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春宵一刻値千金 一

 「こんなうわさを聞いたことがあるか」


 ぼくが目の前に座る彼に話しかけると、少し面倒気な視線が戻ってくる。本越しに向けられるその視線は、まさにいいところだった読書を邪魔するな、という抗議の意思に満ちていた。


「面白い話を聞いたのだ、『名無し』」


「そうですか、永暁さま」


 全く気が乗った様子のない素っ気ない返事。だが、決して今日は特別機嫌が悪いというわけではなく、いつもこの様な調子なのだ。


「漢軍正藍旗人(注1)の李儒徳という男を知っているか?」


「知っております。最近永暁さまの副官として正白旗付の将軍になった方ですね」


「その通りだ。その李殿の奥方からこの前書状を頂いてな」


 ぼくはすぐ側に置いてあった文箱から一通の手紙を取り出して、彼に示した。


「何でも最近、夫の振る舞いに怪しげなものがあるとか。このところ毎夜ごとに駕籠を立てて出かけ、明け方になってようやく屋敷に帰ってくる。そうしたかと思うと死んだ様に倒れ込んで眠ってしまうそうだ。しかも、服からは何やら奇妙な甘い匂いを纏わり付かせていて、家の中の空気が悪くなってしょうがないとか」


「そこで、もしご禁制の品物に手を出しているとか、或いは軍の仕事に穴を開けて処罰を受ける前に、上司である永暁さまにどうにかして頂きたい、と」


「そうだ。お前も知っての通り、当代の天子様は弛緩した朝廷の風紀を立て直そうとして居られる。先帝陛下の御代に寵愛された元大学士殿が誅殺されてからまだ日も浅く、多くの官僚は何れも背筋を正して職務に励んでいる。そんな中で、最も忠実であるべき八旗(注2)の将軍がこの様な有り様と世間に知られるようなことがあれば、お怒りはいかばかりか想像もつかん」


「当人は無論のこと、書類上の上司である永暁さまも処罰は免れませんね」


「そういうわけで、ぼくはこの一件について調査を引き受けざるを得なくなってしまったわけだ。そして、ぼくが調査をするということは、お前にもひと働きしてもらうことになる。勿論構わないな?」


 彼は眉根を寄せて見事な山の形を作った。やりたくない、という意思が前面に出て来ている。普段の大人らしさとは対照的なその表情に、思わずぼくの顔は綻んでいた。


「……まあ仕方ありませんね。もし永暁さまが解任ということにでもなれば、ぼくの給金が減らされてしまいますので」


「そういうことだ。では早速、李殿の屋敷に向かうことにしよう。駕籠と馬の支度はもうできているからな」


 ぼく達のところに奇妙な事件が持ち込まれるのは、随分と久しぶりのことだった。当代の帝が即位してはや五年、徐々にきな臭くなっていく世情の裏で、奇々怪々の輩共も動き出しているのだろう。京師ゲムン・ヘチェンを出て一里先にはもう、月の明かりさえ頼りにできぬ底知れぬ闇が広がっているのだ。それがじっと、おぼつかぬ足取りで歩くぼく達人を見つめているのである。


1…正藍旗(満:グル・ラムン・グサ)は八旗の一つ。

2…八旗(満:ジャグン・グサ)は大清帝国の初代皇帝ヌルハチ(天命帝)が創設した制度で、全ての満洲人を八つの『旗』に編成して統率した。後に清に降伏した漢人やモンゴル人も編入され、それぞれ『八旗漢軍』、『八旗蒙古』に組織された。

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