涙
「は…」
ベアトリーチェは瞼を開いた。
後ろから激しい息づかいが聞こえてくる。
振り向いた先、彼が戻ってきていた。
その肉体を今まで以上に血で汚して…
「ガドリール…」
様子がおかしい…
殺戮の高揚からまだ抜け出せていないのか、息は荒く、瞳は統一性が無いままに忙しく動き回っている。
「何人殺してきたの?」
《…ベア…ト……リ…チェ…》
「私の側に居てって言ったのに!!」
《う…うう…う…あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!》
「!!!」
魔杖が音を立てて転がった。
彼女の華奢な体は一瞬で彼に捕らえられていた。
骨が軋むほどにきつく抱き上げられ必死でその愛しい匂いを嗅いでいるようだ。
冷たい石畳の上に押し倒され、執拗に触れてくる夫の手を掴み、無数の瞳を見つめる。
「側に居てって言ったのに貴方はやっぱり私の言葉を聞いてくれてはいなかったのね…どうして?ガドリール!」
《?……》
「どんなになってもあなたの事は好きよ?愛してはいるわ…あなたの全てを受け入れるって思ってた…でも…」
ベアトリーチェの瞳が悲しみに歪んでいた。
血塗れた胸板に手を当て小さく呟く。
「血の匂いしかしない貴方の事は心から受け入れられない…」
乱れたドレスを調えながら俯く妻の顔から小さな雫が零れ落ちる。
「私以外の欲求を満たしてきたままの姿で…触らないで…あなたが好む生暖かい血を私は好きにはなれないの…」
顔を上げた癒しの女の赤い瞳から澄んだ涙が溢れ出していた。
ガドリールの激しい吐息が徐々に落ち着きを取り戻す。
目の前で冷たく美しい雫を零すその姿に戸惑い、何度も手を差し伸べてみるが
今の己が触れるべきではない…
心の欠片がそう言っていた。
忌まわしき力で魔女となっても尚、穢れる事を知らない女。
すぐ目の前に居るのに見えない壁で阻まれているように感じる。
終焉の魔導神では越えられない聖なる壁…
それが今の妻を取り囲んでいた。
《は…ああああぁぁぁぁ…》
氷のような吐息を吐き出しながらガドリールはゆっくりと彼女から離れていった。
「ガドリール?」
少し離れた所で黒いベールの魔神は背を向け、床に広がる闇の中に消える。
東の空が白み、魔城の頂上から臨む炎上する要塞。
その炎は驚くほど小さく鎮火されつつあった。
ここからでも十分に分るほどの建造物は真っ黒に焼け焦げ、墓標のように鎮座している。
「ごめんなさい…」
エテルニテの街に向かってそう呟くとベアトリーチェは魔杖を拾い上げ、城の中の闇に吸い込まれて行った。