親友
しばらくしてジョルジュはアカトリエルの後ろに視線を注ぐとそっと立ち上がった。
「私。明日の朝食の準備をしないと…」
そう立ち上がった母を目で追うと、部屋の入り口の所に背の高い老人が無言のまま佇んでいる。
ジョルジュはウェルギリウスに訝しげに一例すると奥の台所にそそくさと姿を消した。
「何の用だ。私はもう貴方と話す事はない」
冷たく言い放つ息子を見つめると老人は徐に彼の前の椅子に腰を下ろし、そのテーブルの上に固く施錠された箱を置くとため息を付いた。
「アーリウスとは幼い頃から共に司祭修行を行っていた。どんなに苦痛を伴う黒修行でも乗り越えてきた唯一無二の親友とでもいうべきか……」
箱を見つめながら語る父の言葉に耳を傾けながらもアカトリエルは終始無言を決め込んでいた。
「しかし、私はアレと共に在れば在るほど強力な劣等感に苛まれ続けていた。本来デザスポワールの司祭は神童と呼ばれる天才児たちに受け継がれてきていたもの。私も天才と謳われていたが、アーリウスだけはその中でも別格だった。大人の司祭ではないと成し得ない大魔法を若くして極め、侵略者との戦では常に先陣を切っていた。私は漠然とした力の差に嫉妬し、心の奥底には憎悪でさえ渦巻いていた。それなのにアレは他の司祭たちでは持ち合わせていない優しさを持っていてな。プライドが高く利己的な、私を含めた十人の司祭の中で最強の力を秘めているのにアレだけは気取らずに先導力に溢れていた」
箱を封じてある呪文がびっしりと刻まれた水晶の南京錠と鎖を理由も無しに触れながらウェルギリウスは語り続けた。
「黒き聖母ヴォワザンもそんな奴に魅かれたのだろうな。……闇より暗い漆黒の髪をした美しい女だった。私達司祭は後に控えた神創りの儀式の為に彼女の護衛の役も担っていた。いわばお前と同じ騎士と言った所だな。黒き聖母の黒き騎士。私達にも食って掛かる気丈な女だったが病に冒された者や怪我をした者にはまさに聖母だった。己の身を削るような治癒術を惜しみなく注ぎ、何度か倒れた事もあったが彼女はそれを止めようとはしなかった。それを止めさせようとすればまるで男のように勇ましく私達に牙を剥いたが………私が劣等感に押しつぶされそうになっている時には、私の頭をその胸に抱き慰めを与えてくれた。恋し焦がれ、何度も力付くで手に入れてやろうと思ったが、あの女を前にするとそれも出来なかった」
「やめろ。それは母への冒涜だ」
大人しく聞いていたアカトリエルは思わず声を出した。
彼が幼い頃、ジョルジュはこの目の前の亡命してきた黒魔道師が初恋だったと言っていた。
エテルニテでは見ない鋭い容姿の中に垣間見えた心の影が救いを求めていた…と。
結果彼女はこの男を選び、修道女を捨て、こんな森の中で乏しい生活をする事になったのだ。
しかし年老いた黒魔道師はそんな息子をしばらく眺めると「聞け」と言い、続けた。
「私達の監視が常に付きまとい、決して通らねばならぬ残酷な黒ミサを将来に控えていてもあの女が微笑みを絶やさなかったのはアーリウスが居たからだった。あの夜の事は忘れたくても忘れられん。寒空の中、その背をアーリウスの胸に預け、夜空の星を見つめる彼女のあれ程幸せそうな顔を……私は一度も見たことが無かった。その時私は心を決めた。この国を捨てようと。
ここには私が得られる物は何一つ無い。人を喰らってまで国を存続させる理由も無い。同胞の司祭たちからは罵声が浴びせられたが…」
封された箱に添えられた手に力が込められるのが分かる。
「それなのに!! 奴は何と言ったと思う?! 『自由になれ、生きた人間を喰らっては人ではなくなる。お前は人として歩めばいい』? 私は何だ!! 力も及ばず愛した女も奪われ、心でさえ敗北した!! いっその事他の司祭たちのように蔑み、詰ってくれた方がどれ程救われた事か!!!」