羅刹の鳥 三
翌朝。案の定血まみれになった蟒袍は、もう着られないだろうと洗濯係に匙を投げられてしまった。上に羽織る補服に損害が無かったのはせめてもの救いだが、あの袍は父王の形見でもある大切なものなのだ。最近ようやく寸法が合って来て、ぼくでも着られる様になったと言うのに、こんな形でお別れになるとは考えもしなかった。
「差し当たり予備の袍はあるが、悲しいものだな。なんとか出来ないか、色々と当たってみて貰えないか?」
「畏まりました」
『名無し』が京師中の洗濯屋に渡りをつけている間、ぼくは昨日のことについて考えを巡らせていた。妖魔が化けた二人目の花嫁、閨で両目を抉られた新婚の夫妻。思えば行列を進めている間にも変事があった気がする。
「(確かあれは、安侍郎の邸宅の前を通った時だったな)」
頭の中で京師内城の地図を描き、花嫁行列が通った経路を再度計算する。沙河門外の邸宅を出て大通りを抜け、内城に入り、それから─
「(安侍郎の邸宅の門前に差し掛かった時、砂煙を巻き上げた突風が吹き荒れた)」
あの風の時に、『何か』が花嫁に化けて入り込んだ。そして、その正体は─
「(現場に散らばっていた黒い羽、か)」
部屋に踏み込む直前にも、何かが羽ばたく様な音が響いた。と言う事は何か、鳥の化物の類なのだろうか。
「(詳しい人間を探して正体を探ってもらうかなあ)」
それにしても暑い、外から差し込んでくる日差しを出得る限り遮れる様に、色々な手を講じてはいるのだがいかんせん湿気が凄まじいのだ。煙草に火をつけることも満足に出来やしない。
「やれやれだな」
そう一人で呟きながら、煙管を火皿に掛けようとしたその時、
「永暁様、大変です!」
「おっと!どうしたんだ」
「今しがた、宣武門外の医者に担ぎ込まれた夫婦が亡くなりました!」
「何、蒋家の夫婦がか!?」
クソったれ、ぼくが縁付けた夫婦をこんなにも早く引き裂くとは、やってくれるじゃないか。思わず煙管がへし折れるのでは無いか、と言うくらいぼくはそれを強く握りしめたが、
「あ、いえすみません。言葉が足りませんでした、亡くなったのは別の夫婦です」
「何、それはどういうことだ?詳しく話せ」
「はい。実は先日、もう一件同じ様な事件が外城で起きていたのです。一ヶ月前に結婚した夫婦が、夜中唐突に何かに襲われ、両の目を抉られて倒れていたと。そして、夫婦の遺体には─」
彼はゴソゴソと巾着袋を漁る。程なくして、ぼくらが集めたのと同じ様な、真っ黒な長い羽が目の前に差し出される。
「あった。昨晩わたし達が集めた羽と同じ様なものが、ばらばらと散らばっていたそうです」
一晩のうちに、二軒の家を襲ったとでもいうのか?蒋家の夫婦を襲った後で、もう一つ新婚を襲って目を喰らった。だとしたら随分と行動範囲の広い妖魔だ。
「その詳しいところと名前は聞いて来たか」
「はい、宣武門街の商人夫婦で、名は─」
亡くなった夫婦の名前と住所を書き取ると、ぼくはすぐに立ち上がって、駕籠の準備をする様にと命じる。
「行くぞ、これ以上犠牲者が出る前にな」
「はっ!」
二組目の被害者は宣武門街で薬屋を営む一家の若夫婦で、跡取りの息子とひと月前、知り合いの油問屋から迎えたばかりの、若い嫁の組み合わせだった。二人の仲は大変に円満で、今年のうちには子宝に恵まれるだろうと誰もが期待していた中での惨事であった。ぼくは親王の身分を隠し、朝廷の命令を受けて怪死事件を調べている役人、と言う体で薬屋を訪ね、話を聞くことが出来た。
「昨晩はどうも、変な夜でした」
店先の掃除を担当していたという若い手代は、首を捻りながら昨日の夜更けのことを思い出していた。
「昨晩、若奥様はご近所の付き合いで、銭湯に行かれていたんです。そうして、お湯に浸かった後皆んなで食事をしながら麻雀を打って……お帰りになった時にはもう、亥の刻近かったかと思います。そして、若旦那と一緒に二階の寝室へ行かれたわけですけど……」
「お前はその後何を?」
「おれは盗人が入らない様に、寝ずの番として一階の帳場に居ました。この通り長い蝋燭を灯して、誰も入って来やしねえだろうな、と思っていたんですが、丁度寅の正刻の鐘がなった時でしたか、店の戸を叩く奴があるんです。『誰だい』って聞くと、若奥様の声で、『恥ずかしいことだけれど、離れの厠へ行こうとしてお勝手の鍵を開けたんだけど、帰る途中で鍵を落としちゃったの。明日の朝には探すから、ここを開けて頂戴』って。ああそうですか今開けますようって、開けてみたが、後から思えばあれがおかしかったんでしょう。お勝手に降りるんだったら、帳場にいるおれが気が付かねえはずはねえんです……で、開けてみりゃそこにはしどけない寝巻き姿の若奥様。ありがとう、といって静々と二階へ上がり、少ししてとんでもない悲鳴が上がって、バタバタバタッと何かの羽ばたく音、急いで見に行ってみりゃ」
「惨事があったと言うわけか。……その時、女将さんに何か変わったことはあったか?」
「暗くってどうも分かりませんが……ああいや、そうだ!」
「何だ?」
「口紅をつけていらっしゃいましたよ。何でかねえと不思議に思ってたんですが……」
その後ぼくらは現場になった部屋も見せてもらったが、これに関しては、昨日見た光景と余り変わり映えしないものだったので、詳細に語る必要も無いだろう。ただ一つ違っていたのは、蒋夫妻の部屋では開け放たれていた窓が、こちらでは乱暴に破られていたことくらいだろうか。恐らく昨夜は風通しの為に開け放たれていた窓からそのまま脱出できたのを、こちらでは閉めていた為に乱暴に破るより他になかったのか。
「何とも悲惨な現場だな。心から哀悼の意を表するぞ、主人」
「はは、ありがたいことでございます」
すでに六十を越しているらしい薬屋の主人は、襤褸雑巾の様になった身を屈めて、ぼくの言葉に感謝を示した。跡取り息子が嫁を迎え、ようやく店を引き継げると思った矢先のことだ。身も心も壊れてしまう寸前に違いない。
「(必ず仇は取ろう)」
そう心の中で誓いを新たにしつつ、ぼくは幾つかの点について彼に確認を取った。
「嫁はどこの油問屋から?」
「沙河門外の、懇意にしている油問屋からです」
「歳の頃は?」
「二十一です」
「気立ての良い女だったか?」
「ええ、ええ!わたくしの息子よりも十倍は優れた、良い嫁でございましたとも!」
「嫁入りの時、どの様な経路で来たか、思い出せるか?」
ぼくは調達しておいた京師の街路地図を懐から取り出し、主人に示した。指でどういった経路を辿ったのか教えて欲しい、と言うと、彼は記憶を手繰り寄せながらそれを教えてくれた。ぼくの予想通り、道筋は途中まで蒋家夫妻の嫁入り道と似た様な形を描いており、その途中には─
「(安侍郎の邸宅の門があるな)」
まさか、安侍郎殿が事件に関わっている?そんな考えが一瞬頭をよぎるが、ぼくはそれを振り払った。仮にそうだとしても、証拠も無しに六部の高官を告発するわけにはいかない。
それに、侍郎の様な高官の家にとって、蒋家の様な下級旗人を呪詛する旨みは全くないに等しい。
「(いずれにせよ、もう少し情報が必要だ)」
薬屋を辞去した後、ぼくは駕籠の中から『名無し』に言った。
「少し手分けをして調査を進めることにしよう。お前は二枚の黒い羽について、白雲観の老師方の意見を聞いてこい。ぼくは戸部に行って、安侍郎の邸宅の前歴について詳しく調べてみる。頼めるか?」
「心得ました……でも、大丈夫ですか永暁さま」
「何がだ?」
「わたしが居なくとも言葉が通じるか、少し心配なので」
「……流石に二、三人は、満洲語がわかる奴がいると信じたい」




