歌唱術
「うわぁ! 見てよヴェント!!」
細い道を歩みながらオランジュが遠くの空を指差した。
「おおっスゲェ!!」
東の空から眩いばかりの太陽が地平線の彼方から顔を覗かせ始めている。
四方を山に囲まれているエテルニテではまず見ることの出来ない光景だ。
「東の壁面を歩いているのならばやっと七割を超えたという所だな。このまま回り込んだなら城の側面が姿を現す」
「いよいよか…俺達は背面の城しか見たことねぇからな」
「ちょっと待った!」
不意にコンデュイールが声を潜め、人差し指を口元に当てた。
「何だよ」
「何か聞こえないかい?ヴェント」
しばらくの間を置いてアカトリエルが頷いた。
「聞こえるな…女の歌声だ」
皆が歩みを止め、耳を澄ませる。
確かに微かな女の歌声が風に乗って小さく響いている。
言語はヴェントたちには理解できないが、どうやらウェルギリウスが指示していたこの山の裏側から漂ってきているようだ。
しばらく聴いたクラージュがウェルギリウスを見上げる。
「これです。僕が聞いたのは…何て言ってるんですか?」
歌に続いて後を追うように口ずさみながらウェルギリウスはしばらく瞳を閉じ、その歌に聞き入っていた。
「ウェルギリウス殿?」
「いや、すまぬ……あの歌を聴くのは四十年ぶりだ……あれは子守唄だ……」
「子守唄……」
「デザスポワールの巫女の癒しの歌だ…我々司祭も幾度と無くあの歌に安らぎを与えられた」
遥か昔の懐かしさに身を窶し、老人は微かに笑った。
ヴォワザンが竪琴を奏でながらよく謳っていたのを思い出す。
「あれを謳っているのは…クラージュよ…分かるな。恐らくお前の言っていたベアトリーチェだろう。まさかこの国の娘が我が国の言葉をあそこまで使いこなせるとはな………」
「ベアトリーチェ!!」
駆け出そうとしたクラージュの腕をウェルギリウスは掴み制止した。
「何ですか!!」
「我が国の歌を使いこなすという意味がお前には分かっていないようだから言っておく。あれは歌唱術という魔法の一種だ。長き呪文と音階が混同して初めて使える上級魔法よ。もともとデザスポワールの補助師と呼ばれる特殊な歌姫が戦の時に味方の戦力を増幅させるために使ったものだが………」
「?」
「あのベアトリーチェはもうお前の知るベアトリーチェでは無いかもしれん……」
「何を…………」
「歌唱術で魔神にまで癒しを与えられるのならば…それは人ではない。…覚悟はしておけ」
生まれたばかりの我が子を眠らせた黒き聖母の子守唄。
しかし、すでに完全なる成長を遂げてしまった魔道神ではヴォワザンの謳でさえ癒す事は不可能だろう。
しかし、アカトリエルやクラージュ、ヴェントの話を聞くと元領主ドミネイトの一人娘ベアトリーチェはその歌唱術で魔道神に癒しを与えるようだ。
それは即ち彼女の力がヴォワザンのはるか上をいっていると言う事……。
黒き聖母は一万年の歳月を経て始めて生まれた最強の魔女だ。普通の人間がそれ以上の力を得るのは無理だろう。
しかもデザスポワールの血を全く引かない娘ならばなおさらの事……
「人ではないって……」
ウェルギリウスは前方のオランジュを一度見やった。
「あの娘が言っていたが、本来の我々の神ならば生けとし生ける者が全て滅ぶまで殺戮を止めないだろう。だがベアトリーチェは魔道神と共に在るのに生きているのだ。魔道神にとってベアトリーチェが特別な存在に成り得ているのならば…人のままでは置いてはおくまい」
「何を言っているんですか? 私には分かりません」
「魔道神には限りが無いが、人の命には限りがある。お前も愛する者を先に失いたくないだろう? 癒しの華を常に側に置いておくために、永久の命を与えられる力を魔道神は持っている」
「!! …………」
「それが最も辻褄が合う筋書きなのだ」
愕然とするクラージュの肩を軽く叩くとウェルギリウスは先を行く双剣徒の集団に次いで残りの道を歩んだ。




