記憶
「あのさ、俺があの化け物に殺されそうになったって言ったじゃん」
ヴェントは額の傷を指差した。
「その時吹いてきた風に乗って聞こえて来たんだけど、『じゅせらせ』って何?」
その言葉に二人のローブの男が顔を上げた。
やはり、彼らにはその意味が分かるらしい。
「ジュセ…ラセ?」
「そうそう、女の声でさ。そしたら例の奴が攻撃の手を止めて、少しあの城眺めると…消えたんだよ」
アカトリエルと一度顔を見合わせた後ウェルギリウスがそれに答えた。
「それはジュセルプラセだろう。正式な言語は『ジュン・セイル・プラッセ』となる」
「そうそう!!! そんな感じ! それって何?」
「デザスポワールの女言語だな。意味は[私の元に戻ってきて]…だ」
「!!!」
ヴェントをはじめクラージュとコンデュイールの時が一瞬止まった。オランジュは肉を食っている…
「私の元へ戻って来てって…………」
「ヴェント・エグリーズ、昨日お前が言ったとおりだな」
アカトリエルが呟いた。
「え? 俺何か言った?」
「少なくとも今の時点で、あの魔城の花嫁はエテルニテを守ろうとしていると言う事だ。そして魔神は妻のためならば殺戮の悦びでさえ投げ捨てる。しかし……」
ただの人間であるドミネイトの一人娘がそんな力を秘めているとは思えなかった。
「花嫁は魔女だな。普通の人間にはそんな力は起こせん」
ウェルギリウスが小さく呟いた。
肉を頬張りながら見上げたオランジュの目には漆黒のローブの下から覗く鋭い瞳が穏やかな光を宿しているように見える。
「終焉の魔道神をあやす癒しの魔女か…。皮肉なものだな。忘れようと思えば思うほどにお前を思い出させる物事が沸き起こる………」
自分自身に語りかけながら思うのは老人が四十数年前に恋し焦がれた漆黒の魔女の姿だった。
「恐らくこの五日、魔神が出現しなかったのも彼女が繋ぎとめているからだろう」
しかし、ただの人間であったベアトリーチェが何故そんな力を持っているのか。
デザスポワールの女ならともかく、常人は魔女になろうと思って簡単になれる物ではない。
アカトリエルは聳える城を見上げた。
すでに日は傾き、あと数時間もすれば闇に呑まれる。
「早く食事を済ませろ。日が昇っている内に、あの城へ続く道を探さねば」
「城へ続く道って…あるのか?」
「だからヴェント・エグリーズ、お前を連れて来た。数千年前に崖が崩落し、道の存在は消えたきりだが……この崖の麓の何処かにその道があるはずなのだ。それまでは道無き樹海の中を散策しなくてはならない」
白いローブの男の言葉に隣のオランジュが首を傾げる。
「そういえばあのお城って元々何なの? 何であんな所にポツンと建ってるの?」
「……詳しい事は分からんが、あの城は元々神殿であり、女神ベアトリーチェが住んでいたという。エテルニテ全てを見渡せる場所があそこだったのだろう……」
ヴェントとコンデュイールもへぇー……と思わず唸る。
「ベアトリーチェ?」
ふいにクラージュが頭を抱えた。
またあの痛みだ。ベアトリーチェという名を聞いただけで強力な頭痛が巻き起こる。
「お…おいおい!! またかよ!!!!」
「え? クラージュ司祭、一体どうしたんだい?」
「いやっ…えっとな…そうそう何か偏頭痛持ってるらしくてたまにこうなるんだよ。ちょっとここは炎が熱いな。俺涼しい所に連れて行ってみるわ」
コンデュイールとオランジュにはその理由は話せない。
三人で頭を抱えられてはこちらとしてはたまったものではないからだ。
ヴェントはそう言うと司祭の肩を抱えながら森の少し奥に足を進めた。
「おいクラージュ司祭しっかりしてくれよ。何でアンタだけそんな微妙な魔法の掛かり方なんだよ」
仲間と少し離れた所で彼を座らせるが、クラージュは一向によくなる気配は無かった。
「いっその事解いてしまうか」
「え?」
後ろにはいつの間にかウェルギリウスが立っていた。
「解くってそんな事出来んのか?」
「私はデザスポワールの司祭をしていた男だぞ。人間であった頃の同胞が掛けたものならば造作も無い事だ」
そう言うと黒いローブの老人は身体を丸めて痛みを堪えるクラージュの後頭部に手を掲げると、あのアカトリエルが使った呪文とは異なる言語を唱え始めた。
「ゴダルダンドス・ド・ル・ヨルダナンレフ・ノン・ザンドールバルディンソ・ヴォヌ・ダゾルゾルナーヤ・ミドゥバルドゥルドルデ【心に宿りし忘却の鎖。其の尾を捉える楔を破り記憶の光を解き放たん】」
その呪文に誘われるかのようにクラージュの呻きがピタリと止んだ。
彼はまるで意識の無い生き人形のように立ち上がるとただ呆然と一点を見つめていた。
その瞳孔は開ききっている。
「汝、深淵の闇を照らす一筋の光の名を我に捧げよ」
人形のように固まるクラージュの口だけがゆっくりと動き始めた。
小さい声が微かに聞こえる。
ヴェントがもっとよく聞こうと耳を近づけた時………
「ベアトリーチェ!!!!!」
クラージュはそう叫び、宙に手を差し伸ばし、耳元で叫ばれたヴェントは強烈な耳鳴りに身体を強張らせ固まっていた。
「思い出したか?」
息を切らせるクラージュにウェルギリウスが問いかけた。
彼女の名を呼んだ瞬間頭の中の封印が爆ぜる音と共に全ての記憶が駆け巡った。
暴君ドミネイトにどんなに酷い仕打ちを受けても屋敷に通い続けた理由も全て。
希望を失いかけていた時にはあの、まだ小さな少女の微笑が唯一の心の支えだった事も………