黒き司祭
ここに来るのは五年ぶりだった。
深い深い森の奥深くに立つ小さな小屋…自分の中の記憶と全く同じままだ。
煙突からは暖炉の煙が暗い夜空に白い雲を生み出している。
アカトリエルは馬から下りるとしばらく躊躇してから扉を叩いた。
しばらくの間を置いて扉の中から六十代の女が姿を現した。
金の髪は既に色あせ、顔には皺が刻まれているが、年よりは遥かに若く見える。
女は目の前の背の高い男を驚きの眼差しでしばらく眺めるとしっかりとその身体に抱きついた。
「ダンテ!! 良かった。生きていたのね」
「シスタージョルジュ…貴方もお元気そうで何よりだ」
「シスタージョルジュなんて…お願いよここに来た時はお母さんって呼んで」
アカトリエルは首を横に振った。
「それは出来ない。私はもう女神の騎士として出家してしまっている。ですから私の事もダンテではなくアカトリエル…と」
女は悲しそうな顔をすると背伸びをして彼の頬にそっと触れた。
「どんな立場になってもあなたは私の大切な子よ。ダンテって呼ばせて」
「父……いいえ、ウェルギリウス殿はどちらにおられますか」
「ウェルギリウス殿なんて…お父さんって呼べばいいのに……あの人の名前は呼びにくいでしょう?」
狭い部屋の中には大量の書物が所狭しと屋根まである本棚に並べられている。
ここのエテルニテではまず見ないような言語が書かれた背表紙が奇妙な空気を醸し出していた。
ジョルジュが誘った奥の部屋には不気味な置物が並べられていた。
「あなたの言った通りね。ダンテが来ましたわ」
部屋の中心に置かれた椅子から長身の男が立ち上がる。
長いローブ……黒髪に白髪が混じった灰色の長髪を頭の上に一つで纏め、編み込んだ七十代前半の老人。
老人というわりには背筋もシャンと伸び、深い皺の刻まれたその顔はほっそりとしており、鋭い瞳と通った鼻筋が端正な面持ちを際立たせている。
「ウェルギリウス殿……」
「何故私の元へ来た。五年前も言ったはずだ。私には関わるな…と」
「あなた。そんな言い方はあんまりではございませんか」
「お前は席を外せ…」
ウェルギリウスに言われジョルジュは「お父さんに負けるんじゃないわよ」とアカトリエルの腕に触れ、その部屋から姿を消した。
「貴方は相変わらず若き日々と何の変わりもない。気高く聡明で…高慢だ」
「国柄でな。あの国の男はこれが普通だ………」
再び椅子に座りなおすとウェルギリウスは膝の上で手を組んだ。
「貴方なら私がここに来た理由が凡そ分かるはずです」
ふぅ………と息を吐くと老人は全てを悟っているかのように
「敵うと思うのか?」と呟いた。
「ですから貴方の力を借りたい。デザスポワールの司祭の一人であった貴方の知識を…」
しばらくの沈黙の間でローブの老人は何かを考えると仕方なしに口を開いた。
「因果なものだな。逃れてきた神と再び合間見えようとは………しかも息子がそれと対峙する立場になるとは………」
「倒せるとは思っていません。せめて封じる法だけでも教えていただけませんか」
「封じる術か…あればとっくに教授している」
「僅かな法もないと?」
「私が言ったものが用意出来るのか?」
「大抵の術式道具は取り揃えております」
その言葉に老人は首を振った。
「強力な黒魔道師たちの皮膚で作られた魔道書と、破滅の魔道神を崇める百万の民の生き血を満たした池が………お前達に用意できるか?」
年老いた父の言葉にアカトリエルは絶句した。
「デザスポワールの司祭たちの皮膚はもはやこの世にはあるまい。私の皮膚ではとても足りぬしな……エテルニテ全ての住人の生き血を浸す事も不可能だろう…」
「それが…唯一の方法ですか」
「デザスポワールが滅びた理由を教えてやろうか………その気になれば住人は逃げ失せられた。最高位の黒魔道師と魔女で構成されていた国だぞ?」
「…………っ…………」
「彼らにも自尊心はある。神の裏切りに最後の足掻きを見せたのが魔道国家の住人達だ。私は神造りの時点で逃亡したがな………」
ウェルギリウスの瞳が自分の犯した行動に悔いていた。
「滅びた理由は我らが魔道神を封じるために、それらの事を自らが実行したからだ。司祭たちは一人を残し全ての皮膚を剥ぎ取られ、住人は全ての血を捧げた……自らの過ちを悔いるために」
ウェルギリウスが施錠された机の引き出しから束になった紙を取り出した。
皆が古く黄ばんでおり、見る限りではどうやらデザスポワールからの手紙のようだ。
アカトリエルはまだ幼い頃に自動書記という道具を見た事がある。
デザスポワールの司祭たちが使用したとされる魔道書記具だ。
離れた場所にいる同胞に文を飛ばす器具らしいが、起動していたのは見た事がない。
「神として生を受けた子を育てていた司祭からのものだ。………私の友人だった」
アカトリエルでは解読不可能な言葉が羅列された文字を見ながら、ウェルギリウスは小さく息を付いた。
その冷たい瞳には何処となく哀愁が漂っている。
老人が時計に目を移すと、そろそろ零時を指そうとしていた。
「まだ時間はあるな…ここに全てが書かれている」
「…………………」
「お前が幼い頃には何一つ父としての役を果たしてはいなかったな。昔話をしてやろう…デザスポワールの神創りから私が亡命した理由までを…………」