長浜天皇
平安時代末期、壇ノ浦の戦いにて、平家の敗北が確定的となると女船に乗っていた幼き安徳天皇は、平家の女性に抱かれて入水し、その命を落としたと伝えられている。
ただ歴史的資料としての価値の高い『吾妻鏡』『玉葉』において、その死は曖昧に記されている。そのため、安徳天皇の生存伝説が各地に残されることになった。その中の一つが鹿児島県の硫黄島である。
硫黄島はかつては鬼界ヶ島と呼ばれ『平家物語』や『吾妻鏡』にも記載されている流刑地だった。そこに壇ノ浦の戦いで敗北した平資盛(彼もまた定説では壇ノ浦の戦いで自害したことになっている)らが天皇を守りながらこの島に漂着。かつて流刑に処された武士が建てた熊野神社を皇居としてひっそりと余生を過ごしたのだという。
安徳天皇はやがて平資盛の娘を后とし、地名であった長浜を氏として代々熊野神社を守った。また、三種の神器のうち二つは紛失してしまったが、鏡だけは残され神社に保管された。これが事実ならば源氏武者が取り返した神器の鏡は偽物ということになる。
熊野神社は鎌倉時代以降、島津家によって保護されていたが、江戸時代後期、神器がここにあるのは危険なので借りていくと書状を残して無断で借りられていったようだ。このことを熊野神社が知るのは昭和初期になって歴史研究家が無理矢理頼んで神器を見せてもらおうとした時だ。そこでこの借りパクの事実を知り、熊野神社の宮司は返却を申し出たが島津家は知らぬ存ぜぬと言うばかりだった。
これだけならよくある眉唾ものの伝承ではあるが、その後、島津家に残された資料が発見され、本当に借用の事実はあったらしい。だが借りられていった神器の行方は不明である。
そしてこの返却を要請した宮司の子である長浜豊彦が、昭和25年頃に戦後の自称天皇ブームに乗っかるように名乗りを上げた。マスコミによって長浜天皇と呼ばれたが、長浜の目的はあくまで熊野神社に伝わる系図と家宝を本物だと認めてほしいというもので、野心はなかったようである。もともと地元の人々から親しみを込めて「天皇さん」と呼ばれ、それなりの尊敬を受ける立場の人物だったようだ。
そして熊野神社の近くにある天皇の御陵とされる場所は宮内庁から陵墓参考地として指定された。
その後、長浜政風という人物が「長浜家の本家の人間は私だ」と名乗りを上げ、安徳天皇の伝説について本を出版している。また、豊彦の息子は天皇関連で騒がれるのが嫌なようで自分の家系について子供に語り継いでいくいくつもりはないと語っている。