不気味な微笑
暗闇を切り裂いた白い閃光と地響いた轟音にベアトリーチェは唄を止めた。
膝の上で眠りに付こうとしていた夫の目が細く開く。
「何? 何なの?」
《……………………》
ただ事ではない。だが、彼はここに居る。
しかし、魔女の身となった体には強大な魔力の波動が津波のように押し寄せたのが分かる。
ここまで強力な力は今の自分でも発揮できない程の物だ。
「ガドリール…何かしたの?」
数個の瞳を細く開いたままガドリールはゆっくりとその巨躯を起こし、不気味な笑みを浮かべている。
しばらくすると窓の外から黒い霧が大量に流れ込んできた。霧は部屋の中を一度旋回すると夫のの体の中に吸い込まれていく。
彼女にはそれが先ほど彼が召喚した無数の影の異形たちだという事に確信を抱いていた。
《く……くっくっくっくっ……………》
「何? やめてよガドリール!!! 何が起こっているの?!」
低く気味の悪い含み笑い、彼女はその声に尋常ではない状況を悟ると、ベッドから飛び降り窓の外に目を移した。
先ほどの爆音と閃光が嘘のように漆黒の眼下には静寂が蔓延している。それがさらに彼女の不安を掻き立てる。
《ベアトリィィィィチェェェ……》
「何よ!! 何をしたのか教えてよ!! あなたの解き放った影達は何の為に、何をしに、何処に行って来たの?! あの力は何? 何が可笑しいの?!」
ベアトリーチェはテラスから身を乗り出すように、精神を研ぎ澄ませ耳を欹てた。
氷のように冷たい風が白い肌を舐めていく。
木々のざわめき、風の息吹、獣の遠吠え……
しかし、数々の音の中に、一つ自然のものでは無い音が聞こえてきていた。
定期的な無数の足音、樹海からの物ではない。
もっと近く…この城の聳え立つ山の下の方でそれが聞こえる。
「この城に…誰かが向かって来ているの?」
しばらく妻の顔を眺めているとガドリールは手の平の上にあの黒い水晶を作り出した。
中に渦巻く闇が一つの場面を映し出す。
ベアトリーチェはベッドの上の彼に歩むとその水晶の中を覗き込んだ。
真っ白なローブを身に着けた男達の集団。修道士のような出で立ちはしているが、何かが違う…。
腰に差した長い剣と胸の短剣。何度か彼らの事は見たことがある。
彼女がまだエテルニテに住んでいた時、豊穣祭の大掛かりな祭事を執り行う教皇様の周りに居た護衛たちだ。
「教会の人間があんなに………?!………」
白い男達の中に別の人物も紛れていた。
一人は銀の髪の少年…紅一点の少女…エテルニテ警団の服を纏った青年。そして最後の二人を映し出した時に彼女の顔は驚きに満ちた。
まるで人間であった時のガドリールのような出で立ちの黒魔道師と…見覚えのある懐かしい青年。
(クラージュお兄ちゃん?)
髪も短くなり、エテルニテの司祭服を纏っているが彼はまさしくベアトリーチェが幼い頃に淡い恋心を抱いていた彼だ。
「何で…何で?」
その呟きにガドリールの声ともならない不気味な言葉が低く紡がれる。
「!! ……違うわ。何でもない…知らない人よ……」
ガドリールの言葉は何となく、雰囲気で分かる。
『知り合いか?』……そう言う言葉に聞こえ、ベアトリーチェは急いで水晶から目を逸らした。
(何でこんな所に来てしまったの? 私が必死で彼を留めているのに………)
水晶を見ながら不気味な笑みを零す夫の姿に彼女は背筋を凍らせた。
どれ程前からガドリールは気付いていたのだろうか、生み出した小さな影達の姿もこれからこの城に向かって来るであろう玩具たちがどれ程楽しめる物なのか確かめるために解き放った物だったのだ。
そして、彼らはその期待に応えてしまった…………
「ガドリール……あなた……」
目の前に獲物自らが現れてしまったなら僅かに残っているベアトリーチェへの情欲という枷も何の役にも立たないだろう。
肩を落としながら呆然とする妻をしばらく見つめると彼は手の中の水晶を打ち消し、再び彼女に癒しを求め、手を差し伸べた。
「………今は癒しを与えろと………そう言いたいのね」
彼をこのまま目覚めさせたままではいけない…水晶で見たあの道は私が五年前に必死の思いで登ってきた古代の巡礼道だ。
あそこからこの城に着くまで十五歳の少女の足で五時間程かかった。
彼らならばもっと早くこの場にたどり着く事だろう……今ガドリールが眠ってくれれば私が彼らを追い返せばいい………。
目の前に餌が現れなければガドリールの心の天秤はまだ辛うじて私の方に傾いている。
しかし、彼らを目の当たりにした夫の事は止める自信は無い。
それでも…………
以前感じた胸騒ぎが中に渦巻いている。
幼い頃の淡い初恋相手を目の前にしても私の心は揺らぐ事無くいられるだろうか…
ふとそんな考えが頭に浮かびベアトリーチェはガドリールの頭を再び膝に乗せ、子守唄を口ずさんだ。
(そんな事無い。私を助けてくれたのはガドリールだもの…こんな姿になっても私だけを見てくれているのは彼だもの。彼の愛に勝るものなんて在りはしないわ)
歌を謳いながら彼女は必死で自分の心にそう言い聞かせていた。