モンブラン、杏ジャム、野菜たっぷり雑炊、クリームあんみつ
二人がかりで諭された万衣子は、それから数週間は指示された通りに注意深く行動した。
近所で買い物をしない、通勤電車は同じ車両に乗らない。それから、それから……。
しかし。離婚と前後して転職し連絡先も変えたから、簡単には家を突き止められない筈と思い始めると少しずつ緊張も緩んでいく。
そして、頑張った自分に少しだけご褒美をしても良いのではないかと思い、仕事帰りに洋菓子屋へ寄りモンブランを一つ買った。
それは栗の旨みがぎゅっと詰まっていて、まるで宝石みたいに完璧な姿をしている。
小さな箱の中に、一つだけの宝物。
自然と笑みが浮かんだ。
そろりそろりとケーキの箱を運ぶ最中にふと米が尽きた事を思い出し、丸田屋に入った。
「この棚田米を2キロお願いします」
「はいよ」
万衣子を見るなりさっと店主が動く。お得意様認定されているようで嬉しい。しかし突然、店主が声を低めて思わぬ事を言った。
「あんた。今日は男連れかい?」
「……え? いいえ。ひとりです」
「そうか。ならそのまま振り返らずそこの奥に入りな。何か妙な男がうろついているから」
促されレジ横のモニター画面を覗くと、覚えのある男の姿が映っていた。滝川だった。
「え……」
ぽとりと。万衣子の手の中が空になった。さあっと、全身の血が引いていく。
「ああ、今ちょっと離れた。こっちに来な」
店主に強く引かれてよろめいた。ぐしゃっと何かを踏んだ気がしたけれど、気付くと別室にいて、そこは店とは暖簾を隔てた土間続きの小さな事務所だった。
「ここにお座り」
言われるまま、古い皮張りのソファに座る。
「あれは知り合いかい、それとも変質者かい」
「……あの。元配偶者です」
「ますますいけないね。警察を呼ぼうか」
「いえ、こんなの今日が初めてで……」
「そう。あんた近くに家族は」
「姉が……でも、今日は出張で遠くへ……」
「そうか。どうしたもんかな。別にうちにずっといても構わないだけどね。他に誰か……」
ぐるぐると頭の中は空回りするばかり。
「……あんた。鶯堂のボンと仲良かったね」
「え……」
「新米買いに、この前一緒に来ただろう」
言われてみればそんなこともあったか。
「あれを呼ぼう。待ってな」
店主が電話機に手を伸ばすのを、万衣子はどこか他人事のようにぼんやり見ていた。
「先輩……」
目の前に梅本がいる。本物だ。
「ちい、くん……」
「とにかく俺の家へ行こう」
「ちいくん」
「うん」
「なんで……。どうして……。こわいよ」
「……うん。びっくりだね」
膝の上に置いている拳が自分の意思に関係なく小刻みに震えているのを梅本はじっと見つめ、ぽつりと答えた。
「これ。飲んでみて」
万衣子の前に置かれたグラスには薄い橙色の液体が注がれ、薄く気泡が立ち上っていく。
「炭酸水?」
「そう。実家の杏で作ったジャムを溶かしたんだ。先輩の好きな味だと思う。どうぞ」
「うん」
口に含むと杏の甘酸っぱい香りが鼻をくすぐった。炭酸の刺激と果実の風味が混ざって心地よい。気付けば一気に飲み干していた。
「すごく……美味しい。ありがとう、梅本君」
「先輩が怯えて水の一口も飲まないって、おばあちゃんがすごく心配していたよ」
店主は配達中の息子に万衣子たちを送るよう頼んでくれた。
「……ごめんなさい。私、たくさんの人に迷惑かけちゃった。鶯堂も、どうしよう……」
「うちの店は大丈夫。従業員がしっかりしているから、これくらい何ともないよ」
「でも……」
「でもも何もない。丸田屋さんから電話をもらった時、俺がどれだけ焦ったか。あんな話を聞いてじっとしていられるわけないだろう」
いつになく激しい口調に、万衣子は怯む。
「……ごめん。言い過ぎた。その……」
しばらく躊躇うように視線を彷徨わせ、やがて梅本は思い切ったように口を開く。
「あのさ、ケーキのことなんだけど」
「けーき」
「うん。丸田屋さんが、処分しとくよって」
「……あ」
ふいに、右足の裏の感触を思い出す。
ぐしゃって、何かを踏んだ。その何かは。
万衣子の宝物。綺麗な、綺麗なモンブラン。
「……忘れてた。私、なんで手を離しちゃったんだろう。なんで踏んじゃったの。なんで」
ぽろぽろと涙があふれて頬を伝っていく。
「うわああん。なんでえ……」
幼子のように万衣子は泣いてしまった。
「だび、だび……。ずみ゛ま゛ぜん゛……」
目と鼻が詰まって、上手く謝罪できない。
「いや、俺が早計だった。先輩ごめん」
梅本に謝られ、自己嫌悪で再び涙が込み上げる。泣いたら駄目なのに。弱い自分が嫌だ。
「どうしたもんかな。こうなると気分転換に外へ出られないってのが痛いね。……そうだ。雑炊を作ろう。先輩はここに座って」
梅本はキッチンの傍に椅子を置いた。
「先輩は今、心とお腹がびっくりしているだろうけど、夜だし消化の良い物を食べようよ」
「ありがどう……」
「うん。先輩、苦手な野菜はないよね」
うなずくと、梅本は様々な食材を出しては細かく刻んで鍋へ放り込み、最後に溶き卵を流し入れ手際よくあっという間に仕上げた。
「さあ、食べようか」
雑炊が万衣子を誘惑する。器の中には米の白い輝きと卵の黄色と花エビのピンク。そしてシラスと南瓜と大根と葱も顔をのぞかせ、上にコロンと朱色に染まった梅干しが二粒。
お腹がくうと鳴った。
「どうぞ、召し上がれ」
梅本特製雑炊は、彼の人柄そのままの味で。
万衣子の涙と鼻水をぴたりと止めた。
「そのまま待っていて。あとくちを作るから」
梅本は再びキッチンへ戻りボウルに粉と水を入れて練り始め、やがて小さく丸めた生地を沸騰している鍋へ次々と落としていく。
「もしかして、白玉団子?」
「そう。たまに作るよ。餡子も常備してるし」
「お団子って、鶯堂でも売っているよね?」
「うん、でも甘くない団子が食べたくなる事ってあるだろう。それと……」
そうしてまた梅本は万衣子に魔法をかけた。
「こうなると、もはや天才だね……」
「褒め過ぎだよ。有り物を加えただけなのに」
「いや、こんなに素敵な餡蜜見た事ないよ」
白玉と餡と黄桃とバニラアイスが愛らしいカフェオレボウルに美しく装われ、更に香ばしい香りのきな粉と黒蜜がかけられている。
梅本の心尽くしの一品がきらきらと光を放つ。これは何物にも代え難い、宝物だ。
「とても。とても嬉しい。ありがとう、ちいくん。どうしよう。食べるのもったいないな」
勇気を出して、宝物にスプーンを入れる。
人生で最高の餡蜜を万衣子は味わった。




