剣舞
「素敵……」
ロビーの高い天井に描かれた絵が両脇の彫刻と一体化している。
左右に分かれて美しい衣を纏った女神と長いローブを被った死神の巨大な彫像が対峙しており、彼らの視線の先には妖精や魔物が天井一杯に描かれていた。
天井を支える無数の柱の上部には天使と骸骨たちの音楽隊が細かく彫られていた。
その中心に下がる巨大なシャンデリアはまるで太陽を現しているようだ。
「ここの城を建造した人はどんな人なのかしら」
教皇様でもここの城の建造者の事は詳しくは知らなかった。
ただエテルニテが生まれた当時に創られた物だという事は言っていた。
……そうだとしたらここは一万近い年月をずっと生き続けてきたという事だ。
そんな大昔、道も無いような崖の中腹にこんな素晴らしい城を築き上げた人々は一体何のために…そして誰のために…?
ガドリールが住み始めてからずっと魔城と呼ばれ恐怖の象徴とされているが、実際はとても神聖な場所として作られたのではないかと思っていた。
…この巨城は神殿のようにも見える。
「エテルニテを創り上げた女神ベアトリーチェ…ここはあなたの家だったのではないの?」
彼女は人々を救うために自ら剣を持ち、ここの大地と融合する事で永遠の繁栄を与えたと言っている。
『人々の幸福が私の幸せである』聖書の中に書かれた彼女の言葉はまだこの心に強く残っている。
「唯一人の女としての幸福を拒絶して全ての幸福だけを追い求めるなんて…私には出来ない」
自分をガドリールの立場に置き換えて見るとその答えは容易に出た。
もしも私が終焉の魔女として生を受け、愛する男の死を目の当たりにしたら
………私はきっとガドリールと同じ事をした。
彼の魂を呼び戻し、生き返らせる程の力を得るために全ての犠牲が必要ならば私は喜んでそれをする。
「女神とは程遠い………お父様、私はどんなにあなたが望んでも女神にはなれなかったわ。例えなれたとしても…………」
首を横に振ると彼女は一人呟いた。
「唯一人の為だけの女神。私は彼の女神になれればそれでいい」
私でガドリールの心が癒えるのならば私はそれに応えるだけ…
エテルニテの人たちを犠牲にしなくても私が常に彼の元にあるだけで彼が満足するのならばそうしたい。
(でも、もし私だけで彼が満足を得られなくなったら? …私の癒しだけで彼が満足する事ができなくなったら?)
「私は彼を街に解放するかもしれない」
エテルニテに住む百万の民たちの犠牲を見つめる辛さと、ガドリールが苦しむ姿を見つめる辛さ…その二つを頭の中で秤にかけ耐えられるのはどちらか………そう考えたときベアトリーチェは恐怖で身体を震わせた。
「私が耐えられないのはガドリールが苦しむ姿の方だ」
あまりに簡単に出てしまった残酷な答えに一筋の涙が零れた。
「ベアトリーチェなんて…女神と同じ名前なんて…こんな…」
彼女の足が一歩また一歩と前へ出る。
やがて単調な足音が美しいリズムを奏で始める。
幼い頃から教え込まれた剣舞。巫女でありながら剣を振るった女神、ベアトリーチェを表現する為に踊った剣技だった。
深紅のドレスの裾を翻し、巧みに操った剣を魔杖に置き換えて金の髪を靡かせながら大理石の床をリズミカルに踏み鳴らす。
……五年間舞う事がなかったがその細い身体は鮮明にそれを覚えていた。
父の野望のために踊らされていたとも知らず、永遠に届くことの無い存在に手を伸ばしていたとも知らずに…………
(もしまだ女神がこの国に居るのなら、こんな私を見てどう思うかしら)
そう思いながら踊り続けた。
エテルニテの人々の為なんて私が言えば偽善の何にでもない。
私は夫のために平気で罪無き人々を生贄に捧げられるのだから……
どれ程の時間舞い続けただろうか…やがてベアトリーチェは崩れるようにその場に座り込んだ。
肩を大きく上下させ息を切らせながら頬を伝う涙を拭う。
ふと視線を感じ彼女は顔を上げた。
いつから居たのかロビーを望む階段の上に漆黒のベールを被った夫が静かに佇んでいた。
「ガドリール! ……嫌だわ……また気配を消していたの?」
急いで濡れた頬を拭うと彼女は精一杯の微笑を彼に向けた。
《…………………》
「いつから居たの? 起きたのなら呼んでくれればよかったのに」
《モデガドルドミデルダーゥデオルダミーベザーテベアトリーチェ》
「え?」
発せられた言葉に耳を疑った。
発音でさえ理解出来ず、呻き声にしか聞こえなかった彼の言葉がはっきりと頭に流れ込んで来たのだ。
具体的な理解というものではないが雰囲気的な意味を感じ取る事が出来る。
「もう少し見たいの? 私に……踊れ?」
《!!!!!…………?……》
ベアトリーチェの言葉に無数の赤い瞳が驚きに見開いていた。
「当たっているの?」
《ヲルガールゴエダルガワルガリルーダノーデ》
「我…声? 分かる…? 私の声が分かる…の…か?」
ガドリールの反応でその意味が正解か不正解かがはっきりした。
夫である魔導神は姿を消し、彼女の足元に漆黒の影が広がる。
影の中から再び姿を現した彼は妻の顔を間近に見つめると彼女の周りを一周し食い入るように見ていた。
「当たっているのね!」
彼の頭が微かに縦に振られた。
その姿にベアトリーチェの顔が喜びに満ちた。
魔女としての力の成長をこれ程までに嬉しく思ったのはこの身体を得てから始めての事だった。
我も忘れ彼女は目の前の存在に子供のように飛びついていた。
「あなたの声が分るわ! 変わってない…あなたは変わってない。…ただ少し理性の制御が出来ないだけ。大きすぎる力を持て余してしまっているだけなのよ」
《………………》
「このお城で貴方と永遠の幸福を得る事が私の望みなの…貴方と私と…」
冷たい身体にしばらく抱きつくと彼女は彼の前に立ち直った。
「いいわ。貴方のために舞うわ…私の舞が貴方にとっての数少ない癒しの一つなら…私を見て」
ベアトリーチェは再び杖を構えるとクルクルと美しく舞い始めた。
母が亡くなってから苦痛でしかなかった剣舞を愛する夫のために……
彼の視線を全身に浴びながら舞うダンスは苦には感じなかった。
彼が知らなかった私をもっと知って欲しい…ここに来てから私はガドリールに自分の事を何も話せなかった。
私がどういう風に育てられたのか、父から何を期待されて教養を身につけたのか……
今は彼と語り合う時間は無限にある。
いつしか彼女の顔からは微笑が零れていた。
彼が折角私自身に興味を持ってくれたのだから常に最高の私でありたい………
父は私を女神に仕立てるために厳しい節制をかけて育てた。
エテルニテ最高峰の美容師を金で買い毎日寝る前になるとバラの花のエキスを体中に塗りこまれ、邪な慈しみで誰よりも私を美しく仕上げようとしていた。
人形のように従っていたのは父の機嫌を損ねない為。
父は機嫌を殺ぐと私ではなく使用人に鞭打ったから逆らう事は出来なかった。
耐えて耐え抜いて手に入れた美貌は好きではなかったがこの城に来て初めてこの姿に誇りを抱ける。
(彼が見ている…私はガドリールの為ならばどんなにでも美しくありたい…)
彼女の思いに呼応するかのように操る魔杖の水晶が淡い光を放つ。
翻るドレスの裾が、靡く長い髪が身体の回転に合わせて風に揺れていた。
無意識のうちに纏った風のベールが無数の燭台の炎から火の粉を生み出すとそれは赤い蛍のように彼女の動きに習い広いロビーを飛び交った。
《………………………》
いつしか彼女の周りは光の粉雪に囲まれ幻想的な世界を作り出していた。
その中心で美しく舞い続ける深紅のドレスの美しい女の姿は人間にも魔女にも当てはまらない
………女神ベアトリーチェ………
その名に相応しかった。