第1話「消えた連帯」
放課後の教室。
葵が見せたスマホの画面には、生活保護をめぐる厳しい言葉が並んでいた。
「なぜ、同じ立場のはずの人たちが互いを攻撃するのか」――。
天野先生と生徒たちは、分断の構造とその心理を探り始める。
政治経済をめぐる青春ミステリー、第3巻第1話。
新学期が始まって一ヶ月。
放課後の教室で、葵は困った顔でスマホの画面を見つめていた。
「先生、これ見てください」
天野が近づくと、葵はSNSの投稿を見せた。そこには、こんなコメントが並んでいる。
```
「生活保護もらってるくせに、スマホ持ってる」
「働かない奴らのために税金払いたくない」
「本当に困ってる人だけもらえばいい」
「外国人にも支給するのはおかしい」
```
「生活保護についての投稿なんですが…コメント欄がすごく荒れてて」
天野がスマホを見ると、確かに厳しい言葉が並んでいる。
「これを見て、どう思った?」
「なんか…悲しくなりました。みんな、なんでこんなに怒ってるんでしょう?」
ちょうどその時、他の生徒たちも教室に入ってきた。
「何の話?」健太が尋ねる。
「生活保護のSNS投稿」葵が説明する。
遥が画面を覗き込む。「うわあ…確かにきついコメントが多いですね」
「これが今日のテーマだ」天野はプロジェクターを起動した。「『分断』について考えよう」
画面に映されたのは、シンプルな図だった。
```
【社会の構造(従来)】
富裕層
↑
【対立・批判】
↓
中間層・労働者層
(連帯・協力)
```
「昔、労働運動が盛んだった時代、働く人たちは『団結』していた。労働組合を作り、賃上げや労働条件改善を求めて、一緒に経営者や政府と交渉していた」
怜がノートを開く。「でも今は違うんですか?」
天野は図を書き換えた。
```
【社会の構造(現在)】
富裕層
↓
【見下し・無関心】
↓
中間層 → 【攻撃】→ 生活保護受給者
↓ ↓
非正規 → 【対立】→ 外国人労働者
↓ ↓
失業者 ← 【相互批判】← ニート・引きこもり
```
「今は、似たような立場の人同士が争っている。なぜだと思う?」
健太が手を挙げる。「パイが小さくなったから?」
「それも一因だ」天野が頷く。「でも、それだけでは説明できない。データを見てみよう」
天野は統計を映し出した。
```
【生活保護の実態(2024年)】
受給者数: 約204万人(全人口の1.6%)
受給世帯数: 約164万世帯
世帯類型別内訳:
・高齢者世帯: 55.4%
・傷病・障害者世帯: 26.8%
・母子世帯: 6.9%
・その他世帯: 10.9%(失業等)
国籍別:
・日本国籍: 95.7%
・外国籍: 4.3%
総支給額: 年約3.8兆円
→ 社会保障費全体(約36兆円)の10.6%
```
葵が驚く。「外国人の比率、意外と低いんですね」
「そうだ。SNSでは『外国人ばかりが受給している』という声もあるが、実際は4.3%だ」
遥が計算する。「全人口の1.6%…100人いたら、1-2人しかもらってないんですね」
「ところが、世論調査では『生活保護の不正受給が多い』と感じる人が7割を超える。この認識と現実の乖離は、なぜ生まれるのか?」
天野は複数の要因を示した。
```
【認識の乪離が生まれる要因】
①メディア報道の偏り
・不正受給の事例ばかり注目される
・制度の必要性は報道されにくい
②政治的な利用
・「生活保護削減」を主張する政治家
・「自助・自立」を強調する政策
③心理的要因
・「自分は頑張っているのに」という感情
・「不公平感」の高まり
④情報の非対称性
・受給の実態が見えにくい
・複雑な制度への理解不足
```
怜が冷静に分析する。「つまり、実態を知らないまま感情的に反応している?」
「それが大きな要因だ。でも、もう一つ重要な構造がある」
天野は新しい図を描いた。
```
【分断の構造】
A群(中間層)
月収30万円
「税金を払う側」
↓【攻撃】
B群(生活保護受給者)
月収12万円相当
「税金で支えられる側」
C群(富裕層)
月収100万円以上
「制度設計を決める側」
問題: AがBを攻撃し、Cは見えない
```
健太が気づく。「あ、本当にお金持ってる人たちは批判されない?」
「そうだ。生活保護バッシングの多くは、『中間層から下層への攻撃』の形を取る。なぜか?」
天野は心理学的な説明を始めた。
「人間は、自分より『少し下』の存在を批判しやすい傾向がある。これを『下方向への攻撃性』と呼ぶ」
```
【下方向攻撃性の心理メカニズム】
①相対的剥奪感
「自分の方が頑張っているのに」
→ 下の存在への怒り
②社会的地位の不安
「自分もそうなるかもしれない」
→ 距離を置こうとする心理
③正当化の欲求
「自分の苦労は正しい」
→ 楽をしているように見える相手への批判
④見えやすい存在への攻撃
富裕層は遠い存在、生活保護は身近で分かりやすい
```
遥が悲しそうに言う。「でも、実際には同じような立場なのに…」
「そこが『分断の罠』だ」天野は強調した。「本来なら連帯すべき人たちが、互いを攻撃している」
葵がノートに書きながら言う。「じゃあ、これって誰が得してるんですか?」
「いい質問だ」
天野は階層図を再び映した。
```
【分断によって得をするのは誰か?】
富裕層・既得権益層:
✓ 注意が下層同士の争いに向く
✓ 自分たちへの批判が弱まる
✓ 税制改革の圧力が減る
✓ 労働者の団結が弱まる
政治家:
✓ 「弱者切り捨て」の支持を得られる
✓ 「厳しい現実」を演出できる
✓ 抜本的改革を避けられる
一方、損をするのは:
❌ 中間層(将来の社会保障削減)
❌ 下層(さらなる孤立)
❌ 社会全体(連帯の喪失)
```
健太が眉をひそめる。「じゃあ、俺たちは踊らされてるってこと?」
「『踊らされている』というより、構造的な問題だ」天野は慎重に言葉を選んだ。「意図的な操作というより、複数の要因が重なって生まれた現象と見る方が正確だ」
怜が手を挙げる。「でも、生活保護に問題はないんですか? 本当に不正受給はない?」
「問題はある」天野は認めた。「不正受給も実際に存在する。ただし、その規模を正確に把握することが重要だ」
天野は詳細なデータを表示した。
```
【生活保護の課題と現実】
不正受給について:
・発覚件数: 年約3.5万件
・不正受給率: 約2%
・金額: 年約150億円
→ 全体の約0.4%
一方で:
・受給資格があるのに受けていない世帯: 約200万世帯
・捕捉率: 約20%(先進国最低水準)
→ 本来受給すべき人の多くが制度を利用していない
制度の問題:
・申請手続きの複雑さ
・社会的偏見による萎縮効果
・自治体間の運用格差
```
葵が驚く。「本当に困ってる人が制度を使えてない?」
「そうだ。『不正受給』より『未受給』の方が実は深刻な問題だ。しかし、メディアでは前者ばかり注目される」
遥が困った顔で言う。「じゃあ、どうすればいいんですか?」
「まず、事実を知ること。そして、『誰が本当の敵なのか』を考えることだ」
天野は最後のスライドを映した。
```
【連帯を取り戻すために】
①情報リテラシーの向上
・統計データを確認する習慣
・複数の情報源を比較
・感情的な反応の前に立ち止まる
②共通の利益の認識
・社会保障は「保険」
・今は支える側でも、将来支えられる可能性
・制度の改善は全体の利益
③構造的問題への注目
・なぜ格差が生まれるのか
・税制や労働政策の検討
・富裕層への適切な課税
④対話の促進
・異なる立場の理解
・建設的な議論の場作り
・分断を煽る言説への注意
```
健太が腕を組む。「でも実際、連帯なんて無理じゃない? みんな自分のことで精一杯だし」
「確かに難しい」天野は認めた。「でも、歴史を見ると、困難な時代こそ人々は連帯の必要性を感じてきた」
天野は歴史的な例を挙げた。
「大恐慌の時代、アメリカでは『ニューディール政策』が生まれた。困っている人を支える制度を作ることで、社会全体が安定した」
「戦後の日本でも、労働組合の結成や社会保障制度の整備が、高度経済成長の基盤になった」
「最近でも、コロナ禍で『エッセンシャルワーカー』への注目が集まり、社会を支える人たちの重要性が再認識された」
葵が希望的に言う。「じゃあ、まだ可能性はあるんですね」
「ある」天野は頷いた。「ただし、それには意識的な努力が必要だ。自然に連帯が生まれるわけではない」
「次回は、外国人労働者の問題を扱う。同じような『分断の構造』が、どう働いているかを見てみよう」
遥が時計を見る。「もうこんな時間…」
生徒たちが帰り支度を始める中、葵は振り返った。
「先生、SNSでこういう投稿を見た時、どうすればいいですか?」
「まず、立ち止まること。そして『なぜこの人はこう感じるのか』を考えてみる。感情的に反論するより、背景にある不安や不満を理解しようとすることが大切だ」
「そして可能なら、正確な情報を『押し付けがましくなく』共有する。論争するのではなく、一緒に考える姿勢を示すこと」
葵が頷く。「難しいですけど、やってみます」
教室を出る前に、健太が振り返る。
「分断の罠か…俺も知らないうちにハマってたかもな」
「気づいたなら、もう大丈夫だ」天野は微笑んだ。
夕日が教室を染めている。
分断は簡単には解けない。
でも、一人一人が意識を変えることで、少しずつ状況は変わっていく。
それが、民主主義の希望なのかもしれない。
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**〈第2話へ続く〉**
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### 【この話で学んだポイント】
**1. 生活保護の実態**
- 受給者は全人口の1.6%(外国人は4.3%)
- 不正受給率は約2%、一方で捕捉率は20%と低い
- 高齢者・病気・障害者世帯が8割以上
**2. 分断の心理メカニズム**
- 下方向攻撃性:自分より少し下の存在への批判
- 相対的剥奪感、社会的地位への不安
- 富裕層は見えにくく、生活保護は分かりやすいターゲット
**3. 誰が得をするか**
- 富裕層:注意逸らし、税制改革圧力の軽減
- 政治家:「厳しい現実」の演出、抜本改革回避
- 損するのは中間層・下層・社会全体
**4. 連帯回復の方向性**
- 情報リテラシー向上
- 共通利益の認識
- 構造的問題への注目
- 建設的な対話
**次回予告**: 外国人労働者230万人の現実とは? データで見る治安と犯罪の関係。そして、なぜ不安が生まれるのか? 第2話「外国人労働者230万人の現実」をお楽しみに。
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### 【実際のデータと根拠】
**生活保護統計**
- 厚生労働省「生活保護の被保護者調査」(2024年)
- 受給者数、世帯類型別内訳、国籍別データは公式統計
**不正受給・捕捉率**
- 厚生労働省「生活保護の適正実施」統計
- 捕捉率については学術研究(山田篤裕等)の推計値
- 先進国比較はOECD諸国との比較研究
**世論調査データ**
- NHK放送文化研究所、朝日新聞社等の世論調査
- 生活保護への国民意識調査結果
**心理学的分析**
- 社会心理学における「相対的剥奪感」理論
- 「下方向攻撃性」は社会学・心理学の実証研究に基づく
**歴史的事例**
- ニューディール政策、戦後日本の社会保障制度
- エッセンシャルワーカー概念の普及(コロナ禍)
**重要な注意**
この物語では生活保護制度の現状を統計に基づいて説明していますが、制度のあり方については様々な立場があります。「制度を拡充すべき」「より厳格にすべき」といった政策論争については、読者の皆さんに判断を委ねています。重要なのは、正確な情報に基づいて議論することです。
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*分断は誰の得にもなりません。正確な情報と相互理解から、より良い社会を築いていきましょう。*