幽霊の手管 三
三つの連なった小部屋を過ぎて、広間に足を踏み入れると、早々に酔い潰れて眠っている人足に足がつっかえた。ぼくが気まずそうに下を見ると、すぐにまだ起きているのがやって来て、乱暴に壁際に寄せていく。まるで箒で塵を掃き集める様だった。ぼくが空いている席に戸惑いながら座ると、さっき張り倒されていた若いのが酒の入った徳利を持ってやってきて、震えながら盃に満たす。何かあったのか聞きたい気持ちだったが、生憎とぼくは彼の話す言葉が分からない。盃を掲げて感謝だけを示すと、ひとまず口を付けてみる。
「(うわっ、なんだこの味は)」
ぼくは棟梁たちに見えない様、こっそり舌を出した。注がれたのは非常に酒精の強烈な辛口の酒で、それでいて何か別の物で甘く味がつけられていた。悪いのはこれらが悉く噛み合っていないということで、びりびりと舌に痺れた様な嫌な後味が残るのだ。この場で怒らなかったぼくの忍耐はきっと称賛されて然るべきだろう。
ぼくはにっこりと笑って棟梁に盃を掲げると、彼も満足そうな顔を浮かべて、がばりと自分の手元を干す。また若いのが飛んでいってお代わりを注ぐ。まことに忙しいことで、同情心が湧いてきた。
「『ーーーーー』」
ややあって、棟梁が何か若いのに話し出した。彼は色々と早口で囁く様に伝えていたので、ぼくにはさっぱり聞き取れない。だが、言われている方はカッと目を見開き、わなわなと手を震わせていたので、恐らく良いことではないのだろう。
「(止めてやるべきだろうか)」
そう考えたが、ぼくは敢えて何も言わなかった。随分と昔のこと、京師の大通りに座り込んでいる乞食を憐れんで、懐に持っていた小玉の一両銀をくれてやったことがあるが、後になってそいつが盗人の容疑で首枷を嵌められ、連行されていくのを見た。惨めな格好に似合わぬ銀を持っていたことが怪しまれたのだろう、それ以来ぼくは、大きな炊き出しを除いて、貧民に施しをしてやることをやめてしまった。ぼくはこの世の最も恵まれた立場の人間として生まれ育ったけれども、お陰でそうでない人々のことは一切分からぬまま育った。だから、良かれと思って手を出したことが後になって牙を剥くということが無い様に、下手なことは慎むのがせめてもの功徳と思うことにしている。
「(済まないな、若いの)」
若いのが何やら言われている間、その向かいに座っているもう一人の人足─顔に大きなホクロがあるので、そう呼ぶことにした─はじっと俯いて、何も言わなかった。ぼくの訝しげな視線にも気が付かず、何か他のことに思考を奪われている様だった。ややあって、
「『ーーーーー』」
棟梁が大声で叫ぶと、二人が立ち上がって頭を下げる。彼がぼくに一礼して去っていったのを見るに、今のは宴をお開きにする、という趣旨の言葉だったのか。残された二人は酒呑の禁忌がばれない様に後片付けを始め、正体を失っている他の人足達を起こして、部屋へと帰る様に伝える。
「(九人のうち六人が酔い潰れるとは。一体どれだけ飲んだんだ?)」
円卓の上や床下に転がっている瓶子の数は、見たところ大した量ではない。だが、舌がぴりつく程に強い酒だったことを考えると、弱い者ならばこうなっても決して不自然なことではないのかも知れぬ。量より質ということか。
「(ぼくも帰ることにしよう。飲み慣れない酒に口をつけたせいか、頭がくらくらする)」
一通りの後片付けが終わったのを確認して、ぼくは椅子から立ち上がり、広間を後にしようとする。すると、やにわにあの若いのがぼくの袖を捉えて、
「『ーーーーーー!』」
何かを早口で捲し立て始めた。なんだ、何か下手なことでもしてしまったか。そう思いつつホクロの方に視線を向けると、彼は真っ青になって輩を怒鳴りつけ、二人は言い争いになる。しかし、お互い何を言っているか一切分からないことから、ぼくは戸惑った様子で左右を見渡す他に何もできない。やがて、一通りの言葉が出切ったであろうところで、
「済まないが、わたしは漢語が分からぬ故、何か言いたいことがあれば、ぼくの通訳に伝えるが良かろう。だが、筋違いのことに何か申せと言われても、わたしは何も出来んぞ」
と言っても、ご存知の通りぼくの言葉は満洲語なので、ほぼ確実に伝わってはいないだろう。仕方ない、と言った表情で首を振り、ぼくはおぼつかない足をひきずって宿舎の外に出た。
東棟、つまりぼくらの宿舎に足を踏み入れると、ちょうど自分の部屋から外へ出るところだった『名無し』と行き合い、二人して間抜けな声を出した。
「うわっ!ってなんだ、お前か。びっくりしたじゃないか」
「こっちこそですよ。ちょっと夜風に当たってくるとか言って長いこと戻ってこないから、心配になって来てみたら……って大丈夫ですか?顔真っ赤ですけど」
「あ、あぁまぁ、だいじょおっととと……」
「……さては、酒飲みましたね。いけませんねえ、寺の境内で酒とは。戒律違反ですよ全く。もしかして、向かい側の連中の宿舎に行ってたんですか?」
「う、うん」
本当馬鹿ですねえ、と揶揄う様に言うと、彼は部屋の水差しから冷たい水をお椀に汲んで、ぼくに渡してくれた。相変わらず痺れが残る喉に流し込むと、溜まっていた澱が流れていく様で気持ちがいい。
「ふう、ありがとう」
「それにしても、わたし達の世話をすると言いながら酒盛りを始めるとは、とんだ生臭坊主ですよあれは」
「生臭坊主?」
「あれ、知らなかったんですか?ちょっと前、あの生臭坊主が酒の入った瓶子をぶら下げて、あっちの宿舎に入っていくのを見かけましたよ」
「ちょっと前というとどの位?」
「月海和尚が読経をしてる間ですね。永暁さまは儀式に集中していたので気が付かなかったかも知れませんが、わたしは暇だったんで辺りをキョロキョロしてました」
「なるほど、忙しない男め」
だがあの坊主、意外とやるらしい。強烈な酒を大量に持ち込んで人足たちと酒宴をやり、自分は早々に立ち去って破戒の痕跡を残さないと言うわけか。ぼくは苦笑いしてもう一杯水を飲み下すと、そのまま今日は寝ると彼に伝え、自分の部屋へと帰る。
「(なんだかんだ疲れたが、無事に仕事も終えられて何より)」
ぼくは寝台の上で大きなあくびをすると、そのまま目を閉じて眠りに落ちてしまう。疲れのせいなのだろうか、ひどく蒸し暑い夜にも関わらず、ぼくは泥の様に眠って、朝まで全く目を覚ますことはなかったのだった。