紅茶とアイスクリーム
いただきますと言って匙ですくってアイスクリームを口に運ぶ。
バニラの良い香りと甘さが疲れた体に染み渡る。
祖父は雪乃と明人に紅茶を新しく入れ直してくれた。
「支配人、カフェオレとはいえ夜中にカフェインは控えた方がいいんじゃないっすか?」
「ミルク多めコーヒー少なめだから。
それに今日はどうしたってうまく寝れないだろうさ。」
「明日までですもんね。」
雪乃が言う。
「ええ、本当に連日大勢来てくれてこんなに嬉しいことはありません。
昔から来てくれた方や閉館の噂を聞いて初めて来た方もたくさん。
ご年配の方からお若い方まで。
惜しんで下さってたくさん声も掛けて下さいます。」
「あの、私ずっと新卒からここの近くの会社に勤めてて、通勤途中にここの前を通るんです。もう何十年も毎日。
でも、中に入ったこと一度もなかったんです。
毎日通るのに、ただの一度も。
で、ネットで閉館する事を知って、行こうと思ってたんですけど、仕事忙しくてなかなか来れなくて、残業切り上げてやっと間際の今日来れて。見たい映画だったし。
古いからきっと椅子も固くて、空間も狭いんだろうなって思ってたんです。
でも来たらすごく椅子が座りやすくてびっくりして。
中も広くて全然想像と違いました。
人が多くて席も前の方しか空いてなかったんですよ。
普通、映画館の前の方の席ってスクリーンに近すぎて正直はずれじゃないですか?
でも座ったらスクリーンとちょうど良い距離なんですよ。
なんでかって言うと目線がちょうど良いし、スクリーンが大きすぎないんです。
目や首にあんまり負担が無い感じって言うか。
しかも足が伸ばせるぐらいゆとりがあって疲れにくいのがすごく良くて。
この映画館って前の席が当たりなんだってびっくりしました。
なんだろう、ケチケチしてないっていうか豊かだなって思ったんです。
本当に映画を楽しんで欲しいと思って建ててるんだなって思いました。
今まで映画は有名どころの映画館ばかり行って、すごい大画面で、臨場感溢れる音声で、
IMAXだとか、そういうのが映画館だと思ってたんですけど。
いや、そうじゃなくて、私にはこのサイズのスクリーンでちょうどいいんだって分かって割とカミナリに打たれた感じです。
一番好きな映画館見つけられたじゃんって思ったら、いやもう閉館じゃんって…。
さびしくなりました。
…毎日通っていたのに、行きもしなかったなんて。そしてこの年になると手の平からすり抜けるように色んな物が無くなる…。
なんだか、最近そんな事ばかりな気がして、
気分が落ち込んでいたんです。
あっすみません、長々と話してしまって…。」
「いえ…全くそんなことはありません。ありがとうございます。
とても嬉しいですよ。」
祖父は何度もうなずきながら答えた。
「なぁ、明人。」
祖父はそう明人に促したが、明人は声を絞り出しながらこう答えた。
「そうっすね、支配人。
…あぁでもさぁ、そう言われて確かにめっちゃ嬉しいんすけど、もうぶっちゃけ言っていいっすかね。
俺はねぇ…悔しいんすよ。
もっとみんながこの映画館に来てくれてたら
じいちゃんも父さんも映画館に関わる皆があんなにしんどい期間を過ごさなくて良かったのにって思って。すっごい大変なのそばで見てたからさ。
いや、ずっと通ってくれてる常連さんのことはもちろん忘れてないし、すごく感謝してる。
俺はこの映画館がずっと遊び場だったからさ、それでも人がだんだん少なくなっているの肌で感じてさびしかったんだ。
閉館だからってこんなに押し寄せてくれるんだったら、前からもっと来てよって、みんな勝手だよなぁって、俺はどうしても思ってしまうんだよなぁ…。」
テーブルに突っ伏して明人はため息混じりに語った。
少し間を置いて
「明人。」と祖父は静かに言った。
客の前でそんな事を言って怒られると思ったようで、明人ははっと身を正した。
「そんなのわしも一緒だぞ。」
「えっ…?」
「だから、わしだってこの映画館を離れれば、他の所に対してそういう態度であるということだ。
わしだって、ああ良いなと思っても何度も通っている所なんてさほど多く無い。
良いと評判を聞いても、実際行ってない所は山ほどある。」
「…うっ…言われてみれば、確かに俺もそうだな…。」
「そうだろう。物事というのはそう単純な事じゃない。
その施設が、店が無くなるのは…、
そうだな、時代の流れと言うより他にうまい言葉が見つからないんだ。
わしがこの年になるまでにどれだけの施設や店が無くなっていったか。
街の中がどれだけ目まぐるしくどんどん変わっていったか。
技術の進歩や人々の流行など色んな要素が絡み合うんだ。
それに、それこそ昔はな、戦争の空襲で突然全てが無情に無くなって、大切な命までも奪われた所がたくさんあったんだ。
長く生き残り、こうやって皆様にゆっくりお別れが言えることは、本当に奇跡と言っても良いんだ。
とても素晴らしいことなんだよ。
…分かるだろう?」
「…うん…。」
明人はうなずいた。
「…それに…
……いやーわしも見ましたよ!
あいまっくす!
あれはすごい!
本当に空を飛んでるみたいだった!
目は疲れましたが、あの臨場感は本当にすごい!技術の賜物だ!!」
祖父は先程の静かな口調とは打って変わり、腕を振り上げながら興奮を押さえきれないように話し出したので、他の二人は驚いた。
そんな二人を見て祖父は髭を撫でながら、
はっはっはっと笑う。
つられて二人も笑う。
「ははっなんだよ?!びっくりしたなぁ!」
「ふふっ…そっか、他の映画館も行くんですね。」
「ええ、もちろん勉強がてらに色んな映画館へ行きます。
昔に比べて本当に色んなジャンルの映画が増えました。
私は、映画館は適材適所だと思うんですよ。
この最新技術を使った映画ならこの映画館、このロマンチックな内容ならこの映画館とね。
もちろん映画によってそこでしか放映しない、いわゆる単館シアター系はありますが、
やはり映画館にはそれぞれ特徴があります。
そうそう、そういう単館シアター系も含めて昔からある映画館もがんばってます。最近ではなんと新しい映画館もこの街に出来ました!
この年になってもこれから先どんな映画が見れるかとワクワクしますよ。」
「ふふっそうですね。」
「うん、俺も今度公開する映画がめっちゃ楽しみなんだよな。」
明人が見たいという映画の話でひとしきり盛り上がった後、祖父は雪乃に向かって言った。
「近藤さん、今日見た映画はどうでしたか?」
「とても良かったです。私の中で大切な映画になりました。」
「それは良かった。
結局映画館はね、あくまで映画とお客様の橋渡しをする役割です。
私たちの人生はこれからも続き、映画はその合間のスパイスのようなものです。
現れては消え、消えてはまた現れる。
映画をこれからも愛してやって下さい。
忘れてしまっても全くかまわない。
でも、ふとした拍子にもし思い出したら、
その映画とともにその映画を見た映画館をどうぞ懐かしんでやって下さい。」