世界が終わる前に、勇者と朝食を
世界が終わる日の朝、私は魔王と一緒にパンを食べていた。
「塩を取ってくれ」
「そこにあるだろ」
「お前の方が近い」
「魔王に塩を取らせる勇者なんて初めて見たぞ」
「私も魔王と朝食を食べるのは初めてだよ」
魔王ヴァルグはため息をつき、塩の入った小さな瓶をこちらへ滑らせた。
「ほら」
「ありがとう」
「どういたしまして」
世界が終わるまで、あと十三時間。
それなのに、私たちはずいぶん普通の朝を過ごしていた。
話は三日前にさかのぼる。
私は勇者として魔王城へ乗り込んだ。
名前はレオ。
二十五歳。
十五歳の時に聖剣に選ばれてから、十年間ずっと魔王軍と戦ってきた。
仲間は三人。
魔法使いのリナ。
戦士のバルド。
回復役のエル。
私たちは何度も死にかけながら魔王城までたどり着いた。
ここまで来れば終わると思っていた。
魔王を倒せば、世界は救われる。
みんな、そう言っていた。
私もそう信じていた。
「魔王ヴァルグ!」
玉座の間で、私は聖剣を構えた。
黒い髪。
二本の角。
赤い目。
何度も絵で見た魔王が、玉座に座っていた。
「来たか、勇者」
「今日で終わりだ」
「ああ」
魔王は立ち上がった。
「終わらせよう」
戦いは長かった。
剣と剣がぶつかり、魔法が飛び、城の壁が何度も壊れた。
仲間たちは魔王の部下を押さえていた。
最後は私とヴァルグの一対一になった。
そして。
私の聖剣が、魔王の胸を貫いた。
「……終わった」
私はそう思った。
ヴァルグが膝をつく。
赤い血が床へ落ちる。
「これで」
私は息を整えた。
「世界は救われる」
魔王は私を見上げた。
そして。
「残念だったな」
そう言った。
「……何?」
「俺を倒しても、もう遅い」
私は剣を抜いた。
ヴァルグが倒れる。
「どういう意味だ!」
「空を見ろ」
魔王城の天井が崩れていた。
そこから空が見える。
黒かった。
雲ではない。
空そのものに、大きなひびのようなものが走っている。
「何だ、あれ」
「世界の終わりだ」
「ふざけるな」
「ふざけていない」
ヴァルグは苦しそうに息をしながら続けた。
「この世界は、ずっと前から壊れ始めていた」
「そんな話、聞いてない」
「人間の王も知らない。魔族の多くも知らん」
「じゃあ、どうしてお前は知ってる」
「魔王だからだ」
「説明になってない!」
「魔王は世界の魔力の流れを管理する役目でもある」
初めて聞く話だった。
「百年前から、世界を流れる魔力が少しずつ乱れていた。このままなら、いずれ世界そのものが崩れる」
「じゃあ、お前は何をしてたんだ」
「止めようとしていた」
「戦争しながら?」
「戦争を始めたのは俺じゃない」
私は言葉を失った。
「人間と魔族が争い始めたのは、もっと昔だ。土地と食料を奪い合い、互いに殺し合った。その間にも世界は壊れ続けた」
「でも、お前は魔王だろ!」
「そうだ」
「人間を何人殺した!」
「多く殺した」
「だったら――」
「お前も魔族を殺しただろう」
何も言えなかった。
その通りだった。
「どちらが正しいかという話をしているんじゃない」
ヴァルグは立ち上がろうとした。
でも力が入らず、また床へ座り込む。
「世界が終わる。それだけだ」
「いつ」
「三日後」
「……三日?」
「ああ」
私は空を見た。
ひびは、ゆっくり広がっていた。
そこからは大騒ぎだった。
人間側にも魔族側にも話を伝えた。
最初は誰も信じなかった。
でも空のひびは、誰にでも見えるほど大きくなった。
二日目には地震が起きた。
三日目の朝には、海の水位が急に下がった。
誰もがようやく理解した。
本当に世界が終わる。
王たちは会議を始めた。
魔法使いたちは古い本を調べた。
神官たちは祈った。
私もできることは全部やった。
でも、方法は見つからなかった。
ヴァルグは死ななかった。
私が刺した傷は深かったが、魔王の生命力は人間より強かった。
回復役のエルが治療した。
「敵を治すの?」
最初、エルはそう聞いた。
「世界のことを一番知ってるのがこいつだから」
私が答えると、ヴァルグは笑った。
「ひどい理由だ」
「死にたいのか」
「まだ死にたくはない」
「なら黙って治されろ」
それから三日。
私と魔王は、世界を救う方法を探した。
見つからなかった。
そして、世界が終わる日の朝。
誰もが諦め始めていた。
「もう、できることはない」
王国一の魔法使いがそう言った。
「世界を包む魔力の流れが完全に壊れています。修復するには、この世界全体と同じほどの魔力が必要です」
「そんなもの、どこにある」
「ありません」
「女神は?」
「応答がありません」
「聖剣は?」
「世界を救えるほどの力はありません」
会議室が静かになる。
「あと何時間だ」
私が聞いた。
「日が沈むころです」
十三時間。
それだけだった。
みんな、それぞれ大切な人のところへ帰ることになった。
家族と過ごす者。
恋人のところへ行く者。
最後まで祈る者。
酒を飲む者。
私は行く場所がなかった。
両親は十年前に亡くなっている。
仲間たちはそれぞれ家族のところへ帰った。
「レオも来る?」
エルはそう言ってくれた。
でも断った。
最後の日くらい、家族だけで過ごした方がいい。
気づけば、私は魔王城にいた。
「なんで来た」
ヴァルグは食堂にいた。
「お前こそ何してる」
「朝食だ」
「見ればわかる」
「なら聞くな」
大きな食堂に、魔王一人。
机の上にはパンと卵とスープが並んでいた。
「部下は?」
「家族のところへ帰した」
「お前は?」
「家族はいない」
「私も」
少し沈黙。
「食うか?」
ヴァルグが聞いた。
「いいのか」
「世界最後の朝食だ。一人で食べてもつまらん」
私は向かいの席に座った。
こうして、勇者と魔王の最後の朝食が始まった。
パンは少し固かった。
「魔王城なのに、普通のパンだな」
「魔王が毎日豪華なものを食ってると思うな」
「食べてると思ってた」
「勇者は?」
「干し肉」
「かわいそうだな」
「旅だから仕方ない」
「俺よりひどいじゃないか」
私は笑った。
「お前、笑うんだな」
ヴァルグが言う。
「失礼だな」
「勇者はいつも真面目な顔をしてるものだと思ってた」
「魔王もずっと怖い顔してると思ってた」
「仕事だからな」
「こっちも」
二人でスープを飲む。
意外とうまかった。
「世界が終わるなら、何したかった?」
ヴァルグが聞いた。
「何って?」
「まだやってないこと」
私は少し考えた。
「海を見たかった」
「見たことないのか?」
「ない」
「勇者のくせに?」
「勇者と海は関係ないだろ」
「世界中を旅したんじゃないのか」
「海のある場所へ行く前に戦争が激しくなった」
「そうか」
「お前は?」
ヴァルグが卵を切る。
「畑」
「畑?」
「野菜を作ってみたかった」
私は思わず笑った。
「魔王が?」
「何がおかしい」
「いや、似合わない」
「勇者が海を見るのと同じだろ」
「違うだろ」
「同じだ」
ヴァルグは少し不満そうだった。
「昔、城の裏に小さな畑を作ったことがある」
「本当に?」
「部下に見つかった」
「どうなった」
「『魔王様が土いじりなどなさらないでください』と言われて潰された」
「かわいそう」
「お前に言われたくない」
また笑った。
世界が終わる日に、こんなくだらない話をするとは思わなかった。
「なあ」
私は言った。
「何だ」
「世界って、何なんだろうな」
「急に大きい話をするな」
「あと十三時間だから」
「それもそうか」
私は窓の外を見る。
空のひびは、昨日よりさらに広がっている。
「ずっと、世界を救えって言われてきた」
「勇者だからな」
「でも私は、世界って国とか人とか町のことだと思ってた」
「違うのか」
「わからない」
「お前、さっきからわからないばかりだな」
「世界が終わるんだから許してくれ」
ヴァルグは笑った。
「俺は世界を守る役目だった」
「魔王なのに?」
「魔王という呼び名は人間側がつけたものだ」
「じゃあ本当は?」
「魔力の管理者」
「地味だな」
「お前に言われたくない」
「勇者はわかりやすいだろ」
「剣で殴るだけだ」
「おい」
ヴァルグは笑ったあと、少し真面目な顔になった。
「魔力というのはな、世界中を流れている」
「知ってる」
「人間にも、魔族にも、動物にも、植物にも」
「うん」
「本来は巡るものだ」
「巡る?」
「使われた魔力は世界へ戻り、また別の命へ入る。水が雨になって川へ流れ、海へ戻るようなものだ」
「それが壊れた?」
「ああ」
「どうして」
「長い戦争のせいもある」
「魔法を使いすぎたから?」
「それだけではない」
ヴァルグはパンをちぎった。
「死者が多すぎた」
私は動きを止めた。
「死ぬと魔力は世界へ戻るんじゃないのか」
「本来はな」
「本来は?」
「憎しみや恐怖が強いまま死ぬと、魔力がうまく戻らないことがある」
「……」
「それが何百年も積み重なった」
私はスープを見る。
「じゃあ、戦争が世界を壊した?」
「簡単に言えばそうだ」
「だったら戦争をやめればよかった」
「簡単に言うな」
「今だから言える」
「そうだな」
しばらく黙った。
「戻らない魔力は、どこにある」
私は何気なく聞いた。
ヴァルグが止まった。
「何?」
「死者の魔力。世界に戻ってないなら、どこかに残ってるんだろ?」
「……残っている」
「どこ」
「戦場だ」
ヴァルグの顔が変わった。
「古い戦場や、滅びた町。強い感情と一緒に地面へ残っている」
「どれくらい?」
「相当な量だ」
「世界を直せるくらい?」
「無理だ」
即答だった。
「どうして」
「動かせない」
「誰も?」
「普通の魔法使いには無理だ。魔王の力でも全部は扱えない」
「じゃあ私なら?」
「お前?」
「聖剣は魔力を集められる」
「戦闘用だろ」
「魔王を倒す時、周りの魔力を集めた」
ヴァルグが私を見る。
「どれくらい」
「城全体」
「……」
「お前の魔力も吸ってた」
「だから急に力が抜けたのか」
「たぶん」
「先に言え」
「今気づいた」
「勇者、本当に大丈夫か」
「世界が終わる日に心配されても困る」
ヴァルグは立ち上がった。
「聖剣を見せろ」
聖剣は食堂の入口に置いてあった。
世界が終わるので、誰も盗まないと思って適当に立てかけていた。
「雑に扱うな」
「もう使う予定なかったから」
「貸せ」
ヴァルグが剣に触れる。
目を閉じる。
「……なるほど」
「何かわかった?」
「これは魔力を集めて、お前の力へ変える仕組みだ」
「だから強くなれたのか」
「お前、本当に何も知らずに使ってたのか?」
「王様に『これで魔王を倒せ』って渡された」
「人間は怖いな」
「魔王に言われたくない」
ヴァルグは剣を机に置いた。
「仕組みを逆にすれば」
「逆?」
「集めた魔力を、お前に入れず世界へ流せるかもしれない」
「それなら」
「まだ足りない」
「どうして」
「世界中の戦場から魔力を集める必要がある。聖剣一つでは届かない」
私は考えた。
「魔王城は?」
「何?」
「お前、世界中の魔力を管理してたんだろ」
「ああ」
「なら、つなげられるんじゃないのか」
ヴァルグが黙った。
「魔王城の魔法陣と聖剣をつなぐ」
「……」
「世界中に残った魔力を集めて、聖剣から世界へ戻す」
「理屈では」
「できる?」
「わからん」
「またそれか」
「お前に言われたくない!」
二人とも声が大きくなった。
そして同時に笑った。
朝食は途中で終わった。
残り十二時間。
私たちは魔王城の地下へ走った。
「世界が終わる日に走りたくない!」
「文句言うな!」
「朝飯もっと食べればよかった!」
「戻るか?」
「戻らない!」
地下には巨大な魔法陣があった。
魔王が世界の魔力を確認するために使っていたものらしい。
「中央に聖剣を刺せ!」
「ここ?」
「そこ!」
剣を床へ突き立てる。
魔法陣が光った。
「どう?」
「つながってる」
「世界中?」
「一部だけだ」
「全部にできない?」
「簡単に言うな!」
ヴァルグが魔法陣へ両手をつく。
魔力が広がる。
私は聖剣を握った。
「レオ!」
「何!」
「これ、成功しても俺たち死ぬかもしれん!」
「今さら!?」
「言っておこうと思って!」
「世界はどっちにしろ今日終わるだろ!」
「それもそうだ!」
「やるぞ!」
「ああ!」
光が城全体を包んだ。
世界中の声が聞こえた気がした。
泣き声。
怒鳴り声。
笑い声。
遠い昔に死んだ人たちの感情。
人間。
魔族。
どちらでもない者たち。
何百年も行き場を失っていた魔力が、少しずつ聖剣へ集まってくる。
「多すぎる!」
腕が焼けるように痛い。
「離すな!」
「わかってる!」
「俺も支える!」
「魔王が勇者を応援するなよ!」
「今さら敵味方を気にしてる場合か!」
「それもそうだ!」
聖剣が白く光った。
光はどんどん強くなる。
「ヴァルグ!」
「何だ!」
「畑!」
「は?」
「世界が助かったら畑作れ!」
「急に何だ!」
「やりたかったんだろ!」
「お前は海を見ろ!」
「一緒に行くか!」
「畑はどうする!」
「帰ってから!」
「勝手に予定を決めるな!」
笑った。
死ぬかもしれないのに。
なぜか笑えた。
「今だ!」
ヴァルグが叫ぶ。
私は聖剣を持ち上げた。
「戻れ!」
何に向かって言ったのか、自分でもわからない。
魔力に。
世界に。
死んだ人たちに。
全部に向かって叫んだ。
「全部、世界へ戻れ!」
聖剣から光が放たれた。
天井を突き抜ける。
空へ。
大地へ。
海へ。
世界中へ広がっていった。
目が覚めた。
「……生きてる?」
天井が見える。
「残念ながらな」
隣から声がした。
ヴァルグが床に倒れていた。
「世界は?」
「知らん」
「見に行こう」
「動けるか?」
「無理」
「俺も」
二人で床に寝たまま笑った。
一時間後。
ようやく外へ出た。
空を見る。
青かった。
ひびがない。
「……直った」
「ああ」
「世界、終わらなかったな」
「終わらなかった」
その場に座り込んだ。
何も言えなかった。
泣くほどでもないと思っていたのに、気づいたら涙が出ていた。
ヴァルグも目元をこすっていた。
「泣いてる?」
「煙が目に入った」
「外なのに?」
「うるさい」
世界は救われた。
でも、すぐ平和になったわけではない。
人間と魔族の戦争は長く続いていた。
簡単に仲良くなんてできない。
それでも、世界が終わりかけたことで、少しだけ考え方が変わった。
人間側と魔族側は停戦した。
話し合いが始まった。
私は勇者を辞めた。
ヴァルグも魔王の仕事を少し減らした。
「魔王って辞められないの?」
「管理の仕事がある」
「大変だな」
「誰のせいだと思ってる」
「戦争のせい」
「逃げたな」
「事実だろ」
半年後。
私は海を見た。
「でかいな」
「見ればわかる」
「しょっぱい」
「飲むな」
「飲んでない」
隣にはヴァルグがいた。
海の近くにある小さな村まで、一緒に来た。
「次はお前の番だな」
「何が」
「畑」
「覚えていたのか」
「約束しただろ」
「いつ」
「世界が終わりそうな時」
「あれを約束に数えるのか」
「数える」
ヴァルグはため息をついた。
でも、少し笑っていた。
一年後。
魔王城の裏には、小さな畑ができた。
「何植えた?」
「トマト」
「魔王がトマト?」
「何がおかしい」
「似合わない」
「勇者が毎月見に来る方がおかしい」
「育ってるか気になる」
「自分で畑を作れ」
「面倒」
「帰れ」
二人で笑った。
世界が終わる日の朝。
勇者と魔王は一緒にパンを食べた。
あの時は、それが最後の食事になると思っていた。
でも実際には違った。
あれから何度も一緒に食事をした。
パンも。
魚も。
畑で採れた野菜も。
世界を救った方法について聞かれるたび、私は説明に困る。
聖剣がどうとか。
魔力の流れがどうとか。
難しいことはいろいろあった。
でも、きっかけは本当にくだらない会話だった。
「戻らない魔力は、どこにある?」
ただ、それだけ。
だから私はいつもこう答える。
世界が終わる前に、勇者と魔王が朝食を食べた。
そして、話をした。
たぶん世界を救ったのは、聖剣よりも、その時間だったのだと思う。




