02 家族
思い切り伸びをしながら、大口を開けてあくびする。
良く晴れた朝の空気はおいしい。
空は雲ひとつなく抜けるように青くて、遮るもののない清らかな日差しがまっすぐに届いてくる。風は涼やかで、気持ちがいい。洗い立てのシャツに袖を通したみたいだ。レオは頭の上にあげていた手をすとんとおろし、ぐるりと首を回した。
「いい天気だね」
振り返ると、後ろの石造りの家から出てきた妹がまぶしそうに笑っていた。青い瞳をした妹のアシュリンは二つ下の十三歳だ。アシュリンは洗濯物の入ったかごを抱えていた。
「洗濯行ってくるね」
アシュリンが軽やかに言う。洗濯は、村にいくつかある共用の井戸でするのだ。
「うん、ありがとう。よろしく」
レオはわらってこたえた。
「いってらっしゃい!」
家の中から母のエリンが大きな声で言った。台所の窓から顔を突き出している。
「アシュリン、 井戸でゾラさんに会ったら」
「この前はおいしいパンをありがとうって、言っておくよ」
アシュリンがにこりとした。エリンはふふんと言って目を細める。
「さすが父さんの娘。よくできてるわ」
「ありがとう」
アシュリンは黄色いスカートを翻して林の中を歩いていく。
「……呼んだか」
家の裏からぬっと顔を出したのは父親のギルだ。アシュリンが振り返ってくすくす笑っている。レオも思わずふきだした。エリンは何でもないわよ、とすまして台所に引っ込んだ。ギルは首をかしげて、裏に戻っていく。家の裏には農具置き場がある。畑仕事の準備をしているのだろう。
なんでも若いころ、エリンがギルにほれ込み、ものすごい勢いで迫ったのだという。ギルがそれにほだされてふたりは結婚したらしいが、今でもふたりは仲良しである。ちなみにギルはレオやアシュリンをほめるとき、やっぱり母さんの子だというのがお決まりだ。
レオは腰を軸に上半身をぐるぐる回し、もう一度伸びをした。それにしてもゾラさんがくれたあのパンはおいしかったな、領主さまの館があるセントラムの街にある店のものだって言ってたっけ。なんだかよくわからないけど、上品な味がしたよな、都会ってやっぱり違うのかな……などと考えていると、アシュリンが駆け戻ってきた。
「ん? どうした?」
伸びたまま聞くと、アシュリンは石鹸忘れちゃったと言って舌を出した。家に入っていく。レオはその背中にああそっか、とこたえて空を見上げた。やっぱり青い。
よし、十分伸びたし、一仕事するか。
薪割りや畑仕事など、やることはたくさんある。働くのは好きだ。身体を動かすのも好きだった。
「……ん?」
レオは空を見上げたまま、目を細めた。今、視界の隅で何かが光った気がした。朝露みたいな澄んだきらめきではなくて、刃物のような、鈍い光だったような……。
アシュリンが家の中から走り出てくる。レオの横を通り過ぎ、林の中に駆け込んでいく。
「行ってきます!」
そのときだ。
「レオ、前に走れ!」
ギルの鋭い声が響いた。
普段物静かな父の有無を言わせぬ命令に、頭よりも先に足が反応する。レオはアシュリンの方へ向かって、一歩踏み出した。
あたりが白む。
「え……?」
つぎの瞬間、背後から突風が襲い、レオの身体は林に向かって吹き飛ばされていた。
木にぶつかり、どさりと地面に崩れ落ちる。
いったい、なんだ。みんなは、どうなった。
「父さん、母さん、アシュリン?」
砂埃がひどい。目を細め、腕を振り回しながらさがすと、アシュリンが少し先の地面にはいつくばっているのが見えた。そこかしこに洗濯物が散乱し、シーツがアシュリンの身体に絡まっている。慌てて立ち上がって駆け寄る。
「だいじょうぶか?」
アシュリンの横にひざまずいて顔を覗き込む。でも、アシュリンはレオを見ていなかった。
「お、お兄ちゃん……」
唇から、震えるような声が漏れる。
アシュリンは、家の方を見ていた。レオは振り返った。視界をかすませる砂ぼこりの向こうを見て、レオは愕然とした。
家は、崩れていた。
家を形作っていたはずの石が、無残に地面に転がっている。そしてあるべき場所よりずいぶん低く落ちた煙突が、限界を迎えたようにがらがらと崩れ落ちた。
どうしてこんな。何があった。地震なのか。
一瞬、頭の中が凍り付く。でもレオは、無意識に立ち上がっていた。
「父さん、母さん!」
あの中に、あの近くにいたのだ。助けないと。
「ああっ!」
アシュリンが悲鳴を上げる。はっとアシュリンを振り返った時、再び目の前が白くなった。閃光が走ったのだと理解した瞬間、アシュリンに体当たりするようにすがりつかれた。
「お父さん! お母さん!」
咄嗟に腕の中に抱き込んだアシュリンがもがきながら絶叫する。家の方を見た瞬間、ひゅっと喉が鳴った。
家の残骸は粉々になり、その中に、ふたりが倒れていた。ギルは、エリンに覆いかぶさっていた。ふたりの下に、大きな赤いしみが広がっている。
レオは立ち上がり、アシュリンを引っ張った。何が起こっているのか全く分からない。でも、ここにいてはいけないと、強烈に思った。逃げなければならない。アシュリンを守らなければ。
「走るぞ」
目を見開いてアシュリンは首を振る。
「お父さんとお母さんが!」
レオは唇をかんだ。
そのとき、視界の隅で何かが光った。まずいと思った刹那、座り込んでいたアシュリンが立ち上がった。その手を引き走り出そうとする。しかし妹はレオの手を振りほどき、背中にしがみついてきた。
「おい……っ」
その勢いのまま、地面に倒れこむ。レオは首を巡らせた。
「おい、アシュ……」
続きの音は喉の奥へ消えた。
赤い。
どうして、赤いんだ。
アシュリンの背中は、べったりと染まっていた。黄色のスカートまで、重たそうに濡れている。
「お、おにいちゃん」
アシュリンがレオの背中からずるりと落ちる。かすれる声を絞り出していた。
「にげて」
首をもたげ、アシュリンはレオをにらみつけている。
レオはアシュリンの腕をつかんだ。
「兄ちゃんがおぶう」
「だ、め」
アシュリンはゆるく首を振った。
レオはそれを無視した。アシュリンの力の抜けた身体を抱き起す。
「に、げて、お、おにい、ちゃん……」
閃光が走る。そばの太い木々が、折り重なるように倒れる。地響きのような音と衝撃があったはずなのに、何も感じなかった。何も聞こえなかった。
ただ、目の前が赤かった。アシュリンの血の色だった。
***
とても、静かだ。
人の営みの音は、村から消え去っていた。誰も笑わない。泣かない。言葉を発することもない。息をする音すらしない。でも、鳥はどこかで鳴いていた。
まわりに倒れた木々が、引きちぎられたような痛々しい切り口をさらしている。木々の亡骸の向こうに、崩れ去った家と折り重なった両親がみえている。
その中でレオは、動かないアシュリンを抱えていた。
涼しい風が吹いて、アシュリンの前髪を揺らす。日の光が、慈しむようにさしてくる。
レオには何もわからなかったし、わかろうとも思わなかった。
ただ、アシュリンを支えて宙を眺めていた。レオにとっては時間がたっているのかどうかも定かではなかったし、自分が生きているのか死んでいるのかもはっきりしていなかった。どうでもよかった。どうでもいいとすら思っていなかった。
とても、静かだ。
ふとその静寂を、何かが破った。
何かがレオの前に横たわる木のそばを横切るところだった。それは人だった。小柄な、少年だった。レオと同じ年ごろくらいだろうか。ひどく重たい足取りで、引きずるように一歩一歩進んでいる。着ている白いシャツと褐色のズボンにも、飴色の髪の毛にも、赤黒い跡がついている。レオはその姿を見るともなく見ていた。
不意に、少年がレオのほうを見る。少年が立ち止まり、目が合う。少年は、背格好より幼げな顔立ちをしていた。でも、その目は何も映していないように見えた。暗い穴のようだ。その目は、愛らしい顔立ちと不釣り合いだった。
少年は光のないその目でレオの目を見た後、アシュリンに一瞥をくれた。そしてかすかに、眉を寄せる。口が少し、動いた。でも、そこから声が漏れることはなかった。
少年は緩慢な動きで前に向き直り、再び歩き出した。それからしばらくして、また静けさがあたりを包んだ。
なにが。
空っぽの頭の中に、ふとそんな言葉が転がる。
いったい何が起こったんだ。
ぎらっと光って、それで。
思考はそこで途切れた。
蝶が飛んでくる。黄色い小さな蝶だった。蝶はアシュリンの鼻先にとまって、そしてまた飛び立った。
日差しが強くなってくる。日はずいぶん高いところにあった。
それでもとても、静かだ。
自分の身体が、その静けさの中に溶けだして消えてしまいそうだった。しかし飲み込まれそうな静寂は、やがて踏み破られた。足音が、聞こえたのだ。何人かの足音だ。近づいてくる。声もいくつか聞こえる。男の人が話すような、低い声だ。
それでもレオは、ひたすらアシュリンを抱えていた。
「……生きてる」
誰かがつぶやいた。
気が付くと目の前に、倒れた木を隔てて背の高い青年がいた。さらさらした金髪の、きれいな顔立ちの人だった。目はアシュリンよりも薄い、空のような青色をしていた。群青色の軍服をまとい、同じ色のマントをなびかせている。腰に帯びた剣がちゃらりと音を立てた。その人は座り込んだレオと視線を合わせるためかひざまずく。青空の瞳はかなしげに曇っていた。
「遅くなって、すまない」
なにかをこらえたような平たい声で、その人は言った。