時に届かぬ掌 三
白く平べったい漆喰の壁が剥き出しになっている細い廊下を抜け、突き当たりの厠で用を足した後、ぼくは扉を開けてふと、右手の壁に目をやった。白漆喰がずっと、奥の階段まで塗られている。その中にほんの少し、色の違うところがある様に見えた。
「(気のせいか、いや、気のせいだろうと信じたい)」
そう心の中で念じながらも、ぼくの指は壁をつつとなぞって、違和感の正体を見つけ出そうと動いてしまう。一歩、二歩、三歩……厠からちょうど七歩目の場所で、足が止まった。ここだ。真っ白な壁の中に一点シミが現れているように、微かな海鼠色の影がある。
「(丸い形が少しずつ下に広がっていって)」
形は歪だ。ぼくの手のひらより一回り大きいくらいの円形の影が少しずつ広がっていって、半尺くらいの場所で最も大きくなる。なぞっていく。広かったものは三股に分かれ、左右から挟み込む筋はだんだんと細くなり、やがて消える。残った方はそのまま続いて、また下の方で二股に分かれて……
「(ああ、これは、分かってしまった、くそっ、これはっ……!)」
その時だった。陰に触れたぼくの指先が奇怪な感触を捉えると同時に、ぼろり、とその部分が崩れ、黒い間隙が目に入った。その中に何があったのか、何がぼくを見返していたのか、もはやぼくには、何もわからない。
その後のことも、少しは語らなくてはならないだろう。半ば走る様に階段を駆け降りたぼくは、まだ呑気におしゃべりを続けていた『名無し』の腕を引っ掴んで、
「帰るぞ」
「え、あ、でもまだ色々と見るものが」
「いいから、早いところ帰るぞ!」
戸惑いつつも彼がそのことを主人に伝えると、
「そうでございますか、残念ですなあ、今夜の宿がお決まりでなければ、ぜひお泊まりをとお勧めしたかったのに」
ぼろりぼろりと、崩れていく様だった。彼らの笑顔の仮面が、あの壁の影の様に。ぼくの目の前で音を立てて崩れ、その裏側にあるものが濡れた目でぼくを見つめている様な気がしてならなかった。真夏であるはずの気温は遥か遠くに逃げてしまって、ぼくの体は凍える様な寒気に包まれてしまっていた。
「(主人だけじゃない、この店の奴全員が)」
そして恐らくは、あの娘もきっと。壁に現れたあのシミは、もしかしたら。
「では、世話になったな」
「またのお越しを」
玄関まで出てきて見送る連中から、ぼくらの姿が雑踏に紛れて見えなくなるまで、走り出したくなる衝動を必死で堪えた。そして、崇文門を潜るや恥も外聞もなく全力で屋敷の門まで走り抜け、居間に戻ると、汗だくの体を寝椅子に横たえて、やっと安堵のため息をついた。
「ど、どうしたんですか急に、永暁さま」
「……あの家は良からぬものの巣窟だったのだ」
「えっ」
ぼくは自分が感じた違和感、そして二階で見たもののことを洗いざらい、彼にぶちまけた。きっと怒っていたことだろうが、そうでもなければ正気を保てそうになかったのだ。彼は黙ってぼくの話を聞いていたが、やがて声を震わせながら、
「すぐに、手入れを手配しましょう。あの店がそんなにも、おかしいと仰るのなら」
彼も何処か、この事件に思うところがあったのだろう。ぼくは頷いて、すぐに魏員外宛に手紙を書いた。恐らくあなたの娘はあの店で……その様なことを書くのはとても心苦しかったが、書かざるを得なかった。手紙を送らせた後すぐに道観へ行き、邪気祓いを受けたのは言うまでもない。
そして数日後。ぼくのところにまた、返事がやって来た。震える手蹟で書かれたそれは、魏員外の罪と悔悟を如実に示す、恐ろしいものであった。
「殿下におかれましては、ご苦労をおかけしましたことを心よりお詫び申し上げます。全てはわたくしの弱さが招いたこととはいえ、一縷の希望に縋らざるを得なかったのです」
曰く、二年前の魏家はひどく金回りが悪く、長いこと報酬の良い─あるいは、賂を取れる様な官職が回って来なかった。そのせいで彼らは様々なものを削り、必死で暮らしを立てていたものの、どうにもし難いところまで来てしまっていたという。
「そこに、娘の縁談が来たのでございます」
崇文門外の祭具屋から、娘を嫁がせないか、という話が来た。曰くその筋では高名な店であり、持参金として提示した金額も申し分ない─言い換えれば、身売りの代金としては十分過ぎる額だった。
「しかし、それが間違いでございました。わたくし達の娘を送り出した後にそれに気がつくとは、なんと愚かしいことでございましょう」
娘を送り出した後、しばらくの間は幸運が続いたという。魏員外は持参金で運動を行い、官職の中でも実入りが良い塩政の職に一年つくことに成功し、莫大な財産を貯めて京師に戻ることができた。そして、今度は吏部の員外郎にも就任し、出世の緒を掴むこともできたのである。だが、その頃から少しずつ歯車が狂い出していた。
「時折窓の外から、妙な人影が見える様になりました。ニタニタと笑う人影が、ぼうっと現れたかと思えば、また消えます。しかし、常にわたくし達のそばに何者かの視線が付き纏うようになったのです。それは段々と近づいて来て、今ではわたくしの部屋のすぐそばに立っておるのです。こうして手紙を書いているすぐ横に、今もいるのです」
あの薄暗い部屋は、そんな意図だったのか。
「わたくしは、何に娘を嫁がせてしまったのでしょう。どうしたら娘を取り戻し、貧乏ではあったが、平穏な暮らしを送れていた頃に戻ることができたのでしょう。殿下、誠にご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。もう二度と、わたくし達が殿下の御前に現れることはないかと存じます」
手紙はここで終わっている。ぼくは『名無し』がそれを読み終えると、何も言わず煙管に火をつけた。そして、
「訴える意思が向こうにないのなら、ぼくに出来ることはもう何も無い、きっと、あれは見間違いだったのだ。あそこに人など埋まっているわけがなかった。そして、あそこはただ印象が悪いだけの─」
「永暁さま」
ぼくは煙管を放り出し、隣に座っている彼に身を寄せた。寒い。そうでもしなければ、恐怖で身も心も、すっかり凍えてしまいそうだったから。
……また少し経って。魏員外の屋敷を訪ねてみると、そこらすっかりもぬけのからになっていた。どこへ行ったのかと問うてみたが、知っている者は誰もいない。当人の言葉通り、今生でぼくが彼に会うことは、もう二度と無いのであろう。それから、もしも件の祭具屋に興味があるという人があれば、崇文門外の(墨塗り)街の(墨塗り)路地を抜けた先にある場所を探してみると良い。店はまだ、そこにある。