勇気
「遅っせぇな…まさか逃げたんじゃねぇだろうな。いや、まさかなぁ」
夜空が薄っすらと白み始め、ヴェントは教会から支給された毛布に包まりながら遥か彼方の東の樹海を教会の屋上から見つめていた。
あの後アカトリエルは用があると言って一人馬を走らせて行った。
白ローブの男達の話では明け方までに帰るという話だが、軽い仮眠をとった後も彼の姿は見受けられずに一時間前から寒空の下双眼鏡片手に東の樹海へ続く道を眺めていたというわけだ。
「いつも思うけど俺って悉く心配性だよな。大体何で俺が心配しなくちゃなんねぇんだよ。これから死んじまうかもしれねぇってのに」
はぁーと長く深いため息を吐くとごろりと仰向けに転がった。
「やめたやめた。アホらしい。あの白い奴らはボスを信頼しきってるんだな」
一人で愚痴り、冷たい風に銀の髪を靡かせながらヴェントは空を見上げた。夜明けが近付き薄い藍の空には未だに星が輝いている。
その彼の顔を覗き込むように一人の青年が現れた。
「おっ。目が覚めたのかよアンタ」
「すいません。また私が何かをしてしまったようですね。シスターマルガレーテに『大丈夫ですか?』を何度も言われてしまいましたよ」
「何も覚えてねぇの?」
「あのっ……そうですね…アカトリエル様に告解をしたあたりから、記憶が無くて。気付いたらベッドの上でした」
ほぉーと声を上げると「すげえ魔法に掛かってんな」と独り言のように呟いていた。
「魔法?」
「いや、何でもねぇけど、あんま気にしない方がアンタのためだぜ」
百万の人間の記憶をここまで一気に改竄してしまう程の黒魔法とは一体どのような物なのだろうか。
そんな相手にこれから立ち向かう事が本当に正しいのかどうかも分からなくなってくる。
その気になればどんな大事な事件でも瞬時に打ち消せるという事だ。
(俺達の記憶も消されたらどうにもなんねぇな)
クラージュは冷たい風に肩を摩りながら息を白く吐き出し眼下を見下ろしていた。
「そろそろですね。下では双剣徒の方々が出陣の準備をしてらっしゃいます」
「あいつらも大変だよな。命を盾にこの国を守ってんだからよ」
気丈なヴェントの姿にクラージュは微かな笑みを零した。
「あなたはすごいですね。全くの恐れを感じさせない」
その言葉にヴェントは眉を顰めた。
「ほら…私は怖くて仕方が無いのに…」
クラージュの手が小刻みに震えていた。その言葉にも力強さが全く感じられない。
「あのさぁ…アンタ何歳?」
突然聞かれて面食らう司祭に少年は続けた。
「司祭って地位なんだからそこそこいってるよな。アンタ何歳?」
「今年で二十六になりますが……」
「はぁ? 俺より八歳も年上じゃん。もっとしっかりしてくれよ。何かアンタ見てると戦う前から負けそうな気がしてしょうがないんだよな」
「えっ…あっ…すいません」
キョトンとするクラージュにヴェントはがっくりと肩を落とした。
「それ、超覇気が無いんだけど。人を導く立場ならもっとしっかりしてくれよ。気になる事があって志願したんだろ?それじゃあ女神の騎士様たちもげんなりだぜ」
「…すいません…」
再び繰り返された言葉にヴェントは溜まらず頭を掻き毟った。
「そ~じゃなくて!! ちょっと、ちょっとさ、ちょっとここに来てみ?」
ヴェントに促されクラージュは教会の屋上の縁近くに立たされた。
「何ですか?」
「ちょっとここで絶対勝ってやるぞ!! エテルニテを護ってやるぞ!! って叫んでみ?」
「なっ…何を言い出すのですかいきなり…」
あまり唐突な事にクラージュの声が変に裏返っていた。
「叫ばねぇと突き落とすぞ」
クラージュの背に手を当てたままヴェントの瞳が不気味に煌いた。
本気だ。
司祭は後ろに重心を傾けながら青い顔で眼下の街に向き直った。
「えっと…絶対勝ってやるぞぉ~…エテルニテを護ってやるぞぉ~…」
「小っさ!!! 蚊の羽音の方がまだ聞こえるぜ!!!」
「そ…そんな事言ってもですね…私はこんなに目立つことは…」
背中が押し出され、どさくさに紛れてクラージュはその言葉を無意識に叫んでいた。
自分でも驚くほどの大声がエテルニテの静寂に響き渡る。
「出来たじゃん! そうそう、その意気だぜ!!!」
ガタガタと震えるクラージュの姿を見ながらヴェントは明るく笑った。
「そんなに怖がるなよ。本当に突き落とすわけねぇじゃん!!!」
背中をぽんぽんと叩かれクラージュも引きつった笑みを背後の少年に向ける。
「はは……そうですか? 私にはあなたの姿があの魔物と被りましたけどね」
絶対本気だった。
そう思っていた。
しかし当の本人はあっけらかんとしたまま遠くの樹海に双眼鏡を向けた。夜
明け前の街中を白い馬が白い人物を乗せながら走り抜けてくる。
「おお! あんたらのアカトリエルさんが帰って来たぜ」
そしてその後ろ、双眼鏡の中に写されたのは白馬の後ろから付いてくるもう一つの姿だった。
まだ街に残る闇に覆われて気付かなかったが、白い姿の後ろに彼とは対照的な漆黒の人物が付いてきている。
「こいつは…教会のボスがすげぇの連れて来たぜ? あんな奴が何で東の樹海に住んでんだよ」
その意味深な言葉にクラージュが首を傾げる。
「下に降りようぜ。あんなの街の人間が見たらパニクっちまう」
キョトンとする司祭の腕を引き、ヴェントは教会の内部へ駆け下りた。