朝日
地獄のような三度目の夜が明けた。
あの悪夢など物ともしない日の光が街を優しく包み込む。
今までの街人にとってこれほど朝日が暖かく、癒されるものだとは思っていなかっただろう。
日の光の恩恵をここまで感じ取れるとは…
全てを覆い尽くす闇を払い、全てを見通せる眩い光。
しかしそれは同時に化け物が残した爪跡の残酷さをも浮かび上がらせる。
化け物が姿を消してから、あの蒼い業火は信じられない程に勢いをなくし、日の出と共に姿を消した。
日の光の下に示されたのは黒く焼け焦げた不気味な建造物…
三日前の大震災でもびくともしなかったエテルニテ屈指の強固な警本部がたった一晩で朽ち果てた。
まるでこれから先の国の行く末を暗示しているかのようなそれに街の人々の嘆きが静かに響いている。
そんな絶望の静寂をかき消すように影商人本部の扉が忙しく叩かれた。
「親方!開けてくれ!親方!」
壊れんばかりに扉がノックされ影商人の長であるデグバッドは急いでその鍵を開けた。
扉の目の前に居たのは一人の少年を抱えた同胞の姿だった。
彼の額からは一筋の血が流れ、抱きかかえる少年に至っては頭を真っ赤な血で染めていた。
「ヴェント!お前…一体どうしたんだ…それは…」
「話は後だ。ちょっとこいつの頭見てやってくれよ!」
ガッチリとしたデグバッドの身体を押しのけるように中に入ったヴェントは抱える少年を壁際の長椅子に座らせると緊張の紐が途切れたように床に大の字に転がった。
「おい…こいつは…この区の警団員じゃないか…生き残りか?」
昨夜の事はすでに耳に入っていた。
あの青白い炎がここから十キロ近く離れる警団北本部から発せられるものだと知った時は恐怖に身が震えた程だ。
十代後半のその少年の唇は青く染まり身体は小刻みに震えている。
血に塗れた金の髪の間からはパックリと割れた傷口が見て取れた。
「父さんどうしたの?」
奥の階段から寝巻きに身を包んだ少女が駆け下りてきた。
「!ヴェント!!どうしたの?ヴェント!!」
床に転がり息を荒くする少年に驚き急いで駆け寄り、その額から流れる血に短い悲鳴を上げた。
「俺は大した事ねぇ。ちょっと疲れてるだけだ…それよりあいつ…」
「オランジュ消毒液と縫合器具を持って来てくれ」
デグバッドが少年の頭をタオルで拭いながら少女に指示する。
「石かなんかにぶつけたのかい?ずい分と大きく開いちまってるじゃねぇか…おいヴェント!何があった!」
その言葉にしばらく天井を眺めていたヴェントは「見ちまった…」と小さく呟いていた。
「見た?何をだ」
「噂の化け物だよ」
デグバッドの手が止まった。
「見たのか?」
「見ただけじゃねぇ…俺の目の前で俺を狙ってきやがった。生きてるのが奇跡だぜ…」
部屋の奥で物をぶちまける音が聞こえた。
床に転がる消毒液と縫合器具が散らばる中にオランジュが青い顔をして突っ立っている。
「オランジュ何してる!早く…」
デグバッドの言葉が終わる前に少女はつかつかと床に転がるヴェントに歩み寄るとその頬目掛けて小さな平手を思い切り振り下ろした。
大きな破裂音と共にヴェントの頬に真っ赤な手跡がくっきり残る。
しばらくの間を置いてヴェントが思い切り起き上がった。
「いっっってぇぇ!!!!テメェ!何しやがる!!俺が何をした!あぁ?俺がお前に何かしたかコラ……」
「死んじゃったらどうすんのよ!」
再び彼のもう片方の頬に衝撃が走った。
「おま………」
「この…バカバカバカバカバカバカバカバカバカァ!!!!!」
パンパンパンパンパン・・・
言い返す間もなく何度も両頬を叩かれ、やっと止まった。
赤くなった自分の両手を見ながらオランジュが叫んだ。
「いったぁ……赤くなっちゃったじゃないなよ!どうしてくれるのよ!!!!」
「ふざけんなお前!このほっぺた見てみろ!どう考えても俺の方が重症だろうが!!!!」
真っ赤になりお多福のように膨れた頬を指差しヴェントも負けじと叫んだ。
オランジュの顔が不意に歪む。
一方的に攻撃されたのはこちらなのにも関わらずいきなり子供のように大声で泣き出したのだ。
「何でお前が泣くんだよ!!!立場違うだろフツー!」
散乱した消毒液と縫合器具を拾いながらデグバッドが娘の頭をポンポンと叩き軽くなだめた。
「ヴェント…俺の娘を泣かすんじゃねぇ…」
「親方まで…大体俺が何をしたっていうんだよ!!親方だって見てただろう?!俺は何もしてねぇ!」
ため息をつくとデグバッドはタオルに消毒液を浸しながらヴェントを睨んだ。
「俺はお前にお父さんとは呼ばせねぇからな…」
「はあっ?何言ってんだよ!訳わかんねぇんだけど…」
「ほらオランジュ、泣いてねぇでその馬鹿の額の傷でも消毒してやれ」
馬鹿って
…何で俺が馬鹿呼ばわりされなくちゃなんねぇんだよ…
そう愚痴を零したかったが、一応心配をしていてくれているようだったのでとりあえずの所口にするのはやめておいた。
溢れ出る涙を拭いながら投げられた消毒液をガーゼに湿らせるとオランジュはそれを叩きつけるようにヴェントの額に当てた。
「痛ぇな!看病する気ならもっと優しく扱えよな!」
怪我をした所が額なだけにそこそこの出血はあったが傷口は大した事は無いようだ。
血を拭って見ると楕円形の小さな爪跡がチョコンと姿を現す。
それを見た少女が安堵の表情に歪んだ。
「何だ…心配して損した。全然大丈夫じゃない」
「だからそう言ったじゃねぇか…」
消毒を済ませガーゼと紙テープの絆創膏を貼り付けられながら、そう答えてみるが実際の所は冗談ではない。
あの一陣の風が化け物の動きを止めなければ今頃はナイフのような鋭い爪に脳みそを抉り出され、奴の腹の中に収まっていただろう。
「それで親方、そいつはどうだよ」
熱湯で煮沸消毒された丸い形の針を皮膚に通しながらデグバッドは「命に別状はねえ」と呟いた。
麻酔もなく傷口を縫い合わせられているにも関わらず警団の少年の瞳は、ただ茫然自失のままに虚空を眺め続けていた。
「こいつ、そうとうショックなもんでも見たんだろうな…まるで魂が抜けちまった抜け殻だ」
「そりゃ……」
あんな光景を見ちゃぁな…と心の中で続ける。