羅刹の鳥 五
十日ほど経ったある日の夜。深い緋色の衣装で身を固め、色とりどりの旗を掲げた新郎の行列が瀏親王府を出立した。駕籠に載った新郎は、ほんの少し白粉を塗って化粧をした顔に緊張の面持ちでおり、所在無げに窓から外を見回している。
前後に付き随う人々は後ろに弓矢を背負い、高らかに婚礼を祝う歌を歌っている。喇叭の重々しい音色と共に静々と行列は進み、やがて安侍郎の屋敷の門前を通りかかると、また塵や埃を巻き上げながら、突風を吹きつけて幾度もぐるぐると行列の周りを回った。夏の蒸し暑い夜を引き裂く様な、冷たい風であった。
しかし、それでも婿入りの行列は変わらずに進んでいく。目指すところは一体どこであるのか。
月が少しずつ西に傾く中で、行列は京師の城門を出て、緑の草原が広がる寂しい野原の道を進んでゆく。辺りには虫や獣の声ひとつ聞こえず、ただ微かに戦ぐ草の音だけが聞こえていた。
ややあって、行列の先頭が目的地の灯をその目に捉える。京師郊外に建てられた伏魔大帝の廟である。そこは駕籠と同じ様に赤色で飾られ、婿を迎える花嫁を守る為に集まった人々にぐるりと取り巻かれていた。
それにしても、奇妙な結婚式だった。初めにあるべき見合いや親戚への話し合いも無ければ、両家の間で取り交わされる結納の儀式も無い。ただ唐突に行列が日没から仕立てられ、京師をぐるぐると回ってどこかへと向かっている。
衣装は豪奢であり、付き随う人の数も百人はくだらない。都に住む多くの人々は、二階の窓から見下ろしながら、奇妙なことだと思っただろう。
いずれにせよ、到着はした。これから新婦と共に神前で婚姻の報告をして、二人同じ駕籠に載って屋敷へと戻るのだろう。
「お待ちしておりました」
新郎が廟の中へ入ると、関帝の神像の前に新婦が立って待っていた。品の良い綾絹で作られた紅蓋頭をすっぽりと被って顔を隠しているが、衣装を纏う体は華奢であり、袖から覗く手の色は雪を塗り固めた様に白い。呼びかける声も鈴が転がる様に澄んでいて、実に耳に心地よかった。
「この度は、わたくしとの婚姻を承知して頂き、誠に嬉しく思っております」
「これより先、末永く暮らし、幸福も艱難辛苦も共にして行きたいと存じます」
「……わたくしも、あなたの様な殿方の妻となれて、幸せでございますわ」
さあ、儀式が始まる。新たな夫妻が手と手を取り合って、神像に結婚を報告し、それが終われば床入りだ。こんなにも声の美しい人の夫となれて、彼はさぞ幸せであろう。
「あの、少しお待ちください」
「何でしょう」
「わたくしはまだ、あなたのお名前を知りませんわ。ですからどうか、お名前をお教えくださいませんか?」
「……」
新婦の問いかけに、新郎は黙っている。じっとその瞳を開いて、不思議そうに紅蓋頭を被って表情を隠した彼女のことを見つめている。覆い越しに二人の視線が交じり合ったのが分かった。
「はい、わたしの名前は─」
その時、目にも留まらぬ速さで彼女が腰の短剣を抜き放ち、あろうことかそれを、『隣に立っているわたしの腹』に突き立てた。
「言うわけが無いだろう、妖魔。彼が……つむじ曲がりの、へそ曲がりの、性格が悪いぼくの奴僕が、名前を聞かれてはい、そうですかと教えるわけがあるものか。彼がぼくに名前を教えることがあるとすれば、それは、彼の方から教えてくれる時だ」
ぐっと剣が押し込まれると同時に、灼熱する様な痛みがわたしの頭を満たす。はらりと床に落ちた紅蓋頭の下に隠されていたのは─
何とも美しい、それよりも尚赤みを帯びた、凛然たる花嫁の眼であった。
腹に桃の短剣を叩き込まれ、驚きの表情で床に崩れ落ちる偽物の『名無し』をぼくは満足げに眺めていた。隣では、どこか釈然としない表情を浮かべた本物が、隣に倒れた妖魔の姿を観察している。やはり自分が殺されるところを見るのは少々決まりが悪いのだろうか。
「どこで分かったんです?」
「最初から。新郎の格好をしたお前が、そっくりに化けたこいつを連れて廟に入ってきた、その瞬間からわかっていたさ」
こいつは姿こそそっくりに似せることはできても、細かい癖や、何よりその人が相手を見る『眼差し』まで真似ることはできないのだ。二人並んだ『名無し』と同じ顔、しかし、彼らがぼくを見る時の『眼差し』は明らかに違う色を帯びていた。本当に見抜けるのかという不安、ぼくを気遣う優しさ、揶揄い、そしてほんのちょっぴりの─
「最後の質問は、どちらが偽物かを確定するためのある種の儀式に過ぎん。まあどっちみち、間違えても腹を木剣でどつかれるだけで、死ぬ気遣いは無かっただろうが」
床に落ちた紅蓋頭を拾い上げて、軽く埃を払う。一応母上が嫁入りの時に来ていた衣裳を着ている訳だから、蔑ろにはしたくなかった。
「そんなの、推理でもなんでもないじゃないですか。もしわたしが、ほいほいと自分の名前を教えていたらどうするつもりだったんですか?」
「その時はどちらもしばき回すつもりだった。それに、お前がぼくにそう簡単に名前を教えるわけがないことはぼくが一番理解しているよ。昔、満十二歳の誕生日を祝った時、お前が贈ってきた贈り物は何だった?」
「……本当の名前、と書いた封書を手渡しました」
「そうだ。うきうきしながらそれを開けたら、中には『昏君』の二文字。あの時ばかりは本当に叩き殺してやろうと思った」
「あれは渡す前に永暁さまが勝手に中身を盗み見ようとしたからです」
「いいや嘘だ。お前はきっと、これを本当の宴の時にも渡すつもりだったんだ。そうして、顔を真っ赤にしたぼくを揶揄って─」
ぐっ、げほっ、という苦しげな呻きがぼくらの言い争いを中断させた。見れば、倒れた偽物の『名無し』が大きな血の塊を吐き出し、少しずつ人から鳥の正体を露わにしていくところだった。鳥は恨めしげな眼でぼくらを睨み据え、
「あぁ、口惜しい。このわたしとあろうものが、偽の宴に踊らされることになるとは」
「もう少し良い化け方を学ぶべきだな。単に人の外面を真似るだけではいかん。人は、単なる見た目ではなく、ごく細かな振る舞いからも相手の本性を見定めるもの。ぼくの場合は、こいつの『眼差し』から正体を見抜いた。お前がぼくに向ける『眼差し』は、餌を目の前に来た獣の欲望と、他人の幸福を妬む怨霊の心に満たされていた。紅蓋頭を被っていてもはっきりと分かったさ。逆にお前は見抜けなかった、ぼくが彼にどんな『眼差し』を向けていたのか、彼がぼくにどんなそれを向けていたのか……目玉を主食にしていながらそれが分からんとは、つくづく哀れな生き物よな」
「妬ましゅうございましたとも、恨めしゅうございましたとも。わたしの前を通る幸せそうな人々の顔が、わたしは誰にも顧みられることがないのに、地上の輩はのほほんと生きておることが。だから眼を奪ってやろうと思ったのでございますよ。わたしを見ないものは、何ひとつ見えなくなれば良いと思って……」
「それはそれは。ぼくの心が東海の水のような同情に満たされていたとしても、まだお前に注ぐ量には足りそうもない。少しでも諦めることが出来たなら、幾万倍の幸福を得られたであろうに」
「怨みは、全てを怨みの中に溶かしていくのです。生きていく術も、目的も、何もかも」
「その細い嘴も、闇夜に紛れる羽も、それが為に変わっていったのか」
「ええ」
「あの夫妻は─お前が二番目に殺した夫婦は、いったい何故殺されねばならなかった。お前が飛べる様になる前に、ほんのわずかにお前の目の前を通ったというだけではないか。それすらも忘れられなかったのか」
「……」
もはや、鳥は答えなかった。人に化けていた最後の残滓を溶かし、ただの死んだ鳥となったそれを神前に供え、ぼくは簡単に弔いの言葉を述べてやった。時間は日の出少し前。東の空の遥かな地平に、最初の陽光が差し込む頃。飛び交う小鳥が最初の囀りを歌い出すのと同時に、ぼくらは廟から屋敷への帰路に着いたのだった。




