血と血のせめぎ合い
「ガドリール………」
〈ベアトリーチェ!!!!〉
怒号振り撒きながら魔道神は彼女を振り払うようにして勢いよく身体を起こした。
「きゃぁっ!!」
その反動でベッドから弾かれ彼女の体は見えない力で壁に叩きつけられる。
その衝撃で残りの首枷がベッドの下に転がり込んでしまった。
「いけない。まだ一つの枷が残ってるのに」
両手首に嵌められた強力な手枷。この姿になってから始めて感じた凄まじい力の攻防にガドリールは混乱していた。
その首元に開いた大きな口から悲鳴とも雄叫びとも言えない支離滅裂な言語が飛び出す。
ベアトリーチェでも理解出来ない言葉を振り撒きながらその手首の物を激しく暖炉に打ちつけ、何とか両手首同士を繋ぐ枷と鎖を断ち切ろうとしているらしいのだが、枷はビクともせずにただ、重厚なレンガ造りの暖炉が土くれのように崩壊するだけだった。
〈ガゴゴゴグガグゴゴゴゴゴゴゴ……………………〉
再び耳を覆いたくなるような言語が紡がれる。
こちらは悲鳴や雄叫びと言うより呪文に近い響きだ。
彼が呪文を唱え始めた瞬間その枷から魔道神の腕に向かって強大な力が送り込まれるのがベアトリーチェの目からも分かる。
手首から異様に浮き上がった血管に崩れ落ちる夫の姿。
身体の中では己の力と力の戦いが凄まじく繰り広げられているに違いない。
〈べべべべべべべべ……ベア…べあぁぁぁぁぁ……ベアトリーチェェェェェェェ!!!!!〉
鬼気迫るような激しい言葉で追い立ててくるガドリールの姿に彼女はガタガタと体を震わせていた。
両腕を床に付き自身の力の攻防に耐えながら、こちらを刺すように見つめてくる無数の目。
あんなに攻撃的な視線を向ける彼の姿は今まで見たことも無い。
「ご免なさい……でも、貴方を繋ぎとめておくためには仕方がないのよ」
漆黒の長い髪を振り乱しながらガドリールは己の力に必死で抗っていた。
だが、しばらくの混乱状態が続いた彼の姿がふとピタリと止まる。
嵐が去った後の静けさの中、両手首の枷の起動音だけとベアトリーチェの啜り泣きだけが静かに響いていた。
力を使わなければ強力な抑制力は働かない。
そう悟ったのか、冷静さを取り戻したかのようにガドリールは部屋の中をひたすらに眺めていた。
部屋の中に微かに残る別の匂い
…ベアトリーチェが発する癒しの匂いでは無い別の物…
この匂いは人間の男の匂いだ。
不意にガドリールは壁際に座り込むベアトリーチェを見つめた。
彼女と二人だけのこの空間に別の生き物が居た…しかもそれは男だ。
〈ぐ…ぐぐぐ…ぐおぉぉ………お・お・お・お・お・おおおおおおおおお……………〉
首の口から不気味な呻きが地を這うように聞こえてくる。
〈お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛ !!!!!〉
「ガドリール?!!」
鼓膜を貫くような轟音の叫びを上げながら魔道神は立ち上がった。
押し潰されそうな程の力の増幅がベアトリーチェの全身にピリピリと走る。
手枷がさらに大きな唸りを上げ、彼の全身に蜘蛛の糸のような血管が浮き出る。
地震のようにガタガタと揺らぐ城、彼は血が滴るほどに拳を堅く握り締めるとその両手を高く掲げた。
震える手で鎖をピンと張り、その手首から溢れた赤紫の血液が石畳の床に滴り落ち、床が白く腐食する。
「ガドリール!! やめて!! 何をする気!!!」
異常な状態に思わず駆け寄った彼女の体が再び見えない壁に弾かれた。
しかも、その力は先ほどの比ではない。
細い身体が壁に叩きつけられた瞬間に壁に大きな亀裂が走るほどの力だ。
人間であったのならば即死は免れぬであろうその衝撃に彼女は気を失ってしまった。
強力な力のせめぎ合いを続ける事数分、パンッ!! という音と共に左右の手枷を繋いでいた鎖が激しく爆ぜた。
床に落ちる鎖の残骸………
〈フウウウウゥゥゥゥゥ…………〉
ガドリールは低く息を吐くと両手首を見つめた。
まだ枷は付いているが二つを繋ぐ鎖が断ち切られた為にその効果は著しく低下している。
ブレスレットのように断ち切られた鎖をぶら下げながら彼は瞳を閉じた。
この城の中に侵入者が居る。しかも無数に……
〈ベアトリーチェェェェェェ………〉
床に倒れる彼女の体を抱え上げるとガドリールはその頬を鋭い爪で優しく撫でた。
「う………うぅ…」
ベッドに横たえられ、目を覚ました彼女の前に彼の姿があった。
「ガドリール………本当よ。貴方を繋ぎとめて置くためにやったのよ……」
〈……………………〉
未だに意識が朦朧とする彼女の顔を両手で抱え込み、ガドリールはその巨大な口から覗く舌をその頬に滑らせた。
「ガドリール? ………!!………」
両手を繋いでいた鎖が断ち切られていた。
「ガドリール!!!」
無数の瞳が笑っている。
ベアトリーチェは青ざめたままベッドから抜け出し部屋の扉を開き、廊下に飛び出た。
そして階段の下に向かって喉が張り裂けんばかりに叫んでいた。
「逃げて!!! 逃げてえぇ!!!!」
部屋の中から彼の呪文が聞こえた。
外から燦燦と降り注ぐ朝日。
だが、次の瞬間それは消え失せ、城の中を漆黒の闇が襲う。
「ガドリール!! やめて!!!」
部屋の中に駆け込んだ彼女の目の前に信じられない光景が写っていた。
部屋の中心に立つガドリールの向こうのテラスから覗く外の景色が墨を流したような闇に覆われている。
「ガドリール…何をしたの…ガド…………」
テラスに出た瞬間言葉を失った。
城全体が黒い壁で覆われていたのだ。
彼の呪文はしっかりと理解できた。
彼がわざと私に分かるような呪文を使ったのだろう……唱えた呪文の内容は……
『我命ずる。我が城を穢さんとする侵略者を捕らえよ。何人たりとも逃がす事あたわず』
彼女の後ろから、これからの血の惨劇の訪れに不気味な笑いが響いていた。