り返される音を聞きながら、その日はお姉ちゃんの膝の上で眠りについてしまったのでありました。
翌年一月。
今川義元様の仲人によって、俺と次郎法師殿の婚姻が成立。
駿府・今川館にて盛大に婚礼の儀が執り行われた。
桶狭間で大敗した今川家にとっては久々に明るい出来事であるだけに、一門・重臣の殆どが参列。
姿を見せなかったのは、三河で激務に追われている兄貴と小原鎮実殿、そして長期間の謹慎を言い渡されている孕石主水だけであった。
孕石はどうでもよいが、兄貴が参列できなかったのは悲しい。
かわりに代理人として石川数正殿を送ってきてくれたが、是非本人に来て頂きたかっただけに非常に残念だ。
「本当にありがとね。嫁ぎ遅れたわたしを貰ってくれて」
「此方こそ、光栄です。貴女みたいな人にお嫁に来てもらえるなんて、考えられなかったですから」
となりで真赤になっているお姉ちゃんとそんな話を交えつつ、お互いに甘酒を酌み交わす。
これも婚礼の儀の一端である。
「三郎、今後とも当家に尽くしてくれることを期待しておるぞよ」
「お任せください」
義元様のスパルタ教育によってげっそりと痩せ細った若様に返事を返しつつ、新婚生活のことを考えて、にやけるのであった。
※※※※※※※※※※※※
氏長君が駿府で婚姻を祝われている頃、彼の故郷・三河ではとんでもない事件が起ころうとしていた。
――吉良家に謀反の動き。挙母(豊田)城の中条氏、及び桜井松平家にも同調の気配あり。
そして、これに対応すべく松平元康は三河衆(松平党)を岡崎城に集結させる。
桶狭間に伴う混乱は終わりを告げて、新たな歴史を紡ぐべく、時代の歯車は動き始めた。
これを鎮めるのは西三河で指揮をとる元康か、それとも……。
主人公よりも強いヒロイン。




