具材マシマシ大盛りパスタ
滝川は泥酔者として警察署に収監され、弁護士は丸田屋から提供された画像と離婚時の暴行未遂等書類を揃えて接近禁止命令の申請手続きを行った。
取り調べの結果、彼は夫婦喧嘩の果てに失踪していたと判明した。
夫婦になった途端互いの粗が見えてきて、食の好みが合わず、生活習慣の違いで揉めた。
更に妻が現在も不特定多数と交際し、自分はATM要員だと言われ、滝川は発作的に家を飛び出して万衣子を執拗に探した。
不妊に悩む万衣子を放置した事も、不倫に溺れ暴言を吐いて追い詰めた事も全て忘れ、学生の頃から好きだったのに、再会して結婚出来てとても幸せだったのにと、ずっと嘆きながら。
万衣子を見つけたのは偶然で、通りかかった洋菓子店を何となく眺めると、まさに本人がショーケースの前に立っていて、密かに後をつけるが米屋で見失ってしまった。
しかし祖母から聞き出した団地が目の前で、滝川は広い敷地内を探し回り、見つけられない焦りと疲労から、憂さ晴らしに大量に酒を買い込んで近くの公園で飲んだ。
迷惑行為の理由は梅本の推察通りで、『一緒に食事をしたかっただけだ』とうつむいた。
昔のように楽しく話をして。万衣子のごはんが食べたい。そして。元に戻りたかった。
小さなケーキ箱をまるで宝物を守るように、慎重に歩き続ける万衣子はとても可愛かった。
可愛くて。愛しくて。
そんな万衣子の姿をいつまでも見ていたいと思った。
浮気男の懺悔ととるか。それともストーカーの背筋も凍る告白ととるか。
人それぞれで見方は違うだろう。
滝川は妻の元へ戻された。
「絶対足りないと思ったのに、おかしいなあ」
「こうなると思ってた」
「ええ…。なら止めてよ~」
目の前には大盛りパスタが鎮座している。
イワシの缶詰、玉ねぎ、人参、ナス、キャベツ、ピーマン、ミニトマト、冷凍コーン、シメジ……。
万衣子が次々と加えた具材とパスタが一対一の割合になってしまった感があるが、粉チーズを振りかけて一緒に手を合わせた。
「いただきます」
今日も二人は一緒に御飯を食べている。
あの深夜の騒動は酔っ払いが団地に迷い込んだだけと思われ、『まいこ』が誰かなど、コミュニティの繋がりが薄れてきた今となっては噂にもならないようだ。
万衣子はいつも通りの生活をしている。
「両親の離婚の原因は、父の度重なるモラハラと暴力だった」
浦田幸正の記憶を、梅本は静かに語る。
駆け落ち同然で結婚した両親の仲は、幸正の物心つく頃には歪な形となっていた。
機嫌の良い時は愛情いっぱいで、何かの拍子に豹変する。暴れて物を壊しても稼ぎが良いのですぐ買い替え、また破壊の繰り返し。
外面が良い父は裏で母を束縛し、母子の毎日は首に紐を付けられたペット以下の扱いだった。
真冬のある晩。泥酔した父がタクシーの運転手と喧嘩して途中で下ろされ、深夜の団地を大声で騒ぎながら千鳥足で歩いた。
駆け付けた母と幸正が鬱憤晴らしの酷い暴力を受けるなか、家々の電気が次々と点いて明るくなっていくのに、誰も助けてはくれなかった。
やがて警察が現れたが、明らかに怪我をしている母子から目をそらし、面倒くさそうに記録を取り説教するだけで帰った。
ようやく母と幸正は保護施設へ駆け込んだが、気が休まらない日々が続く。
「連れ戻されたら、もっと酷い目に遭うから」
怯える母は夜中に何度も悪夢を見ては悲鳴を上げる。
母の心身が限界に来ているのは明らかで。
夜が来るのが恐ろしくて仕方がない。
「大きくなるにつれ容姿が父に似てきて」
慰めたくても、触れれば母がフラッシュバックを起こすかもしれないと思うと怖くて、離れて見守るしかなかった。
まだ子供で、男である幸正は無力だった。
知らせを聞いた祖父母が迎えに来てくれて、ようやく。二人の悪夢は終わった。
「あの餡蜜はね。祝い事の食卓を父がわざと壊して出ていった後とかに、母とよく作って食べた。何度も、何度もね。でも嫌いになれなくて。むしろ好物だな。美味しいし」
辛いこと悲しいこと悔しいこと。
幸正は包み隠さず万衣子に話してくれた。
「ちいくん」
万衣子はゆっくりと手を伸ばし、テーブルの上に乗ったままの幸正の指の背に、少しだけ触れた。
「私はね。ちいくんが傍にいて良かったよ」
そろりそろりと指の先で淡く撫でる。
まるで警戒心の強い猫に初めて触るように。
逃げないかな。
怒らないかな。
仲良くなりたいな。
そう思いながら注意深く手を差し出すあの瞬間と、今は似ている。
「神様が私の所へちいくんを連れて来てくれたと思ってる」
幸正は万衣子の好きにさせてくれた。
「……どこの神様が?」
「うん。どこかの神さまが」
くしゃりと顔を歪めて幸正は微かに笑う。
「ちいくんのお母さんもそう。あなたがいてくれたから、いま幸せなんだよ」
「幸せなのかな」
「え? お母さん、不幸せなの?」
「……そうだな。不幸せではないかな、多分」
母は現在実家で茶道教室を開いている。
逆に父は数年前にリゾート地で酒を飲み海に入って。あっけない最期だった。
幸正はやるせない思いが熾火のように残っている事を、誰にも言えないままでいた。
「ちいくん、ありがとう」
万衣子が幸正の手を両手でしっかりと握る。
すっかり頼もしくなった、働き者の手。
「私を助けてくれてありがとう。一緒にご飯を食べてくれて、いつも美味しいコーヒーを淹れてくれて。あ、快適な寝床もね。めちゃくちゃぐっすり眠れたよ」
ぎゅっと、ぎゅっと、手のひらで確かめる。
大きくなった梅本幸正は、ちいくんで。
可愛くて優しい、小さなちいくんのままだ。
「ふふ。つかまえた」
幸正の手が温まるように、更に力を込めた。
手のひらがどくんどくんと脈打って、それが自分のものなのか彼のものなのか分からない。
「私は煙草デビューを挫折した日下万衣子です。助けてくれてありがとう、恩返しに来ました、恩返しさせろ……って、何をすれば良いのかな。恩返しってなんだろう」
ふと、首をかしげて考える。
「はは……。恩返しの押し売りですか、先輩」
「うん。義理堅いの、私」
さあさあ、と万衣子はテーブル越しにせき立てていると、不意に幸正が顔を上げた。
「なら」
唇に暖かくて柔らかいものが触れる。
「え」
「キスからって、どうですか」
「どうって、いましたじゃない」
全身、勢いよく血が巡る。顔から火が出るってこんな時に使う表現だっただろうか。
「そういやそうですね。つい」
「ついって……、ついって……」
息のかかる距離でしれっと悪びれない幸正に、万衣子は立ち上がって地団駄を踏んだ。
「あは。久々に見たな万衣子先輩の地団駄」
悪戯に成功した子どものような、軽くいなす経験豊かな大人の男のような。何にせよこの余裕っぷりが憎らしい。
ついでに、こんな時に何故か胸をきゅんとさせている乙女な己もめちゃくちゃ憎い。
「あなた、だれ」
こんなの知らない。聞いてない。どうしていきなりキスなのだ。いきなり何もかもすっ飛ばし跳び越えてきた幸正にびっくりだ。
「もうもう、なんなのよ」
大人モードの空気から逃げ出したい。
「ちいくん、幸正君、梅本君……何でも良いよ。俺を傍に置いてくれるかな、万衣子さん」
座ったままの幸正に難なく手を取られ、上目遣いに見つめられて、万衣子は降参する。
「わかった。いや違う、そうじゃなくて。ちょっと待って。恩返し、もうちょっとゆっくり待って」
「わかりました。ではゆっくりで」
「うん、ゆっくりね。ゆっくりだからね?」
だけど笑うばかりで手を放してくれない。
ずっとずっとそのままで。
掴まえたつもりが、掴まってしまった。
恥ずかしいような、嬉しいような。
むずがゆくて、逃げたいけれど逃げたくない。
「……あれ? これって」
万衣子は、答えを選び取る。




