血塗れた晩餐
この回には残酷な描写が含まれています。
──────母は魔女だった。
暗黒教と呼ばれる魔導神の巫女で、父は九人の司祭だった。
あまりに残酷で惨たらしい宗教だったが母は隠れて他人の傷を癒す慈愛の持ち主だった。
しかし、巫女である母の役目は神を産む事…
淫らで残忍な宴の中で私は産声をあげた。
名は『ガドリール・リュイーヌ・デュー・オグレス』破滅神という意味だ。
生まれてすぐに言葉を解し、人知を超えた力を宿していたと聞く。
生暖かい血肉を好み、人の悲鳴を喜んだという…
そして、この世に生を受けた瞬間に暗黒教は滅びた。
生まれたばかりの赤ん坊である私が滅ぼしたのだ。
母は歎き、父たちは信仰していた神に裏切られたと絶望した。
百万の信者が犠牲となり、その生き血で作られた池に沈められ、彼らの浮かばれぬ怨念でもう一人の私は眠らされた。
膨大な力を持つ私が眠り、人である私だけが残った。
眠ると破滅をもたらす『私』が語りかけてくる。
物心ついた時にはもう一人の自分を恐れ、眠るのを頑なに拒んだのを覚えている。
五歳の誕生日…私はとうとう耐えられなくなり、人であるうちに恐慌に及んだ。
司祭長の父と母の魂を餌に、その者を…もう一人の私『リュイーヌ・デュー』を他八名の司祭の皮を束ねて作った魔導書に封印したのだ。
しかし私の成長と共にリュイーヌ・デューも成長し、魔導書の封印を日に日に強化するという形でしか、その力を抑える方法はなかった。
いつかは魔導書が絶えられなくなり『アレ』は解放されるだろう…
私は考えを一変させ、 封じる方法ではなく、制圧、抑制する力を求めるようになった。
だが、とうとうその力は得られなかった。
いや、得る前に得らねばならぬ状態に陥ったのだ…
人として生きてきた三十数年の肉体と理性が崩壊し、どんな姿になろうとも………──────
深夜、エテルニテの国では混乱が巻き起こっていた。
眠りを引き裂くように起こった巨大な地震…
地震が全く無いわけではないが、耐震性を兼ねている頑丈な民家でも三割以上が倒壊した。
だが普通の震災ではない…巨大な揺れは一分にも満たずに治まると、後は何も無い。
あるのは闇の静寂だけであった。
「気味悪ぃな…」
ふと街人の一人がそう呟いた。
エテルニテの混乱とは裏腹に、今では空も大地も静寂を保っている。
森の方では鳥がざわめいているがそれでもこの沈黙は不気味だった。
「見ろよ。あの城…びくともしねぇ…」
断崖に聳える古城のシルエット、あれ程巨大で足場の悪い場所に建築してあるのに、まるで動じていない。
「主の魔法がかけてあるって噂も嘘じゃなかったらしいな」
被災した住人を助け出しながら警団の男たちが体を震わせる。
冷たい夜風に打たれての寒気ではない…まるで氷の世界に閉じ込められたかのような冷気が街中に充満している。
「オイ、何か妙に寒くないか?」
厚い皮製のコートを着こんではいるが、それでも冷気は身体の芯に染みわたる。
「それより働け! 人命救助を最優先に考えろ!」
倒壊した家屋の瓦礫を大人数で退かしながら救助に当たる仲間に叱咤され、男は急いで仕事に取り掛かった。
だがやはり何かがおかしい…この漆黒の寒空の中、汗を流しながら作業に当たっていても妙な感覚がひしひしと伝わってくる。
何かの視線を感じるのだ。
うまく言い表せないが、騒然とする周囲の人間の視線ではない。
男は溜まらなくなってふと夜空を見上げた。
「!!」
建物の上に巨大な何かが居た。
夕暮れまで雷雨をもたらしていた雨雲がすっかり消え去り、輝く月を背後に背負ったシルエットが屋根の上に居る。
男が気付くと同時に他の住人も気付いたようで次々と悲鳴が上がる。
長いマントのような衣服が風になびき、不気味に蠢いている。
「何だ…あいつは…」
不意にシルエットの顔の位置に無数の光が灯る。
赤い光が無数に瞬き、それが顔中に埋まる瞳だと知るのに時間は掛からなかった。
「ば…化け物だぁ!!」
誰かが叫んだ声と同時に屋根の上のシルエットは一瞬にして姿を消した。
「何処に行った?」
男が思った時、すぐ後方で女の悲鳴が甲高く響いた。
反射的に振り向く…
体が硬直した。
女の夫と思われる男の姿が血に塗れていた。
身の丈3メートル? いや、4メートル近い化け物がビクビクと痙攣を起こす男の頭を貪っていた。
漆黒の長いビロードのベールを被った死神は首にある巨大な口でバリバリと音を立てて頭蓋骨もろとも噛み砕いている。
気付いた時、男は狂ったように叫び歎く女の手を引き、逃げていた。
何度も転ぶ女を手を引き、何度も立ち上がらせ、心臓が破裂するほど走った。
だが、急に女を引いていた手が軽くなり、男は後ろを振り返った。
途端に口から悲鳴を発していた。
引いていた手の先に女の姿はなかった。
食いちぎられた腕を投げ捨て尻餅をついたまま後退る。
民家の隙間に身を隠し、声が漏れないように必死で口を押さえ、遠くの悲鳴を聞きながらあの化け物が通り過ぎるのを必死で願っていた。
たった数分の時間が永遠のように感じられる。
しばらくして低い息づかいとおぞましい呻きが聞こえてきた。
足音は聞こえない、だがその息づかいはとても近くに感じられる。
(何処だ…何処に居る…)
不意にその息が自分の後方から注がれている事に気付き男は震えながらゆっくりゆっくりと後ろを振り向いた。
男が身を潜める狭い袋小路…その奥にどす黒く大きな水溜りがあった。全てを飲み込むような漆黒の汚水、その中から聞こえる。
水溜りの中心が盛り上がった。
(逃げなければ…逃げなければ)
脳が凄まじい警告を促すが、体は恐怖で硬直し、全く動かない。
そうこうしている内にズズズズズズ…と水面は高く高く盛り上がっていき、あの化け物が姿を現した。
ギョロギョロと忙しく動く無数の瞳…死人のような肌…血に塗れ、パックリと割れた喉からはナイフのような牙が覗き、その隙間から紫の舌が蠢いているのが分かる。
骨が浮き出た体には見た事の無いような文字が刺青のように浮き出ている。
そしてその中で最も異様なものが、その化け物とは不釣合いな左手薬指に輝く金の指輪だった。
「うわ…………」
悲鳴が上がる前に男の首は食いちぎられていた。
生暖かい血肉を啜るガドリールの前にその惨劇を眺める子供が居た。
子供はキョトンとしながらじっと見つめている。
新たな柔らかい肉…
ガドリールはその子供に手を伸ばした。
…が、その手は子供に届く前に止まる。
無数の瞳で空を見上げ、気付いた
…分かる。
…飢えた血肉への欲望もかき消す癒しの女がそろそろ目を覚ます…
化け物は飢えを忘れ、風のように姿を消した。
三匹の人間を喰い尽し、永遠を誓った最愛の妻のもとへ帰るために。