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癒しの血

 四時間………


 ベアトリーチェは深い眠りに付く夫の姿を見ながら新たな真実にたどり着いていた。

 一日に一度、ただ一度だけデザスポワールの言葉を使った子守唄でガドリールはとても深い眠りに付くという事を……。

 もちろん特に眠る必要があるわけではないので彼女が唄を謳わなければ彼は眠らない。


 子守唄は彼を眠らせるための魔法のようなものだった。


 そしてその時間には四時間というサイクルがある。       

 その四時間の間はどんな事をしても彼を睡眠から覚ます事が出来ない。

 裏を返せばその時間帯ならば彼女も眠る事が可能だった。

 眠る夫の漆黒の髪を優しく撫でながら時計を見る。

 計算上ではあと一時間で彼は目を覚ますはず。

 幸運にも今の彼女の身体は二時間の睡眠があれば十分だった。

「あなたのこの身体には他にどんな秘密があるの?」

 氷のような青白い胸に指を滑らせながらベアトリーチェは一人囁き、身体をピッタリと寄り添わせていた。

 眠っている時の夫はとても無防備で静かだ。

 あの憎悪の(かたまり)のような気配も何も無い純粋な子供に見える。

 両腕を彼の首に回し頭を(もた)れながら残り一時間の至福の時を満喫しようとしたその時、部屋の 外で獣のような叫び声が木霊した。

 バタバタと音を立てながら苦しそうな呻き声を上げている。

「窓から何かが入って来たのかしら…」

 薄いドレスの上からベルベッドのガウンを羽織り、廊下を覗いて見ると月明かりが注ぎ込む窓の下で何かが(うごめ)き、もがき苦しんでいた。

「大きな蝙蝠(こうもり)…」

 深手を負った巨大な蝙蝠が赤い血を撒き散らしながら暴れている。

 獣か何かに襲われたのか、首の短い皮毛の下からはピンクの肉が剥き出しになっていた。

「ほら、おいで大丈夫よ」

 ベアトリーチェは手を差し伸べながら(おび)え、混乱する動物にゆっくりと近付いた。

 人間であったガドリールとの約束でこの城を出る事を禁止されていたため、時折窓から迷い込んでくる鳥や蝶などは最高の自然の贈り物だった。

 異形の者がこの城内を徘徊していた時は彼らの餌食になってしまうので(たわむ)れる事も無く逃がすしかなかったが、今はガドリールも眠りに付き、異形の従者たちも居ない。

「怖がらないで。ヒドイ怪我…手当てしてあげるわ」

 そっと差し出した手にも巨大な蝙蝠は怯え、近場に迫った白い手にその牙を剥いた。

 指先に鈍痛が走り、鋭いナイフのような牙が皮膚の下に埋まるのが分かる。

 ベアトリーチェは一瞬顔を(しか)めたたものの怯える生き物に精一杯の微笑を向ける。

「大丈夫だから…ほら…」

 やがて生き物はその力を弱めベアトリーチェはその傷にそっと手を当てた。

 すぐに治癒してしまった指先に残る彼女の血の(しずく)が蝙蝠の深い傷口に落ちる。


 次の瞬間驚きの光景が飛び込んで来た。


 彼女の血が(したた)り落ちた傷口から蝙蝠の(えぐ)られた肉が湧き上がりたちまち治癒してしまったのだ。


 ()げた皮毛の隙間から完全に再生した皮膚が覗いている。

 蝙蝠は落ち着きを取り戻し、やがて窓から外へと飛び立った。

 夜空の彼方に飛び立つ姿が見えなくなった後、ベアトリーチェは噛まれた指を呆然と眺めていた。

 残された血筋が痛々しいが、既に深く噛まれた傷口は無い。

「私の血は…私だけを治癒するのではないの?」

 彼女は何かを思い、厨房に入ると氷付けになった肉を取り出し、そこに包丁を突き立てた。

 次に自分の指先を少し切ると、肉に縦に開いた深い穴の中にその雫を垂らしてみる…

 しかし、死んでいる肉は治癒する事はなかった。

 調理台の上に(しな)びた花が飾られていた。

 人間だった頃に飾った花だ。

 そこに血を垂らしてみる…すると花は鮮やかな色を取り戻した。

「…生きていれば…私の血は他人を治せるのね…」


 ガドリールとは正反対だった。


 彼の血は生き物の全てを腐敗させる…だがベアトリーチェがその血を浴びても腐敗の効果は現れない。

「嫌な力……せめて他を殺める血が流れているのならば区切りが付けたのに…」

 よりにもよって癒しの力だなんて……そう思っていた。

 本来なら喜ぶべき事なのだろうが自分の体が聖書に出てくるベアトリーチェに似通って来ている事がたまらなく苦痛だ。


 女神が何人もの病を治癒したという言葉は聖書の中に毎度の事のように語られていた。

 どうやら生前の女神ベアトリーチェは聖魔法という魔導術の使い手だったらしい。

 ガドリールはエテルニテの聖書を何度か読んでいた。

 今思えば『神』として生まれたという自分の生い立ちからここの国の女神にも興味があったのだろう…

 その時に彼はその女神ベアトリーチェの奇跡の力の謎をすぐに解明してくれた。

 何処の国でも巫女や修道女の家系を持つ者に数千万分の一の確立でそういう力を持った女が生まれる事があるらしい。

 彼の母もその一人だったと言っていた。

 そして他を殺める黒魔法とは異なり他人を癒す聖魔法はかなり力を消耗するらしく、自己犠牲心が強い者ではないと使い続けられないとまで教えてくれた。

「聖魔法ではなくて自分の血液って所が魔女だわ。それが救いかしら」

 沈んだ面持ちで呟いていた。


 廊下の奥のテラスから吹き込む風がその頬を撫でる。

 彼女はその風に導かれるようにテラスに出た。

 冷たい夜風が金の髪を撫で、眼下に広がる緑の匂いが鼻を掠める。

 遠くの街には今夜も灯りが灯っていない。

 きっと人々はガドリールが繰り広げる鮮血の舞踏会が再び開かれるのを恐れ続けているのだろう。


「…胸騒ぎがする」


 身体の奥底がざわついている。

 何かが近付いている気がした。


…今の状況に満足している心を何者かがかき乱そうとしている………


 漠然とそう感じていた。

「ガドリールじゃない。何故かしら…何かが…怖い」

 ガウンをしっかりと両手で押さえるとベアトリーチェは逃げるように眠る夫の元へ足早に駆け出した。


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