10 夢路
小鳥のさえずりが聞こえる。
なんだか、いい匂いもしてくる。
これは、野菜の出汁がたっぷり染み出したスープの匂いだ。
レオは身体を起こした。開け放たれた窓から、柔らかな日の光が差し込んでいる。レオの寝ていた寝台の隣には、同じような寝台が三つ仲良く並んでいる。
寝台は三つとも空だったが、階下からは話し声が聞こえる。
「アシュリン、バターをとってくれる」
「はぁい」
「レオはまだ起きないのかしら」
「よく寝ているな」
「わたし、起こしてこようか?」
「そうね、鼻つまんでやりなさい」
「うん」
ああ、そうか。
レオはかぶっていた布団をぎゅっと抱きしめた。
全部、悪い夢だったんだ。
よかった、夢で。
大きな安堵に身体が震える。
それにしても、ひどい夢を見たものだ。
まあいいか、夢なんだし、忘れよう。
一階から、階段を上ってくる足音が近づく。
「お兄ちゃん? まだ寝てるの?」
アシュリンが言いながら部屋に入ってきた。
「あ、起きてたんだ。おはよう」
目が合うと、アシュリンはにっこり笑った。
「おはよう」
レオは布団をたたみながらこたえた。
「寝てたら、鼻をつまんで起こそうと思ってたんだけどなあ」
アシュリンはわざとらしく語尾を伸ばして、くすくすと笑う。
「聞こえてたよ」
にやりとすると、アシュリンははっと口を覆った。
「本当? 残念。今度寝坊したら鼻つまんであげるからね」
「わかった。おまえが寝坊したらくすぐって起こす」
「わたしは寝坊しないもの」
アシュリンはスカートを揺らして身をひるがえし、先に階段を下りていく。
「お兄ちゃんも珍しいね。いい夢でも見てたの?」
続いて階段を下りるレオを、アシュリンが振り返る。
レオは肩をすくめた。
「うん。なんかすごく……そう、よくわからない夢だった」
「ふうん?」
アシュリンは首をかしげながら笑った。
「そういうとき、あるよね」
そう。そういうときはあるのだ。わけがわからないくらい恐ろしい夢を見るとき。だから気にすることなんてない。アシュリンはこうして、目の前でいつものように笑っているんだから。
一階におりると、ギルとエリンがいた。食卓の上では木の皿によそわれたスープがおいしそうに湯気を立てていた。ギルは食卓について厚く切ったパンにバターを塗っている。エリンは水差しから全員分の器に水を注いでいた。
「おはようお寝坊さん」
エリンが水の入った器を差し出してくれた。
「おはよう早起きのみなさん」
レオは言って、水を一気に飲み干した。すきっとした冷たさが身体に染みる。
「たまには寝坊もしないとな」
ギルが穏やかに言う。
「じゃあ今度、お父さんが寝坊していいよ」
アシュリンが言った。
「次はお母さんね」
エリンが楽しそうに笑い声をあげる。
「順番に寝坊するの? 面白いわね」
「うん。それで次はお兄ちゃんね」
レオは首を傾げた。
「アシュリンは、いつ寝坊するんだ?」
「わたしはいいの。早起きが好きだから。それに寝坊したら、お兄ちゃんにくすぐられちゃう」
それを聞いたギルとエリンが顔を見合わせて笑う。
レオはあわてた。
「兄ちゃんだって早起きは好きだぞ。今日はたまたまだよ」
「へえ?」
「今度寝坊したら、鼻つままれるんだろ……」
アシュリンがけらけらと笑いだした。レオは大笑いするアシュリンをくすぐろうと手を伸ばしたが、華麗によけられた。みんな笑っていた。
「じゃあ、朝ご飯にしよう」
ギルが言った。ギルはいつも通り、全員分のパンにバターを塗り終わったようだ。
「おなかすいたね」
アシュリンが椅子に座る。
レオも食卓についた。レオの隣にギル、向かいにアシュリンがいて、アシュリンの隣にエリンが座っている。四人で命の恵みに感謝して、朝ご飯を食べる。琥珀色のスープには野菜と豆がごろごろと入っていた。エリンが豪快に切って入れるのだ。具は大きいほうがうれしいでしょう、といつもエリンは笑う。匙ですくって口に入れると、野菜の優しい甘さが口の中でほどける。レオはほっとした。
「今日はいい天気だな」
ギルが言った。
「そうね、よかったわ」
エリンがパンをちぎりながらこたえる。
「雨が降ったら、ちょっと大変だもんね」
アシュリンも言った。
「何が?」
レオは皿から顔をあげてたずねた。
何が大変なのだろう。確かに、天気がいい方が仕事もはかどるし、気分もいいけれど。
すると向かい側のアシュリンがふわりと笑った。その笑みは、いつもの朗らかな笑顔とは少し違っていた。
「今日、いくから」
アシュリンは言った。
「どこに?」
レオは問うた。
「わたしたち、いかなきゃいけないのよ」
エリンも静かにそういった。
「そうか」
レオはうなずいた。
「わかったよ、荷物はおれが持つから」
エリンがそっと首を振る。
「あなたは、いかないの」
レオは匙を持ったままエリンを見つめた。
「レオは、連れていけないの」
母の言葉の意味が分からない。
「なんで?」
エリンが少し困ったように微笑んだ。いつも明るいエリンのそんな顔を見るのは、初めてのような気がした。レオは焦った。
「なんで。みんな行くんだろ? じゃあおれも行くよ」
「だめだよお兄ちゃん」
アシュリンが言った。
「お兄ちゃんはいっちゃだめなところなんだよ」
諭すような言い方だった。
「だったら、みんなも行ったらだめだ」
レオは立ち上がった。何とかして止めなければと思った。それか何とかして一緒に行こうと思った。ひとりだけおいていかれるなんて考えられなかった。そんなの、それじゃあまるで。
見ていた悪い夢と、同じだ。
レオはギルを見た。
「ねえ父さん」
ギルが、レオの肩に手を置く。大きくて分厚い手だ。ギルはいつもと変わらず落ち着いた深い声で言った。
「レオ、父さんと母さんとアシュリンはな、もうおまえと一緒にいられないんだよ」
父は普段から、大事なことしか言わない人だった。その言葉は、重い、最後の宣告だった。ギルはレオの目を見て続ける。
「でも、おまえはひとりではないよ」
ひとりだよ。
ひとりになってしまったんだよ。
おれも一緒にいきたかったんだよ。
おれひとりだけいけばよかったんだよ。
みんながいってしまうことなんて、なかったんだ。
「助けてくれる人は、必ずいるからな」
ギルはレオの肩を寝かしつけるように何度も優しくたたく。
「レオ」
エリンが立ち上がって、レオの後ろに回った。エリンはレオを後ろからそっと包み込んだ。
「あなた、もう母さんより大きくなって。父さんに似て男前なんだから。外見も中身もね。だから胸を張ってね」
「外も内も男前なのは、母さんに似たからだよ」
当たり前のようにさらりと言うギルを、エリンが軽くたたく。
「ちょっと黙るのよ」
「すまん」
アシュリンも飛びついてきた。
「お兄ちゃん、わたしうれしいよ」
なにが。
何も、うれしくなんかない。
「お兄ちゃんが生きててくれて」
悪夢ではなかったことなんて、わかっていた。
今いる世界の方が夢なんだって、わかっていた。
だってみんなは死んだから。
もう、いないから。
会えるはずがないから。
「ありがとうな」
ギルが言った。レオを後ろから抱きしめたエリンと、レオの右腕にひっついているアシュリンと、立ち尽くすレオをまとめて腕の中に包む。
「ありがとうな」
ギルは繰り返した。
暖かくて、優しくて、しあわせで、ちぎれそうなほど、苦しかった。