恋心
東の空が蒼く染まり、また同じ一日が始まる。
ベアトリーチェはベッドから抜け出すと豪華な鏡台の前に腰掛け、美しいブロンドの髪を梳かした。
まだ薄暗い部屋の中、様々な化粧品やアクセサリと共に並ぶ金の燭台に明かりを灯すと鏡の中には色白のほっそりした美しい女の顔が写し出される。
彼女は慣れた手つきで長い髪を束ねると鏡台のすぐ隣に置かれた洗面台で顔を洗い、軽い化粧を施した。
(彼はまた眠らなかったのだろうか…)
大容量のドレッサーの中から赤いドレスを選び着替えると燭台を手に部屋を出る。
扉の向こうには暗く長い廊下が延々と続いていた。
高い位置に付けられた金縁の窓からは明るくなってきた夜明け空が覗き、心地よい風と遠くで囀る鳥の声が微かに聞こえる。
片手に持たれた小さな炎に照らされた光を頼りに、かび臭い巨城の階段を上がる彼女の周りからは不気味な音が木霊していた。
何かを引きずる音、気味の悪い無数の息づかい、時折階段の下を見ると青白い肉の塊が呻きを上げながらペタリペタリと後を付いてくるのが伺える。
「いつも言っているでしょう? 私の仕事よ。自分の仕事に戻りなさい」
ベアトリーチェが叱るとその物体はもどかしそうに姿を消した。
彼らはこの城に仕える従事たちだ。
完全な生き物の形をした者たちは誰一人としていない。
ここの城主である黒魔道師ガドリールによって生を与えられた化け物で、五年前までは彼らが主の世話をしていたらしい。
しかし知能の低い異形の者たちでは限界があるらしく、ベアトリーチェは十五歳の時に暴君であった父への復讐と引き換えにここの一員になる事を余儀なくされた。
今では黒魔道師の身の回りの世話は全て彼女が請け負っている。
長く曲がりくねった階段を上っていくと最上階の踊り場に設けられた窓から眩いばかりの朝日が差し込み、冷たいレンガ造りの城内をやわらかに照らしている。
その光を抜け、踊り場の一角に備えてあった小さな厨房に入ると、手に持っていた燭台の炎を窯に移し、鍋に火をかけた。
隅に置かれている肉厚な鉄製の箱を開くと冷気が立ち上り、中から野菜やベーコンを取り出し朝食を作りにかかる。
ここにある食材は皆使い魔が運び込んだものだ。
城の建てられている崖下には巨大な木箱があり、そこに注文書と金貨を入れて置くと街の商人がその品を入れておく。
それはここの城に黒魔道師が住み始めた頃から続いているエテルニテの街人の仕事だった。
得体の知れない城主との関わりは誰でも嫌ったものだが何せ品の代金の数倍もの報酬が入っているものだから注文に応えない訳にはいかない。
それに何かをされても困る。
そして注文の品は深夜、異形の使い魔がそれを取りに行っていた。
今ではもっぱら商品の注文はベアトリーチェの仕事になっていた。
野菜とベーコンのスープとフルーツに昨日焼いたパンを二人分銀の食器に乗せると、踊り場の向かいにある蝶番の扉を軽くノックし中へ入った。
「ガドリール朝食が出来たわよ」
部屋の中には何万の本という本が乱雑に高く積まれ、170cmの長身を持つベアトリーチェを軽く越えている。
その本の森の中を歩き進んで行くと床に散らばる紙の中心に薄汚れた漆黒のローブを纏う男が座っていた。
「また眠らなかったの?」
難解な文字や記号がびっしりと書かれた紙の中を進み男の横顔に語りかけると「ああ」という短い返事が返ってくる。
彼が追い求めるのは限りの無い知識と黒魔導という名の力だと聞いた事がある。
あまりに高度過ぎて理解が出来ないが、ある者を退ける為に知恵と力を欲しているのだと言う。
「食事は?」
「いらん」
彼から返ってくる言葉は明快だが単純だ。
そのどれもが一言で済んでしまう。
長い間人との関わりを絶っていたためか話らしい話をするのも極めて稀でまるで会話にならない。
始めの一年は戸惑ったが今では普通と慣れてしまっている。
「昨日も何も口にしなかったじゃない。体がもたないわ」
バターを塗ったパンを差し出し顔を覗き込むように話しかけるが返事は返ってこない。
「一緒に食べましょう? そうしないと戦えないわよ?」
その言葉に答えるようにガドリールは初めて顔を上げた。
艶の無い長い漆黒の髪に頬のこけた青白い顔、それでいて刃のように鋭い瞳は狂人と言われるのに何の疑いも無い。
「リュイーヌ・デューを退けられなくなるわ」
リュイーヌ・デューとは彼が恐れるたった一つの存在だ。
何の事かは分からないがどうやら神みたいな存在らしい。
しかも話に寄ると極めてタチの悪い怨霊のような神だ。
物心ついた時からその存在に狙われ、彼との融合を望み、日々狙われている…というが…
精神に支障をきたしていると言われればそれまでだが、それと戦う為にあらゆる黒魔道を極めたと言うのだからそれはそれで驚きだ。
「なぜお前はその話を信じる」
不意に会話が返ってきてベアトリーチェは目を丸くした。
めったに会話をしない人物からいきなり問いかけられる事にはまだ慣れていない。
言葉に詰まっているとガドリールは「ふ…」とあしらい、彼女に手渡されたパンを口に運んだ。
「その…だって信じないと…」
「私の言葉は誰も理解出来ん。お前にも恐らく無理だ」
「無理でも信じるしかないのよ。ここの城に仕えるあのものたち…ただの狂人が出来るような芸当じゃないし」
その言葉には答えが返って来なかった。
ただ、俯いていても鋭い視線が自分に注がれているのは分かる。
彼女は顔を伏せながらスープを啜った。
こんなにも利己的でまともな考えを持っていない男でも、あの父から救い出してくれた人物には違いない。
恐怖に駆られながら仕えていた頃とは異なり、いつしか心の奥底ではこの狂人が彼女の中にはなくてはならない存在になっていた。
彼のためならばこんな異形の者たちの巣の中でも暮らしていける。
彼の世話をする事が喜びになり、こんな風に二人で食事を囲むのも幸せの時であった。
俯きながら食事をとる美しい女の顔を横目で眺めながらガドリールは珍しく出された朝食を全てたいらげた。
「…少し眠る。ベッドの用意をしてくれ」
その言葉にベアトリーチェは思わず顔を上げた。
いつも仮眠程度しか取らない彼がベッドの用意を求めるのは数ヶ月に一度あるかないかだ。
「え…ええ。分かったわ…すぐに用意するわね」
急いで食器を片付け本と手記が山積みになった部屋の奥にある扉を開く。
そこにはめったに体を横たえない黒魔道師が時々使う大きなベッドが置かれていた。
久しぶりに開いた寝室は埃が舞い、窓から降り注ぐ光をきらきらと反射させている。
その埃を顔の前で払いながら大きな窓を開け放つと清清しい新鮮な空気が流れ込む。
普段使う事のない部屋のためかここは書斎と比べると本も何もなく、雪のような塵以外は驚くほど片付いていた。
ベアトリーチェはベッドの埃を払い、床や家具に積もった埃を丁寧に掃除すると洗い立ての真っ白なシーツをベッドに掛けた。
心は乙女のように高鳴っている。
ここに来て彼の身の回りを世話するようになって三年目で心の片隅に湧き上がる淡い恋心を実感し始めた。
母を幼くして亡くし、父と二人で生活していたがあの男は美しかった母の面影を彼女に見出すや否や、厳格な暮らしを強いて来た。
それは娘を思う父の心ではなく半ば他の男へ対しての邪な嫉妬の念にしか過ぎず、年を重ね少女から女へ成長していくに連れてその視線は異様なものとなって来た。
そして十五を迎えたあの年、彼女は父の人形である事を止めるために戦った。
その娘に答えたのが、肉親とは思えないほどの暴力・・・・・
彼女は傷だらけの身体で救いを求めた。人々に忌み嫌われる魔導師に・・・。
そして、ここに来てあの黒魔道師と暮らし、自分が頼られていると知った時生まれて始めての恋を知った。
普段は知識と力以外に無関心な彼だが、ときおり彼女の思いを見透かしたかのような行動に出る時がある。
まるで全てを悟っているかのように接して来る時が…
想いを募りに募らせ、苦しんでいた十八歳の時だった、必死に溢れる想いを押しとどめていた時に驚きの質問が飛んできた。
「私に何を求めている?」
魔方陣を開く手を止めてガドリールはそう問いかけてきた。
いきなりの事であっけに取られていると長身痩躯な彼は再び「どうしたい…」と聞いてきたのだ。
次の瞬間彼女は目の前の愛する存在の胸の中に飛び込んでいた。
溢れる想いを代弁するかのように広い背に腕を回し精一杯の力でしっかりと抱きつき秘めた思いを口に出し叫んでいた。
・・・・・あなたが好き・・・・・
黒魔道師はそのままで立ち尽くしていたがしばらくした後にしがみ付き、震える体を抱き返してくれていた。
それから二年間不思議な関係が続いている。
時に従事であり、時に助手であり、そして恋人でもある。
彼はどう思っているのかは知らないが今のままで十分に幸せだった。
真っ白なシーツの上でベアトリーチェは彼が来るのを待った。
あの無口で利己的な狂人が尽き果てぬ呪われし研究の手を止め、ベッドで休むと言う言葉はベアトリーチェにとっては至高の言葉…
しばらくすると寝室の扉が開き背の高い黒魔道師が入ってきた。
彼は何を言うこともなくベッドに腰を下ろすと汚れなき処女のように見つめる彼女の体を両腕で抱きしめた。
この世で最も至福の時が彼女に訪れる…
彼女が愛する黒魔道師の胸の中で思い続けるのは永遠の幸福ただ一つであった。