友への嫉妬
ウェルギリウスは束になった手紙を懐かしげに眺めながら遠き日々を思い描いていた。
「我が友、デザスポワール最強の黒魔道師。大司祭ラ・アーリマーリウス・ツァラトゥストラ・オグレス。彼の者の大魔法と百万の犠牲を以て初めて封された神だ。私に何が出来る………」
「諦めよとおっしゃるか?」
「私にはあれ程の力はない!! 自らが仕えた神を恐れ国も友も捨てた男だぞ!!」
始めて見る父の姿だった。
常に冷静な態度を決して崩さなかった黒魔道師が我をも忘れ声を張り上げる。
「貴方らしくない。貴方は最高の知識を持った気高き黒魔道師であり、私の誇りであったはずだ」
「黙れ!!!」
立ち上がった老人の堅く握った拳がぶるぶると震えていた。
「負けるなど……」
噛み締めた唇から血が滲む。
「アーリウスの血を引く息子にお前まで敗北したら、私はどうしたらよいのだ」
その言葉にアカトリエルは父が何を恐れているのかを悟った。
この目の前の老人が今恐れているのはあの魔神自身では無いという事…
「貴方が棄てた友への嫉妬か?」
「…………」
「つまらぬ自尊心だ。私の敗北は貴方の友への永遠の敗北だとでもお思いか?」
「何だと?」
「ひとつ言っておこう。私の力はアレの足元にもおよばぬ。だが、この心は誰にも手折る事など出来ぬ!!」
そう断言するとアカトリエルはウェルギリウスに背を向けた。
「あなたの力を借りようとしたのが間違いだった。私は逃げない」
「ダンテ」
「我が父ウェルギリウス、見損なったぞ」
吐き捨てるような言葉を残し、年老いた黒魔道師の部屋を出た先にジョルジュが悲しげな面持ちで立っていた。
「シスタージョルジュ、ここには私が求める答えは無かった。まさかあの男があそこまでの腑抜けであったとは…」
「ダンテ、しばらく待っていて。温かなお茶を淹れたのよ?」
「私にはそんな時間は無い」
そう言い残し出口へ向かう息子の手をジョルジュが力強く掴んだ。
「時間は無いなんて! そんな事言わないで! 生きて帰れないと分かっている戦に赴く息子を大人しく帰すと思って?!! 私はあなたの実の母親よ!!」
既に還暦を迎えた老女だとは思えぬ程の怒声は嘆きにも聞こえる。
小さな年老いた母の目には微かな涙が輝いていた。
「私の淹れるハーブティー、あなた好きだったでしょ? 五年前はすぐ帰ってしまったから」
視線の先、小さなテーブルに置かれた温かな飲み物が懐かしい香りを運んでくる。
柔らかな花の香りの紅茶にたっぷりと砂糖を入れたものが幼い頃は好きだった。
「…………三十年ぶりの香りです」
アカトリエルは小さく頷くと母に習い白いマントを脱ぎ、椅子に腰を下した。
鎖で胸に繋がれた漆黒の鞘に収まる短剣にジョルジュの手が止まる。
「この剣好きではないわ。自殺するための剣を常に身に着けているなんて…」
「信仰の証であり、女神への愛の証でもある。これは外せない」
「そうね、あなたをその世界に預けてしまったのは私達ですもの」
そう悲しげに呟くとジョルジュは砂糖の入ったポットに手を掛ける。
「このままで結構です」
その言葉に老女ははっとした。
「そうね。あなたはもう子供じゃ無いのよね。嫌だわ、私の中ではあなたはまだ八歳のまま…」
「…………」
アカトリエルは母に軽く頭を下げると淹れたばかりの熱い紅茶を一口、啜った。
母は年老いてしまったが紅茶の味は昔のままだ。
その息子の姿を優しげに見つめながらジョルジュは彼の前の席に腰を下した。
「お父さんを恨まないであげて」
その小さな言葉にアカトリエルは顔を上げた。
「アーリウスって…あの人のただ一人の友人だったらしいの。私も四十年連れ添って初めて教えてもらったのだけど」
「あれは嫉妬です」
「そうかもしれないわね。でも、最後まで勝てないまま彼は逝ってしまった」
「……………」
「神創りっていう儀式が行われる三年前にあの人は国を捨てたらしいのよ。人間を食べる儀式なんて残酷な行為は普通の人では無理。だけど司祭を降格したいって言って許される事ではないらしいの……」
しばらく瞳を閉じるとジョルジュは「でも…」と続けた。
「アーリウス大司祭だけは理解してくれていたと言っていたわ。それが最も苦痛だったって……あなたも分かるでしょう? お父さんはとてもプライドが高い人だから」
ティーカップを置くとアカトリエルはそのカップを見つめたまま静かに、そして冷静に呟いた。
「それならば今努力すべきだ。その自尊心を守りたいのならば今動かずしていつ動く」
その言葉にジョルジュは何も応えられず静かな沈黙が訪れた。
暖炉で燃え盛る薪が時折パチパチと弾け飛ぶ音だけが狭い部屋に響いていた。