竹山天皇
大正14年、静岡県浜松市の天王町に住んでいた農家の男性である竹山稔は、自宅から古文書と神器らしきものを見つけた。この地で長慶天皇が亡くなったという内容であった。それ以外の内容は不明だが、竹山はそれ以後、郷土史家に問い合わせるなどして、自分自身が大覚寺統の長慶天皇の子孫であると信じるようになっていったようだ。そして昭和15年にはその旨の本も出版したらしい。
そして当時の宮内大臣の一木喜徳郎に「われこそ天皇である」という手紙を幾度も出して認めてもらおうとしたものの、一木が彼の家を訪ねてきて「そんなこと出来るわけないだろう。いい加減にしろ」と叱られたという。
大臣が真偽不明の事柄でわざわざ一市民のところを訪問したという嘘くさいエピソードなのだが、少し調べてみると面白いことを発見した。
一木喜徳郎は生まれは岡田家であるが幼少時に一木家の養子となっている。そして喜徳郎の実弟である純平は生まれてすぐ竹山家に養子入りしたそうだ。つまり一木喜徳郎と竹山稔は親戚だった可能性がある。
竹山家は静岡県浜松市の名家で一族からは社会的地位の高い人物が多く生まれている。有名人としては『ビルマの竪琴』の作者・竹山道雄がいる。また、元TBSアナウンサーの竹山恭二は近年竹山一族についての本『平左衛門家始末』を出版している。だがその中に稔の名は発見できなかった。宗家ないしそれに近い家の生まれではなかったのだろう。
名家の蔵になんらかの資料が残っている可能性は高い。だが竹山家が名家となったのは江戸時代であり、それ以前の後南朝からのこととなると、竹山本家の人間がその発見で何らかのアクションを起こさないのはおかしい。なお、竹山宗家に伝わる家系図では先祖は藤原氏ということになっている。しかし、江戸時代に作成された家系図ゆえにその信憑性には疑問がある。また、竹山一族は浜松藩の天王村の庄屋兼神主であったが、現在にも残る天王町の天皇宮(大歳神社に統合されている)の御祭神は南朝の天皇を含む大覚寺統の天皇である。つまり南朝と全く無関係であるとは言い難い。
竹山稔は一木に叱られた後、今度は内大臣に何度も手紙を送ったが返事は色よいものではなかった。また、戦後になって、世間を騒がせた熊沢寛道が頼った南朝史研究家・藤原石山に対して、私が天皇になれるような証拠を何とか作れないものかと頼む内容の手紙を送った。だが藤原が、では神器を見せてくれと頼んだのを渋ったためにその願いは叶わなかった。
彼は天皇の夢を見ながら昭和30年に亡くなった。その墓碑には、おそらく本人の意向であろう「大覚寺統寛成天皇子孫」と刻まれたという。