11 現実
小鳥のさえずりが聞こえる。
なんだか、いい匂いもしてくる。
これは、野菜の出汁がたっぷり染み出したスープの匂いだ。
レオは身体を起こした。開け放たれた窓から、柔らかな日の光が差し込んでいる。レオの寝ていた寝台の隣には、何もなかった。寝台ひとつ以外は何もない部屋だった。
とてもしあわせで、かなしい夢を見た。
あれは、夢だった。
そして今いるのが、現実だった。ここはルプスの詰所だ。
レオは首を巡らせて、はっとした。身体がずいぶん楽になっている。信じられないくらい重かった手足も、もう動かせそうだ。レオはゆっくり身体を起こした。頭がくらくらしたけれど、起き上がることは十分できた。
どれくらい眠っていたのだろう。開けられた窓から見える空の明るさから、朝か昼だということだけはわかる。ふと部屋の隅に目をやったレオは、ん、と眉をひそめた。
部屋の隅には背もたれのない椅子が置かれ、そこに軍服姿の青年が座っていた。長い脚を組んで壁に寄りかかり、顔は下を向いている。眠っているようだ。
「……ジュードさん?」
しわがれた声が出た。
ジュードがすっと顔をあげる。
「ああ、起きたか」
ジュードはさして驚きもせずに言った。
「おはよう」
レオは頭を下げた。
「おはようございます」
ジュードはうなずくと、椅子から立ち上がって近づいてきた。
「もう起き上がれるんだな。気分はどうだ」
「はい、ずいぶん楽です。気分もいいです」
夢の余韻を振り払うため、レオはかれた声で明るくこたえた。
「そうか」
ジュードは青い瞳でレオを見る。見透かすようなまなざしから目をそらして、レオは聞いた。
「あの、おれ、どのくらい寝ていましたか。村はどうなっていますか。軍の人たちは?」
ジュードはしばらく黙った後、教えてくれた。
「おまえは一度目が覚めてから二日間眠っていた。パトリア村もサクスム村も、今はもう静かだ。新たな被害も出ていない。軍の者たちは詰所前の広場で野営している。村に入っての埋葬も始まっている」
「でもおれ、おれが、村をめちゃくちゃにしたって」
「そうだな。軍の者たちはおまえを疑っている。しかし心配もしている者もいる」
思わぬ言葉にレオは息をのんだ。
ジュードは表情を変えずに言う。
「蔦が暴れだしたとき、わたしたちを救ったのはおまえだからな」
「そんな」
それだけで、疑って当然の人間を心配してくれるのか。レオは両手を握りしめた。
ジュードは涼しい顔をしていた。
「わたしも今は、おまえが人殺しをしたとは思っていない。話を聞いてから決める」
レオはうつむいた。どうして、そうなのか。ジュードもルースも、心配してくれる人たちも。確かに人々の命を奪ったのはレオではない。
でもおれは、実際村を壊したのに。
信じようとしてくれる。
父さんも母さんもアシュリンも。
生きていてくれてうれしい、だなんて。
違う。あの夢はきっと、自分の都合のいいように作られたものだ。だってレオは何もできずに家族も村の人たちも死なせた。そのあと村をめちゃくちゃにした。
生きてていい、やつじゃないんだ。
動くがれきや蔦を倒したとき、自分にできることがあったと思った。でも違った。壊しただけだった。
腹の底で、何かがぬるりと動く。熱くなる。
「おいレオ」
ジュードに呼ばれ、レオははっと顔をあげた。
「もう何日も食べていない。飯を食え」
「え……」
「持ってくる」
ジュードは部屋を出て行こうとして、振り返る。
「よく戻ってきたな」
ジュードの青空の瞳がレオをしっかりとらえている。
何のことだかわからなかった。
確かめるより早く、ジュードは部屋を出て行ってしまった。
***
ジュードが持ってきてくれたのは、野菜と鶏肉が入ったクリームスープだった。野菜も肉も、ずいぶん小さく切られているうえ、煮崩れてくたくたになっていた。
「一晩中暖炉の火にかけていた」
レオの寝台のそばに椅子を持ってきて座ったジュードは、淡々と言った。スープはジュードが作ってくれたらしい。
口に含むと、とろりとしたスープはいたわるように身体に流れ込んできた。
やたらと小さくなった具は、自分のためだとレオは気づいた。ずっと食べていないのに、急に固形物が押し込まれたら身体がびっくりしそうだ。いつ目が覚めてもいいように、レオに合わせた食事を作ってくれていたのかもしれない。
「ありがとうございます」
レオは言った。出そうと思ったよりも小さな声しか出なかった。
ジュードはぴくりと眉を動かす。
「まずくはないだろう」
「ありがとうございます」
「簡単にできる」
「ありがとうございます」
頑固にお礼を言い続けるレオを見て、ジュードは仕方なさそうにふっと口元を緩めた。
「ファーガスさんが教えてくれた」
「ファーガスさんが?」
ジュードはファーガスの顔を思い浮かべた。そういえば、まだファーガスに、剣を勝手に酷使したことを謝れていない。
「ルプスで、交代でおまえのそばにいたんだ」
ジュードは言った。
「食事を作るときはこれを作れと、教えてくれた」
レオは器を取り落としかけた。
ジュードがさっと受け取ってくれる。
「どうした、無理に食べなくてもいい」
レオは唇をかみしめた。
おれみたいなやつのために、こんなに親切にしてくれる。
おれは違うのに。
生きていてもいい人間じゃないのに。
「よく戻ってきたな」
ジュードが言った。
「よく、戻ってきた」
レオは自分の手のひらに爪を立てていた。何も痛くはなかった。ジュードがレオの手を見る。
「そんなふうにするな」
ジュードは窓辺に器を置くと、ポケットから小刀を取り出して鞘を払った。
自分の脚に、突き立てようとする。
戦慄したレオはジュードの腕にとりついた。
「やめて! やめてください!」
大きな声を出したせいで、せき込む。
「うん」
ジュードはレオの背をさすりながら言った。
「わたしもやめてほしい」
レオは目を見開いた。
「わかったか」
レオはうなずけなかった。
そのとき、部屋の戸が開いた。
「レオ! だいじょうぶか!」
咳がおさまってきたレオが戸の方を見ると、ファーガスがいた。その後ろから、ルースが顔をのぞかせる。
「だいじょうぶですよ」
ジュードが言う。
「どうしておまえがこたえるんだ!」
ファーガスが叫ぶ。
「交代の時間ですね」
ジュードは口調をぶらさない。
「薄情だな、そうじゃないのはよく知ってるけど」
ファーガスがぶつぶつ言いながらやってくる。
「レオ、よかったな、目が覚めて」
ファーガスはレオの頭を撫でてくれた。