契り
気付いた時、わけが分からず背後の怪物を押しのけ階段を駆け下りていた。
迷子になりそうなほど広い城内を必死で走り、西の果ての塔にある物置部屋に逃げ込み、震える手で厳重に鍵をしめ、使わなくなり埃を被ったいくつもの家具の隙間に座り込み息を潜める。
─────あれは何? この城にいたどんな異形よりも禍禍しく巨大だった。
人の形はしていた。
生き物の形を留めない異形たちにも慣れていたのに、私の後ろに居た『あれ』だけは別格だ。
世の中の全ての憎しみや恨みを一身に受け、覆い隠す事無く漂わせている化け物…
いや、化け物という言葉でもまるで足りない。─────
《オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛!!》
突如城内に不気味な叫びが轟いた。
思わず短い悲鳴をあげ耳を塞ぎ、怯える子供のように体を丸める。
『あれ』の声だ。
歯がカチカチと音を立て治まらぬ恐怖と戦い、必死で耐え続けるしかなかった。
どれ程の時間が経っただろう。
城内が再び水をうったかのように静まり返っている。
時間が経ち、考える余裕が出来てきた。
今は何の気配もしない…
禁断の魔法で蘇った体は驚くほど洗練されている。
蜘蛛が糸を紡ぐ音でさえ聞える。
瞳だけではなく自分の体のすべてがおかしい事には既に気付いていた。
現に今も自信を持ってこの城には何も居ないと確信できる。
家具の陰からそっと覗いた時、手のひらにチクリとした痛みが走った。
見てみると手に傷がある。
どうやら朽ちた家具の捲れた木片に手を引っ掛けてしまったらしい。
深い傷ではないが赤い線が掌にはしっている。
よかった…血は赤い…
ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、彼女の顔が恐怖に引きつった。
掌の傷がスゥ…とたちまち治癒してしまったのだ。
急いで血筋を拭って見ると裂かれた傷が何処にも無い。
…そういえば…
手に持ったガドリールの日記を再びペラペラと捲っていく。
『ベアトリーチェも人ではなくなるが許してくれるだろう…』
その一文が重く圧し掛かる。
人ではない? それでは私は一体何なの…何になってしまったの?
もう自分では何も分からない。
呆然とうな垂れる彼女の頭に再びあの警告が湧き上がった。
今まで何の気配もしなかったはずなのに突如それが現れたのだ。
おぞましい気配…しかも、かなり近い…
「!!!!!」
────── 床だ!!!
しゃがみ込んでいる床にいつの間にか自分を中心に漆黒の大きな水溜りのような影が出来ている。
逃げる間もなく影が盛り上がり体に纏わり付き、全身をみるみる拘束していく。
腰に纏わり付く影が剥がれ落ちるとそこから白い腕が姿を現した。
もがく女の体が宙に浮き、黒い水が徐々に漆黒のベールを形成する。
気付いた時ベアトリーチェはあの三メートルもの魔神の両腕に腰を巻かれ、抱き上げられた状態になっていた。
氷のような冷たい肌、悲鳴を上げながら逃れようとするが全く歯が立たない。
悲鳴を上げ続ける花嫁姿の女を無数の瞳が見下ろしている。
怯えている…
ガドリールの砕けた心の欠片がそう叫んでいた。
悲鳴を上げ、泣き叫ぶベアトリーチェを抱えたまま彼は彼女を部屋に連れ、ベッドの上にその体を解き放った。
逃げる様にベッドの片隅に身を寄せ、シーツを堅く握り締めながらベアトリーチェはその巨大な化け物に問うた。
「…私を食べたい?」
だが…ふと何かに気付く
…怪物が被る長いベールにローブ…
「!!」
知っている。あのビロードで出来た漆黒のローブにベール
…私が彼にあげたものだ。
黒魔道国家、デザスポワールの風俗書に書いてあった『彼』の国の花婿衣装。敵わぬ夢を見てエテルニテの人に仕立ててもらった。
彼は黒がよく似合うから、とても素敵だろうな…そう思ってプレゼントした。
「ガドリール?」
左手をベアトリーチェの前に差し出すこの『もの』の薬指には金のリングが光り輝いていた。
あの日に彼女が手渡せなかったおそろいの指輪。
日記の言葉を思い出す。
「あなたなの?」
あれ程までに押し寄せていた恐怖が一気に引いて行く。
─────彼だ…言葉も話さずに何の反応も示さないが、私の愛するヒトだ。
私に花嫁衣裳を着せてくれ、永遠の愛を誓ってくれた大切なヒトだ。
私のためにこんなおぞましい姿になってしまった…。
深く抉られた首の口を血で汚し、不気味な呻きを漏らして…─────
「ガドリール…」
這うように一歩一歩近付き彼の様子を伺いゆっくりゆっくりと手を伸ばしてそのローブに触れようとするが、その手がローブに届く前に『それ』は唸りを上げて拒んだ。
驚いてベアトリーチェも手を引いてしまう。
「私を食べたいのでしょう?」
首から滴り落ちる血のような唾液。
目の前の『もの』がガドリールだと気付くとベアトリーチェは瞳を閉じた。
「いいのよ。あなたなら私はこの肉を喜んで差し出す」
《…………………》
彼ならば構わない。
心底そう思っている。
彼が全てを捨てて私を蘇らせてくれたのならば私はその期待に応えるだけだ。
私を忘れてしまっているのなら彼の血肉になろう…
「あの手記に残された言葉通り私は永遠にあなたの物になる。どんな形でも…」
あなたとの永遠の幸福を私も夢見ていた。
行き着く先はあなたと一緒、そう思っていた。
その想いは今も変わらない。
瞳を閉じ、彼の息を感じる…沈み込むベッド、彼が私のすぐ近くに来た。
まだ人であった頃と同じ視線が私を間近で見回しているのが分かる。
そして頬に氷のような手が触れた。
何処から喰らうか考えているのだろうか、ナイフのように鋭い爪が髪を掻きあげ、冷たい吐息が首筋を舐める。
だが…彼はいつまでたってもこの肉体に牙を立てようとはしなかった。
首、腕、胸、身体を執拗に触れてはくるがそれだけだ。
しばらくしてその冷たい手の感覚が消えた。
何だろう…私を見つめている…
目を開こうとした瞬間だった。
身体がすごい力で押され彼女はベッドに仰向けに倒れ込んだ。
思わず目を開き、息を呑む。
彼女の上に変わり果てた黒魔導師が居た。
覆いかぶさるように妻を見つめる無数の瞳…彼の首が呻き以外の何かを話した。
《リ…チェ…ベアト…リ…チェ…》
「ガドリー…」
言葉が終わらないうちに恐ろしく変貌を遂げた彼が獣のようにベアトリーチェの身体にしがみつく。
痛いほどに掻き抱かれその爪で背中に血が滲むが傷が付くたびに彼女の体も血筋を残して治癒していく。
「ガドリール」
─────これは生きた血肉への欲望でもない私はまだ彼の中で私として残っている。
こんなに変わり果ててしまっても彼にとって私は花嫁であり妻なんだ。─────
嬉しくもあり悲しくもある何とも言えない思いがふつふつと湧き上がる。
赤い瞳一杯に涙を浮かべてベアトリーチェはガドリールの背に腕を回した。
彼が望んでいるのなら……………
その上下する柔らかい胸で変わり果てた夫の頭を抱きしめる。
漆黒のベールの隙間から黒い長髪が垂れる。全て変わってしまったが、この髪だけは人であった時のままだった。
血の匂いも気にならない。
「ごめんなさい…ごめんなさいガドリール…」
こんな事になるなら隠さずに全てを話すべきだった。
しかし、もう後戻りは出来ない。
ベッドの上で化け物と化した夫をきつく抱き締めながら、ベアトリーチェは何度も謝り続けていた。