垂花の殺人 三
あまりにも耽美的な死の様相にしばし見惚れていたぼくは、腰のあたりを軽く小突かれてようやく意識を取り戻した。そして、早速調査に取り掛かろうと脳を回転させる。
「一つ確認したいのだが、お前から見てこの部屋の様子は、発見時点から変わっていないか?」
「そうですね、変わっていないはずです」
「ふむ、なるほど?」
部屋の中をざっと観察すると、骸以外にまず目につくのは、部屋の隅に据えられた豪奢な天蓋付きの寝台である。黄金の飾りだの彫刻だのはこの際置いておいて、ぼくはまず酷く乱れたその様子に注目した。
「これだけ乱れているとなると、昨晩二人がここで同衾したことに間違いは無さそうだな」
「詳しく調べればもう少し上がるかと思いますが、まだ手を触れるわけにはいきませんよ」
「無論分かっているさ」
頭の中の帳面に情報を書き加えると、ついでぼくは窓の方に向かう。
「この窓は閉まっていた様だな、昨晩は」
「恐らくはそうでしょう。昨日は随分と雨が降っていましたから、外にも鎧戸を下ろしてあるはずで
す」
「実際、地面の敷物にも特別濡れた痕跡はない。となると、犯人はこの窓からは出入りしなかったと
考えた方が良いのだろうか」
「雨が止んだ正確な時間が特定できませんからねえ」
「お前が寝る前はどうだった?」
「日付が変わる頃にはそうですね……しとしと降っている様に見えました」
「ふむ。そうなると、やはり事件が起こったその時にも、この窓は閉じていたと考えるべきだろうな。すると当然出入りは一つしかないあの扉に限られるわけだが、この部屋の敷物には雨の痕跡は見当たらない」
「そうなると、犯人は濡れない位置にいたということになりますから、内部の犯行ということになる
んでしょうか」
「うむ……というか、ふと思ったのだが、しれっと他殺を前提に話が進んでいるよな」
「あっ」
彼も指摘されて初めて気がついたらしい。どうも二人して、思考があまりよろしくない方向にねじ
くれ曲がってしまった様だ。
「じゃ、試しに常識的な方向性で考えてみましょうか。外から侵入した誰かの犯行でもなく、内部の人物が密かに殺したのでもなければ、つまり二人はどうして亡くなったのでしょう?」
「当然自縊ということになるだろうな。ほらこの通り、二人の足元には踏み台として使ったであろう丸椅子が転がっているし」
だがそれにしても、大きな問題が転がっている。確かにこの世には情死─即ち、恋愛関係にある男
女が心中を図る事例はいくらでも溢れている。だが、それらは基本的に、お互い好き合った相手と結ばれ得ぬことを苦にしての死である。身分や立場の結果、来世を求めて飛び込んでいくのが心中の本来の姿だ。
しかし、彼らはどうかと言えば、まさに幸せの絶頂のはずであった。
「一つ確認しておきたいのだが、彼らは結婚に際して何か意見を述べていたか?」
「あまり詳しくは聞けませんでしたが、宴で見る限りでは、随分とお互いのことを気に入った様子でしたけどね」
「そうなると、やはり心中と考えるのには無理がないか?何処かから遺書でも見つかれば話は別なのだが─」
「お前達!そこで何をしている!」
唐突な漢語の呼びかけにぼくらはびくりと肩を震わせ、恐る恐る振り向いた。そこには一人の男─身分と立場を示す補図が刺繍された黒い外套を着込み、涼帽を被った中堅の武官─が立っていて、赤ら顔に三白眼をカッと見開いて、ぼくらを睨みつけていた。
「お前達何者だ。一体誰の許可を得てこの部屋に入った!?」
「あぁ、その、ええと」
ぼくは説明してやろうとするが、うまく適切な言葉が出て来ない。彼と同じ様にぼくも補図を刺繍した紺色の外套を着て、身分と立場を表しているつもりなのだが、もしかして意匠を把握していないのだろうか。
「わたしの名は瀏親王永暁。昨晩この家で行われた結婚式に部下を参列させていた者だ。彼を迎えに来るついでに、現場を調べさせてもらっていた」
「何?」
親王だと、と武官は何度か呟いた。やがてぼくのことをじっと上から下まで─それこそ、涼帽の上に輝く紅玉の頂珠から、下に履いた靴の先までじっくりと─観察し、ようやく眼前に立つ女の様な顔をした若造の正体を悟ったらしい。
「こっ、これは、瀏親王殿下!大変な失礼をば致しました!」
あわてて膝をつこうとするのをぼくは押し留めて、
「不要だ。むしろ頭を下げるのはこちらの方なのだ。ええと、其方は」
「わたくしは五城兵馬司の呂太常と申します。上官の命を受けまして、本件につき吟味を致すべく参りました」
後ろに骸が二体ぶら下がっている中での丁寧な自己紹介は、どこか笑劇じみた滑稽さを感じるが、ひとまずぼくは慇懃さには慇懃さを持って返すことに決めた。
「わたしは先程も名乗ったが、天恩により当代の瀏親王を世襲する永暁という者だ。朝廷にあっては
満洲正白旗の都統職を預かっている。実を言えばこの屋敷の主である瑞禄殿は正白旗の旗人である。それ故に、わたしも調査に協力させて貰いたいのだが、どうだろうか」
「はっ、親王殿下のお力添え誠に心強く感じます。何卒ご指導ご鞭撻賜ります様、伏してお願い申し
上げます」
そうは言っても、こちらはまだ十八歳の若輩者、向こうは控えめに見ても四十歳は超えていよう。
そんな相手に指導も鞭撻もあったものではない。ひとまずぼくは未だ所在無げにぶら下がっている二
人分の骸を梁から降ろし、この一件について未だ姿を現さない主人の下に顔を出すことを提案した。
「どうなのだ『名無し』。将軍はこの一件をご存知で……?」
「どうだろうね。あの方昨晩偉く酒飲んでいた訳だから、もしかしたらまだ寝てて知らないのかも知
れない」
「何ということだ、全く。ん、となると誰が兵馬司を呼んだのだ?」
「わたしですよ。家令と相談して、ひとまず何人か人を派遣してもらう様に掛け合ったんです。大事になれば家の名誉にも傷がつきかねないわけですから」
「賢明な判断だ、さすがはぼくの包衣だな」
「まだ主人と認めたわけではないですから。自惚れないでください」
さて、二人分の骸が床に下ろされ、顔に白布がかけられたところで、呂大人がもう一度こちらに向き直る。
「さて、殿下におかれましては、如何にして此方にお出でになったか、今一度お教え頂ければ幸いに存じますが」
「そう仰々しい言い回しは使わなくて宜しい。と言っても、そこまで話せることは無いぞ。わたし自身事情も殆ど分からぬままここへ呼ばれた訳だし、まだ主人殿への挨拶すら済んでいない」
「となりますと」
「昨晩の詳しい事情ならば、わたしの通訳を担当しているこの男に聞いた方が早い。そうだろう、『名無し』」
「通訳中に話しかけるのやめてもらえますか」
呂大人はしばし目をぱちくりさせてぼくらのやり取りを見ていたが、やがて何とかうまく飲み込むことにしたらしく、
「では、お二人には後でまた事情を伺うことに致しましょう。それではまず、ご主人の瑞禄将軍にお話を伺うことに─」
「その必要は無い」
酷く痰の絡んだ嗄れた声。しかし、それよりもぼくが驚いたのは、その声が明瞭な満洲語の発音であったことだ。扉の方を見ると、長い顎鬚を生やし、剣の鋒を彷彿とさせる鋭い顔つきの老人が、一分の隙も無い正装で樫の杖をつき、立っていた。ぼくは半ば本能的に会釈して、
「突然のご訪問をお許しください、将軍」
「こちらこそ、この様な穢らわしい場所にご来駕を賜りまして、汗顔の至りに存じます、殿下」
瑞禄将軍は老いてなお盛ん、を体現するかの様な流麗な所作でぼくに礼をした。この愛の巣はまた一人、常ならぬ客を迎えた訳である。




