幽霊の手管 一
兵部尚書の杞暁嵐殿がぼくの屋敷を訪ねて来たのは、五月も半ばを過ぎた小満の頃であった。
この時瀏親王府には随分と来客もなく、ぼくはひどく退屈な心持ちで暑さの中を過ごしていたのであるが、この久方ぶりの尋ね人のお陰でその無聊も幾らかは慰められようと胸を弾ませて、彼を居間へと招き入れた。
「瀏親王殿下に拝謁いたします。千歳千歳千々歳」
「面を上げられよ」
杞尚書は長きに渡って朝廷に仕えた重鎮であるのみならず、先帝にはその文才を愛されて四庫全書編纂の総責任者を命じられた当代随一の学者でもある人だ。
これまで祖父ほどにも歳の離れた人間に対してひどく不遜な態度をとって来たぼくでさえも、この人の前では自然と背筋が伸びてしまうし、言葉遣いも丁寧なものになる。
「杞尚書、こうしてお話をするのは随分と久しぶりな気が致しますね。軍職にある身ながらご挨拶もできず、誠に申し訳ありません」
「お気になさらず、殿下。老骨は尚書とは申せ、近頃は出仕をするにも歩くのが難しくなって参りましてな、最近は専ら自邸にて決裁を済ませておりますので」
「それはそれは。どうぞお身体を大事になさってくださいませ」
普段ならば世間話などすっ飛ばして、さっさと本題に入れと言い放ってしまうところだが、尚書とのそれは決して不快ではなかった。
やはり高い学識と教養の為せる技だろうか、この方の話というのは何においてもひどく面白いのである。思わずぐっと引き込まれて、早く続きをと熱望してしまう様な魅力がある。
「……それで、何事かと思って穴に手を突っ込み、思い切り引き出してみると、なんと長さ数丈もある大蛇でしてな。これが兵士を絞め殺した犯人であったのです」
「なんと、左様なことが本当にあったのか?」
「わたくしが西域に赴任していた頃のことでございます」
この様に世間話に花を咲かせていれば、自然と時間は過ぎていく。やがて通訳である『名無し』が辛そうに咳き込んだのを見て、ぼくはようやくやるべきことを思い出し、尚書に言った。
「済まない、そろそろ世間話は終わりにして、本題に入ろうではないか」
「はっ」
流石は重臣、この辺りの切り替えも上手い。こちらの意思をしっかりと察して、それに合った話し方というものを心得ている。特に出来る限り通訳の彼に負荷をかけない様、ゆっくりと聞き取りやすい口振りで語ってくれたのは嬉しかった。
「誠に申し訳ないことではありますが、殿下にお願いがあって参ったのです」
「ふむ、杞尚書がわたしに頼みとは。何か余程のこととお見受けするが、何か事件でも?」
「いえいえ、これは仕事でございましてな。今から一週間後の予定ですが、徳勝門外で禁旅八旗(京師に駐箚し、皇帝の近衛部隊を務める八旗)の調練が行われるのはご存知でしょう?」
ぼくは頷いた。昨今の堕落著しい八旗の惨状に心を痛められた帝は、こうして度々京師に駐在する旗人を召集して演習や訓練を実施させており、かつての満洲人が持っていた武勇を取り戻そうと努力されている。今回のこともその一貫であり、京師西北の徳勝門外にて大規模な射撃訓練が行われることとなっていた。尚書は軍政の最高責任者として、その程を見届ける査閲官を命じられていたはずだった。
「実はつい先程知らせが届きまして、江蘇省に務めているわたくしの兄が、亡くなったとのことでございました」
「それは……お悔やみを申し上げます」
「痛み入ります……ですが、問題はここからでして、兄が亡くなったからには、わたくしはしばし忌引きの為に出仕を控えなくてはなりません。兵部の仕事は副尚書に委ねれば良いのですが、彼はわたくしに劣らず多忙の身でございますから、これ以上面倒な仕事を押し付けるわけにはいかないのです」
「ふむ、それで?」
「ですから、大変申し訳ありませんが、一週間後の調練の査閲官を、殿下にお引き受け願いたく思いまして……」
「なるほど」
ぼくは頷いた。確かに、案外筋違いな話というわけでもない。来週の訓練に参加する兵達は京師に居を置く旗人であり、その中にはぼくが都統として管理する連中も少なからず含まれている。
「(まあそうでなくとも、ぼく以外の軍職にある方々は皆それぞれ忙しいだろうから、一番暇であろう人間に話を持って来たのだろうし)」
「いかがでしょうか、殿下」
「杞尚書の頼みならばお断りするわけにもまいりません、お引き受けしましょう。来週の訓練、わたしが査閲官代理を務める旨、主上に申し上げておいて下さい」
「有難うございます」
それでは上奏してお許しを得て参ります、と彼は席を立ち、早々と駕籠に乗って自邸まで帰って行った。それを後ろから見送る『名無し』がぽつりと呟く。
「どうも嫌な予感がするんですよね」
「ん?どうかしたのか」
「いえ、なんでもありませんよ。ただ、あの爺さん方々で幽霊に会うことで有名ですから、何事も無いといいなあ、と思っているだけです」
「なんだそれ」
結局、何事もかに事もあったのだから、笑えない話だった。




