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春宵一刻値千金 四

 その日の夜。子の刻のほぼ丁度にぼくらは屋敷を出て、手始めに李儒徳邸の前で例の怪しげな駕籠を待ち伏せすることにした。季節は春の初めとはいえ、夜はやはり冷え込み、吹き荒ぶ東風も相まって体が震えてくる。


「暖かそうでいいですね、永暁さま」


「裏地が毛皮なんだ。この前ぼくが巻狩りで仕留めたものだぞ」


「わたくしの様な奴僕は裏地の無い木綿の薄い上着で我慢いたしますよ」


「そう僻むな、欲しいと言うなら黒貂でも白狐でも好きな獣の毛皮で服を仕立ててやるさ」


 そんな軽口を叩き合いながら、ぼくらは馬の上で時間が来るのを待っていた。夜の京師、どの屋敷からも明かりが落ち、びゅうびゅうと音さえ響かせる風の中に、人通りは全く無い。こんな時間に外出するものがあるとしたら、それこそ盗賊か妖の類だ。


「さて、鬼が出るか蛇が出るか─」


「永暁さま!」


 『名無し』が大路の向こう側を指差す。薄い靄がかかった門の先から、少しずつ、しかし着実に、しゃん、しゃんという不気味な鈴の音が近づいて来る。やがて現れたのは、四人かきの小さな朱塗りの駕籠で、青白い顔の男たちが前後に立って担いでいた。


「(まるで黄泉の国から来た様だ)」


「副都統殿が今駕籠に乗られました」


 門番は何をしている。まさに自分の主人が小さな通用口から出て行こうというのに、誰も止めはしないのか。


「眠っているのか、あ奴らは。いよいよ怪しいぞ、恐らくこれは、この世のものではあるまい」


「どうしますか?幽鬼が相手では、弓も剣も通じますまい」


「念のため外套の裏側に護符を縫い込んである。まさか、天子様からも寄進を受ける様な道観がインチキを寄越すわけがあるまいよ」


「ではもしインチキなら?」


「なら、ぼくの配下の連中に声をかけてすっかり道観を焼き払ってしまうさ。さあ、見失わない様に追うぞ、ぼくの背中を見失うなよ!」


 しっかりと手綱を取り、馬を前へと進ませる。書庫に引きこもってばかりだった頃は、動かすどころか鞍に乗るのさえ酷く難渋していたものだが、彼に連れられて練習をしている間に、いつの間にかすっかり技術が身についてしまった。今では父祖伝来の騎射の技量も身に付け、度々巻狩りに供奉して帝のお誉めに与っている。


「(と言っても、駕籠にしてはやはり速過ぎる。背負っているのも人間ではないな)」


 最初は静々と歩くほどの速さであったのが、いつの間にか馬にも劣らぬほどの速さで走り始めている。これをまともに追いかけていてはいずれ馬の体力が切れてしまうことは間違い無い。ぼくは箙から矢を一本引き抜いて弓に番えると、そのまま担ぎ手の足を狙ってひょうと射った。


「(命中!したが、止まる気配はないか)」


 矢は後ろの担ぎ手の足首を貫いたが、彼らは止まる気配を見せない。やがて周囲に烟る靄がより濃くなり、朝陽門を出て暫くしたあたりで、ぼくらは完全に駕籠を見失ってしまった。


「これはもうだめですね、永暁さま。帰りましょう」


「馬鹿かお前は。さっき何のためにぼくが矢を射たと思っている。よく地面を見てみろ」


 彼は言われるまま馬を降り、地面をよく観察していたが、ややあって、


「血と足跡があります。これを辿っていけば─」


「足跡の形はどうだ?」


「ハッキリしないので分かりませんが、恐らく人のものではありません」


 ぼくは自分も馬から飛び降りて、痕跡を確認した。思った通りだ。二本の指が大きく前に突き出ている。犬によく似た形だ。


「良かろう、速度を緩めてこのまま跡を追う。最悪、副都統殿の命に関わるやも知れんからな」



 血と足跡の痕跡は京師を離れ、川縁の小さな竹藪まで転々と続いていた。月だけが煌々と輝く夜の下、ぼくらはゆっくりと馬を歩かせ、竹藪へと近づいていく。すると、薄暗がりの中に仄かな灯りと、細くたなびく煙が上がっているのが見えた。ぼくは『名無し』を呼び寄せ、耳元で囁く。


「どうやら藪の中に家がある様だ。入り口に馬を繋いで中に入ろう」


「もうよして帰りましょうよ。これ以上は危険です」


「何、いざとなればお前がぼくを守ってくれたらいいだろう。その隙にぼくは逃げる」


「うわ、奴僕アハを見捨てるとかそれでも主人エジェンですか?」


 減らず口を叩き合いながらぼくらは藪のすぐ手前で馬を降り、手綱を繋いで中へと分入っていく。辺りはしんと静まり返っていて、フクロウの鳴き声ひとつしない。ややあってぼくらの前に、このうらぶれた場所には似つかわしくない見事な構えの門が現れた。中の屋敷からは美味しそうな食物の匂いが漂って来て、既に夕餉をたらふく食べたはずなのに、くうと腹の虫が鳴き出す。


「瓦葺の上朱塗りの門か。見事なものだな」


「やけに贅を尽くしてますね。少々気になりますが……」


「あのう、そこのお二人様」


 背後から声をかけられたぼくらは驚き、思わず四、五歩飛び退いた。見ればそこには下女らしき装いの女が提灯を持って立っていて、にこやかな笑みを浮かべている。彼女は柔らかい声で、


「この様な夜更けに、どこへ行かれるのですか?」


 ここはお前が答えるべきだろう。視線のみを交わして方針を決め、彼がぼくに代わって口を開く。


「実を申しますと、わたし達は京師に向けて旅をしている者です。本来ならば今日の夕刻には京師に到着することができた筈でしたが、厄介なことに道中事故に見舞われまして、この様な仕儀になってしまいました。このまま行くのも盗賊が恐ろしくて危うい、何処か軒先を貸してくれるところがないかと思っていたところ、この竹藪から灯りが見えましたので、どなたか住んでおいでなのかと思い─」


「まあそれはそれは、ご苦労なことでございます。でしたら直ぐにお部屋をご用意致しましょう。ご安心ください、今夜はもう一人お客様をお泊めしておりますけれど、一人も二人も変わりませんわ。直ぐに主人に取り次ぎますので、どうぞ中へお入りになってお待ち下さいな」


 下女に続いてぼくらは門を潜る。玄関先から部屋に行くまでの長い廊下を歩いている間、周囲は咽せ返る様な甘い香りで満たされている。しかし、やはり「臭う」。ぼくは隣を歩く彼に、押し殺した満洲語で語りかけた。


「おい、気がつくか」


「何にですか永暁さま」


「獣臭いのだ。やはりこの家は狐狸の巣だった」


 この家全体に立ち込めている不快な香り。間違いなく獣の匂いだった。巻狩りの時、馬で追い立てられている獣が放つ匂いだ。そして、この臭みには覚えがある。


「さあ、こちらでお待ち下さいませ」


 通された客間の椅子に座ると、すぐに良い香りのお茶と盆に載った茶菓子が運ばれてくる。下女たちの身なりはいずれも良く整っていて、裕福な暮らしを連想させる。壁の向こうからは歌舞音曲の派手な音と、女と男が戯れ合う笑い声がかすかに漏れ聞こえて来るが、ほぼ間違いなく李儒徳の声であろう。


「誠に申し訳ございません、今主人は別のお客様をもてなしておりまして」


「構わない。我らはここで待たせてもらおう」


 彼がぼくに代わってまた答えたその時、


「うぅうぅ……」


 低く唸る様な、苦しげな男の声が聞こえて来た。訝しげに眉を顰めるぼくの顔を見て、すかさず下女が、


「あれは我が家の駕籠かきでございます。お客様をお迎えに上がった時、不運にも賊に追いかけられ、足に矢を受けてしまったのですわ」


 どうやら、この家で間違いない様だ。通訳を聞いたぼくは確信を深め、内心ほくそ笑んだ。さて、あとはいかにしてこの家の正体を暴いてやろうか。そう考えていた。


「宜しければ、お客様のお名前をお教えいただけませんでしょうか」


 ぴくり、と『名無し』の肩が震える。彼はちらりとぼくの方を見た。そうだ、このまま黙っていれば、ぼくは彼の名前を知ることができる。仮に偽名であったとしても、彼を呼ぶ一つの名前を得ることができる。そうなればもう彼は『名無し』ではない。


 僅かな躊躇い。しかし、ぼくの口は自然と動いていた。


「漢語が話せないので満洲語で失礼する。わたしは当代の和碩瀏親王ホショイ・ボルゴ・チンワン永暁、字を紫雲、号を冰鳴という。正白旗満洲都統の職を預かる者だ。彼はわたしの奴僕で、名を聞くには及ばない。今夜は一夜の宿を借りることが出来て誠に助かった、いずれ厚く報いる旨主人殿に取り次いでもらいたい」


 通訳しろ、と肩を叩くと、彼は不承不承それを下女に伝えた。すると彼女の顔は見ているこちらが面白いほどに鮮やかに変わり、慌てて外へと走り出ていく。程なくして歌舞音曲が止み、忙しなく鳴り響く鈴の音が扉越しに近づいて来た。


「お待たせ致しました、只今我が主人をお連れしましたので、ご挨拶を」


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