確信
この回には残酷な表現が含まれています。
「ガドリール…どっちが好き?」
両手に持つ赤と紫の口紅を彼に差し出してみた。
目の前の中空に足を組んで座る漆黒の人ならざるものは無数の瞳で妻の手を眺め、鋭い爪の先で淡い紫色の方を指差した。
言葉を失い、自我を失い、理性が崩壊しても彼は妻の言葉だけは理解しているようだった。
愛する女へ対しての自我だけはその心に健在で、人の言葉を解さず自己の意思も何も形にしないが質問して見るとその行動で答えてくる。
「こっちが似合うのね」
皮肉な事に今の彼の方が好みがはっきりしている。
血のように赤いドレスと藤色の紅やマニキュアが好きらしい。
ずっと彼の好みを知りたかったが前のガドリールは私がどんなに美しくあろうと努力してもあまり興味を示してはくれなかった。
彼が選んだ紅を小指で唇に塗りながら呟いていた。
「もっと早くこんな日がくればよかったのに」
日々研究に明け暮れていた人間であった時の彼は知識と力を得る為だけにその全てを捧げていた。
ベアトリーチェがどんなに積極的に接してもめったにこの身を愛してはくれなかった。
それなのに今は…
尽きることの無い黒き知識と神の如き力を手に入れ、人である全てを捨てた彼は妻から少しも離れる事はない。
常に彼女の傍らに居て、彼女の膝を枕に彼女の歌声で赤ん坊のように深い眠りにつく…
そして目が覚めるとその体を獣のように愛してくれた。
ずっと夢見ていた蜜月がもっと早くにきてくれていれば…そう思うと複雑な悲しみが込み上げる。
彼好みのドレスを身に纏い、彼好みの化粧を施し、砕けた心の片隅にある恐ろしく強い思いに応える事が今のベアトリーチェに出来る精一杯の愛だった。
ただ、一つだけ気になる事があった。
彼女が眠っている時の彼の行動だ。
ベアトリーチェが起きるといつもそこにガドリールの姿は無かった。
死して新たに命を与えられ、人ではない『もの』として生き返った時と昨晩、転寝から覚醒した時…
─────どうやら私が眠ってしまうと彼は何処かへ出掛けるらしい…。
その両方とも、帰って来たガドリールを見る限りあまり良くない事を、とてもおぞましい行為をしてくるのだと思う。この新しく生まれ変わった私の体は、帰って来た彼の首に開く巨大な口から胸にかけて真っ赤に濡らした液体が生き物の血液によるものだという事を確信していた。
そしてその行為が『食事』なのだと…
今のガドリールは…私が作った食事を全く受け付けない…
いや、厳密に言えば既に死んでいる肉は受け付けないのだ。
私が眠っているうちに彼が食べているものは凡そ見当が付く。
この城の下には生きた血肉が大量に犇く街がある。─────
「エテルニテは…どうなってしまっているのかしら」
五年間街には降りてない。それがガドリールとの約束だったからだ。
父の抹殺を依頼した次の朝、ガドリールは水晶でその光景を一度見せてくれた。
使い魔の餌となり肉片となった父の姿。
とても惨い光景だったが悲しいとは思わなかった。
それ所か妙に安心したのを覚えている。
私はもう父に弄ばれなくて済むんだ
…あの地獄のような夜を迎えなくていいんだ…
遂行された処刑現場を見て安堵する彼女に彼は言った。
「お前の中にも私と同じ感覚が宿っているのだな」…と
───── そうかもしれない、だけど罪も無いエテルニテの人たちが彼の餌食になっている事はとても辛い…─────
窓の外、この城の裾野に広がる緑の樹海。
その遥か先に夕日に照らされ真っ赤に染まった下界の街がある。
眺めるベアトリーチェの前に青白い右手が差し出された。
無数の瞳が愛する妻を見つめている。
ふとその手の平から靄のようなものが立ち上り、渦を巻きながら直径40センチはあろうと思われる大きな水晶玉が形成された。
中に渦巻く黒い闇が宇宙を思わせる。
「何?」
ガドリールはベアトリーチェの手をその水晶に誘った。
彼女の手が水晶に触れると同時に中の闇が膨張し鮮明な映像が映し出される。
夕日に染まるエテルニテ、所々にひび入った建物、そして人々
…今現在の街の姿だ。
絶大な力を手に入れたガドリールは妻の思い全てを把握していた。
だから今見たいと願った映像を彼女の為に映し出したのだ。
─────懐かしい…だけどどうしたのだろう…あんなに美しく整備された街中が所々崩壊している。まるで被災地だ。
そう言えば私が目覚めたあの日も城の家具や燭代が倒れていた…─────
「地震があったのね」
だがそれだけではない…人々の様子が何処かおかしい。
本来ならば日が暮れても街の復興作業にその時間を当てるはずだ。
だがまるで夜を恐れるかのように人々が半壊した建物の中に吸い込まれていく。
そして日が落ちようという頃には街から人の姿が消えていた。
建物の窓に掛けられる黒い布。
街を歩くのは剣を携え重装備をした警団の男たちだけだった。
─────夜を恐れている?・・・何かを…
「ガドリール…」
ベアトリーチェのすぐ横では夫が見つめている。
複数の赤い瞳で…一体街では何人が彼の餌食となったのだろう…
「私から…私から離れないでよ…私が眠っていてもずっとここに居てよ!」
水晶を持つ彼の手に触れた瞬間彼女の意識が凄まじい力で引き寄せられた。
脳裏一杯に走馬灯のように血なまぐさい光景が広がる。
男が怯えていた…
後ろでは男の妻と思われる女の顔が引きつっている…
逃げようとした男を捕らえ、その頭に牙をつき立てた。
飛び散る血飛沫に喉をつたう生暖かい液体。
硬い骨を砕き中の臓物を啜り男の体は肉片を残して消えた。
まだだ…まだ足りない…。
この餌の伴侶の女が別の男に引かれ逃げてゆく。
逃がさない…
女の体ならばもっと柔らかくてもっと美味いはずだ。
引かれた女の手を一瞬で引き千切り柔らかな肉体に齧り付く
…やはり女は美味い…無駄な筋肉も付いていない脂肪の塊り
…だが、まだ足りない
…喉が癒えない。
今度はあの男だ。
餌を奪おうとしたあの人間、どこに隠れようともすぐに分かる…
何とも愚かな生き物…
三人目の餌を喰らっても喉の渇きが癒える事はない。
そして…子供が居た。
小さいが何とも美味そうだ。
手を伸ばす…
「ダメェ!」
叫んでいた。
全身から厭な汗が吹き出て涙があふれ出る。
思わず彼に触れている手を離し、現実に引き戻された。
恐ろしい記憶…
この目の前の彼の記憶がまるで自分が体験したかのように生々しく残っている。
肉を引き裂き骨を噛み砕き生暖かく鉄臭い液体が喉をつたう感覚まで
…胸から強烈な吐き気が押し上げられ床に嘔吐していた。
「ガドリール…あなた…」
青白い手が肩に触れた瞬間私はそれを振り払っていた。
肩に触れられた一瞬だがもう一人の犠牲者の映像が駆け巡ったからだ。
四人目の人間は顔中に深い皺が刻まれた老人だった。
幼い頃にとても良くしてくれた教皇様だ。
その年老いた老人を真っ二つに引き裂き臓物を引きずり出す映像…
《あ゛………あ゛あ゛…》
彼の肩が震えていた。右手の巨大な水晶が音を立てて爆ぜ靄となり彼の体に吸い込まれていく。
《あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!!》
小さな呻きが怒号となって耳を劈いた。
部屋中のありとあらゆるガラス製品が一気に粉砕され、巨大な暖炉に蒼い業火が噴出する。愛する妻に拒絶され、憤り、混乱しているみたいだ。
それなのにガドリールは尚も妻に牙を向けようとはしない。
彼がその怒りを向けたのは自分自身の肉体だった。
癇癪を起こす子供のように暴れ、その腕に喰らい付いた。
どす黒い赤紫の体液がその腕から吹き出し厭な音を立て肉が引き千切られる。
「ガドリール?!…やめてガドリール!」
─────私が応えなくてはいけない心を私が拒絶してしまうなんて…
止めに入っても見えない力で弾かれてしまう。
どうしよう…
彼の腕の肉が骨から剥がされて行く。
あんなに苦しんだ大切な男をまた苦しめてしまう…
やめて…
もう傷付かないで…
ああいう風にしてしまったのは私なのに…
ガドリール…やめて…
ダメよ…─────
「やめてぇ!!!!!!!」
叫んだと同時に風が巻き起こった。
その風は扉という扉を押し開け暖炉に灯る怒りの業火をも吹き消す。
そして彼の動きが止まった。
しばらくの静寂の中で彼女は気付いた。
自分を中心に外側に凪ぎ倒れる家具…
ベッドの天蓋に掛けられている薄いカーテンが風に揺れている。
ベアトリーチェが起こした風だった。
暖炉の中で燻る炎は勢いを止め、暖かく部屋を照らしている。
─────私はもう人ではないのだ。彼の血を浴び、彼の血によって引き戻された魂。
私は…魔女だ─────